『論語』と新旧約聖書についてのノート

 

西京 論語読書会 小田光男(アジアのとうふ代表)

 

 

一、『論語』は孔子の主要な実績ではない

二、旧約聖書と新約聖書の、ユダヤ教とキリスト教の位置づけについて〜比較のために

三、アマチュア学者としての孔子

四、結語

 

 

西京元西陣小学校で開催されている論語読書会に出席している私が、発想の赴いたところをノートにしたものです。

 

以下は、論語勉強会に出席する私の、全くの独断によるノートにすぎません。

学術的に合っているかといえば、合っていないと思います。

だが、論語は、二千年の古典です。

すでにありとあらゆる読み方が無数の人の手によって試みられて来たのであり、これからも試みられるだろうし、そしてそのような試みによって論語の評価が大きく変わるほど新奇で儚い書物ではない。むしろ、今は新たに読む試みを付け加えることが、古典が錆付いて生命を失っていくことを防ぐであろうことを、私は強く信じています。古典にとってもっとも辛いことは、後の時代の読者から批判されることでは断じてなく、読者を得られず、無視されることではないでしょうか。

 

二〇一一年八月


『論語』と新旧約聖書についてのノート

 

 

一、『論語』は孔子の主要な実績ではない

 

天下には、君王から賢人まで数多い。それらは生きている当時は栄えるが、死ねばそれで終わってしまう。孔子は布衣(ほい。無位無官の庶民)でありながら、現代まで十余世代に渡ってその教えは伝わり、学者はこれを規範と仰いでいる。天子王侯から始まり、中国で射・御・書・数・礼・楽の六芸について語るものは、孔夫子を規準としている。至聖というべきだ!

(司馬遷『史記』孔子世家)

 

 

『論語』は、現在誰でも知っている。

 

そして、この書物が孔子とその学派の主張のアルファでありオメガであると、現代人は受け止めて読んでいる。

 

他にも儒家のテキストはたくさんあるが、現代ではほとんど一顧すらされない。辛うじて『孟子』が副読本として読まれる程度であり、あとは少し儒教の歴史に詳しい人間ならば、朱子が四書として選定した『大学』『中庸』に手を伸ばすぐらいが、せいぜいである。いわゆる「六経」と呼ばれる、易・礼・楽・詩・書・春秋といった儒家のテキスト群は、これら四書を越えて膨大な分量であるが、現代人にとっては奇怪な古代の資料集として眼前にあるにすぎない。人がいざ向学心に燃えて、『論語』かあるいは『孟子』あたりを読んだ後で他のテキスト群に当たってみても、現代に通じる教訓はほとんど何も得られず、空しく中途で本を閉じるばかりであろう。

 

しかし、時代を遡ってみれば、『論語』は儒家の最重要のテキストではなかった。

『孟子』にも『荀子』にも、『論語』というテキストの名前は出て来ない。ましてや孔子と門人の言行録である『論語』が、孔子一門の最大の業績であるなどとは、どこにも書かれていない。もちろん、上記の諸文献には、孔子と弟子たちの言葉がふんだんに引用されている。その中には『論語』と一致するものもあれば、『礼記』に準ずるものもあり、さらには他の文献に見られない独自の言葉もかなり引用されている。しかし、それは儒家の創始者である孔子と直弟子たちの言葉を尊重するがゆえに、引用されているまでである。イエス・キリストやムハンマドのごとくに、創始者の発した言葉そのものが掟として信じられなければならない、といった西洋の諸宗教における創始者の言葉への姿勢とは、少なくとも孟子や荀子の時代では、同じとは言えなかったはずである。

 

孔子が創始した儒家が古代において自負していた最大の業績は、礼(れい)・楽(らく)・詩(し)・書(しょ)と呼ばれる古代宮廷文化を、後世に保存継承したところにあった。

 

文王既に没す、文はここにあらざらんや。(『論語』子罕篇)

 

−周の文王は、すでに死んだ。だが、文化は、この私(孔子)の中にあるではないか!

 

儒家の主張するところによれば、文化継承の仕事は孔子が始めたことであって、孔子は衰退していく古代文化を時代においてただ一人体現していたがゆえに、突出した存在だった。六経は、孔子が始めた儒家の古代宮廷文化継承作業の結晶である。そこで展開された礼・楽・詩・書の総体を学ぶのが儒家であり、礼・楽・詩・書の総体を学んだ儒家は古代の聖王が治めた黄金時代の統治体制を学んでいるがゆえに、帝王の師となる資格を持っている。これが、古代において儒家が君主に売り込むべき、具体的な効能であった。

 

『荀子』の中で全力を挙げて礼の体系が最高の統治術として説明され、秦の始皇帝が儒家のことを礼楽の専門家としてだけは少なくとも期待していたことは、古代で儒家が何を自学派の売り物として、国家からは主に何が儒家に期待されていたかを、よく表している。そこでは、孔子や弟子たちが何を言ったかどうかなどは、副次的な問題でしかない。古代の時代状況では、『論語』だけが突出して孔子の業績として顕彰されるような事態は、生じるはずもなかった。そうしたのは、ずっと後世の程子や朱子ら、宋代新儒教の徒が行ったことである。

 

しかしながら、儒家思想にとって、一つの幸運なことがあった。

 

後世に残された孔子と弟子の言行録は、単なる古代宮廷文化の解説にとどまらない、何かしら倫理的な要素を含んだ、しかも一定の倫理体系が背後にあることを予感させる言葉の群が多く含まれていた。

『論語』の中では明らかな体系として語られてはいないが、確かにその言行録の中には、人間倫理の方向性が感じられた。孔子の後継者の中で、その人間倫理の方向性をより明確に体系化しようとしたのが『孟子』であり、それゆえに『孟子』は古代においては儒家のテキストの中で重要視されなかった。上に引用した漢代の司馬遷が孔子の業績として讃えたことは、礼楽をはじめとした古代文化を後世に伝えたところであった。

 

ずっと後世の宋代になって、程子や朱子らの全く古代から切断された時代を生きた学者たちによって、『論語』および『孟子』の価値は、はじめて絶大に高められるところとなった。

 

程子や朱子らにとって、遠い時代の六経の古代文化よりも、時代を越えて読むことができる倫理的主張のほうが重要であった。当然のことである。宋代の儒家が仏教や道教に対抗するために、中国固有の思想として儒家思想を称揚することができたのは、『論語』や『孟子』が後世に残されていたからであった。それは彼らにとって、まことに幸運なことであった。

 

儒家思想は、宋代の学者が行った倫理学的純化を通じなければ、とてもそれから後の時代を生き残ることができなかったであろう。さらに言えば、日本や李氏朝鮮のような文化も言葉も違う外国に輸出されることも、不可能であっただろう。中国から発生しながら、倫理的純化を経なかった道教は、決して中国を越えることができなかった。対照的に、儒家思想は『論語』『孟子』に凝縮された倫理学によって、辛うじて国際性を持つことができたのである。もっとも、儒家思想は漢字文化とあまりにも分かちがたく結びついていたために、漢字文化圏を越えることは、ついにできなかったが。

 

ともあれ儒家思想は、創始者の孔子が示した倫理的な要素によって、ただの古代宮廷文化のテキストとして歴史の中に埋もれ去るべき運命から、免れることができた。『論語』は、その孔子の言行録ゆえに、他の儒家テキストが歴史の中に埋もれ去ったにも関わらず、時代と文化を越えて普及することができた。

 


二、旧約聖書と新約聖書の、ユダヤ教とキリスト教の位置づけについて〜比較のために

 

見よ、主はあなたがたに安息日を与えられた、、、おのおのその所にとどまり、七日目にはその所から出てはならない。

(旧約聖書『出エジプト記』第16章)

安息日に出ていくことには、家のなかにいる者たちに二つの(あるいは四つの)種類があり、家の外にいる者に二つの(あるいは四つの)種類がある。[T]貧しい人が外にいて、家主が家のなかにいるとき、貧しい人が手を家のなかに伸ばし、家主の手のなかに(何かを)入れるか、あるいは、彼がその手から(何かを)取って、それを外に持ち出したなら、そのときは貧しい者に(安息日違反の)罪がある。[U]、、、[V]、、、[W]、、、

(ミシュナ第二篇「祝祭日(モエド)」の「安息日(シャバト)」1・1 荒井章三訳)

 

人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ち込んだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである。」

(新約聖書『マタイ福音書』第12章)

 

 

 

古代文化を保存継承することが本来の目的であったにも関わらず、後世の人間に倫理的主張の源泉としてみなされたテキストの別の例として、ユダヤ・キリスト教の聖書と比較してみたい。

 

聖書についてよく知らない人でも、聖書が「旧約聖書」Old Testamentと「新約聖書」New Testamentとから成っていることは、ご存知であろう。もっとも、これはキリスト教による呼び方であって、ユダヤ教では旧約聖書のことを単に「聖書(タナッハ)」と呼ぶだけである。なぜならば、ユダヤ教にとっては「聖書(タナッハ)」だけが根本聖典だからである。新約聖書とは、ユダヤ教から分かれたキリスト教が、イエス・キリストが説いた教えを「新しい契約」New Testamentと考えて、付け加えたものである。キリスト教徒は、ゆえにユダヤ教の「聖書(タナッハ)」を「古い契約」Old Testamentと捉えて、神の子イエス・キリストの宣言によって乗り越えられた古い掟であると考える。いっぽうユダヤ教徒は、イエス・キリストによって「聖書(タナッハ)」の掟が乗り越えられたなどとは、断じて認めない。

 

旧約聖書の本来の編集目的は、「律法」(トーラー)を後世に伝えるところにあった。

「律法」とは、いにしえのユダヤ人が唯一神ヤハウェとの契約によって授かった、神聖なる戒律(ミツヴォット)の集合である。

「律法」の具体的な条文は、旧約聖書の冒頭に置かれた5つのテキストに述べられている(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記。併せて「モーセ五書」と呼ばれる)。これらのテキストは、物語形式を取りながら、唯一神ヤハウェがアブラハムからモーセに至るまでのユダヤ人の歴史的な長たちに対して、唯一神への信仰から道徳律、食事や日常生活の規範に至るまで、ユダヤ人が守るべき戒律を啓示した内容となっている。旧約聖書は、これらの「律法」と、モーセ以降のユダヤ人の歴史、ユダヤ人の危機の時代に神の啓示を受けて警世の言葉を告げた預言者たち(ネービイーム)の言葉、それから若干の文芸作品と教訓集から成っている。これらのテキストはユダヤ人の王国が亡ぼされたバビロン捕囚(紀元前587年)以降の時代から伝承の編集が始められて、時間をかけて完成された。イエス・キリストが現れた紀元1世紀には、すでに現在の形が出来上がって、ユダヤ人の規範の源泉となっていた。

 

「律法」は、ユダヤ人の文化の根源をなすものであって、ゆえに歴史上ユダヤ人はいつでもどこでもこれを守り通すことによって、他民族と自分たちを隔離して選ばれた民としてのアイデンティティを保ち続けた。紀元70年にエルサレムのヤハウェ神殿がローマ軍によって破壊されてから以降のユダヤ人は、「律法」を守るかどうかをユダヤ人の唯一のアイデンティティとして、むしろ磨き上げていった。こうして、世界中のどこの土地にいても「律法」を守ることによってユダヤ人である、という彼らのアイデンティティが確立された。

 

紀元1世紀以降、ユダヤ教の律法学者たちは、後世に「タルムード」と呼ばれるようになった「律法」に関するさらに膨大な伝承集(ミシュナ)と注釈集(ゲマラ)を、テキスト化していった。ミシュナは、上の例に見るように、「律法」に書かれた戒律を具体的な状況に即して解釈した行動規範(ハラハー)の集まりから成っている。ハラハーにまで噛み砕かれた「律法」に毎日の生活を従わせることこそが、世界中のどこにいてもユダヤ人のユダヤ人たるゆえんであるとして、保持されるようになった。それは、エルサレム神殿の破壊以降、世界中のユダヤ人にとって「律法」が民族のアイデンティティとして重要性が増したゆえの活動であった。

 

以来ユダヤ人たちは、「律法」とその周囲に積み上げられたタルムードを学んで守ることが、信徒としての最良の行為と考えられるようになった。だがそのようなユダヤ人の「律法」にまつわる膨大な文化は、遠い異文化異教徒の者にとっては、ほとんど理解も習得も困難な体系である。上の『出エジプト記』に規定された安息日の戒律と、それに付け加えられたミシュナのほんの一部を見ていただければ、ユダヤ教の体系について大雑把な気分は、掴めると思う。

 

しかし、そのようなユダヤ人の固有文化の集成である旧約聖書は、背後に確固とした倫理的世界観を備えていた。

食事のタブーや安息日の規定といった、部外者にはどうでもよいような「律法」の群れの間に、確かに文化と時代を超えて訴えかけるべき、倫理的な「律法」があった。

 

このユダヤ教の倫理的世界観から、現世の国家の不正を糾弾して支配者階級に対して神を畏れるべきことを説いた預言者たち(ネービイーム)の言葉が発せられた。エリヤ、アモス、イザヤ、エレミヤといった預言者たちは、ヤハウェ神からの啓示を感じ取って、「律法」に込められた正義の道を取らなければ、神の罰がユダヤ人に下るべきことを、彼らが生きた当世の人間たちに警告して回った。実際に歴史的ユダヤ人は男神バアル・女神アシラといった農業の神々をむしろ喜んで祀って一神教をおろそかにし、また神のしもべとして平等であるべきユダヤ人が経済的繁栄の中で貧富の格差がはなはだしくなり、羊飼いから神託によって即位したダヴィデ王の子孫である王朝は、エジプトやアッシリアと同様の専制権力を臣民に振りかざしていた。彼ら預言者たちは民衆のために語るが民衆の出自とはいえず、むしろ上流階級のバックグラウンドを持っていた(*)。そうでなければ自民族の文化に関する理解には及ばなかったであろう。しかし彼らは知識人であったがゆえに、あえて自分たちの文化である「律法」の根本精神と現実を見比べて、批判の言葉を発することに努力したのである。

*)マックス・ヴェーバー『古代ユダヤ教』第二章二十三「記述預言者の心理学的・社会学的特質」を参照されたし。

 

そのような倫理的世界観を受け継いで、ユダヤ人固有の「律法」を棄てて神への信仰から来る良心にだけ従うべきことを説き始めたのが、他ならぬイエス・キリストに始まるキリスト教であった。

上の『出エジプト記』の下に引用した、『マタイ福音書』のイエス・キリストの言葉を見れば、イエスの説いた立場の一端が分かるかもしれない。ただし、イエスはここで「律法」に融通を利かせて運用しろ、などと説いているのではない。「律法」を守ることは、もはや心の信仰にとって何の価値も持たない、ということを突きつけているのである。

 

キリスト教は、ユダヤ教から発展し、その倫理的世界観だけをエッセンスとして継承してユダヤ人文化から切り離されたことによって、世界宗教となることができた。

 

イエス・キリストは、ユダヤ人の「律法」の専門家から離れた立場から、自らの教説を行った人物であった。

イエスの当時、「律法」を最も厳格に研究していた集団は、パリサイ派(パリサイ人)と呼ばれていた。新約聖書にキリスト教徒の敵として表れるこのパリサイ派は、やがてその研究成果が「タルムード」に集成されて、ユダヤ人の「律法」のスタンダードを確立していった。彼らは、だから正当なユダヤ人文化の継承者であった。

イエスはしかし、歴史に現れてからはパリサイ派とも論争できるほどの「律法」の知識を披露して、彼らと「律法」の精神について論戦した。人々は、正規の学問も受けていないはずのイエスの見識に、驚くばかりであった

 

この人は、この知恵とこれらの力のあるわざとを、どこで習ってきたのか。この人は大工のむすこではないか。

(『マタイ福音書』第13章)

 

しかも、彼は「律法」の精神をパリサイ派と論じながら、あえて「律法」を破る行為を繰り返してみせた。

それは、ユダヤ人の枠を乗り越えた人道的見地から「律法」を破ってみせた行為であって、パリサイ派といった知識人階級の振りかざす形式だけの正義を、攻撃する挑発行為であった。イエスは、ユダヤ人の教養を十分に持ちながら、知識人階級の流儀を踏み外して批判する目を持っていたのである。

 

そのようなイエスの精神を、最もよく受け継いだのが、パウロであった。

 

しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現わされた。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこには何の差別もない。

(新約聖書『ローマ人への手紙』第3章)

 

イエスが十字架に掛けられた後、原始キリスト教の教団は、イエスと同じ文化を共有する各地のユダヤ人の中で、勢力を増やそうと努力した。

そのときパウロは、イスラエルの外で布教する旅に出た。だがイスラエルの外の小アジア、ギリシャ、ローマに出れば、そこにはユダヤ人だけでなく、ギリシャ人やガラテア人など非ユダヤ人で新たに信徒となった人々もすでに大勢加わっていた。

そのとき、ユダヤ人の固有文化である「律法」を非ユダヤ人に押し付けるべきか否かで、路線の対立が生まれた。イエスの親族であるヤコブは、非ユダヤ人のキリスト教徒は割礼を行うべきであるという意見に、同調した。割礼は『創世記』でアブラハムが息子のイサクに行ったと書かれている「律法」の一つであり、それはユダヤ人文化の要の一つであった。

 

しかし、パウロはそれを否定した。非ユダヤ人に福音を伝える立場であった彼は、ユダヤ人の固有文化である「律法」を守ることの中に神の義があるわけでなく、心の中の信仰だけに神の義があり、それだけが人類普遍の福音である、と主張した。そうでなければ、ユダヤ人とは文化の違うギリシャ人やローマ人に、キリスト教が受け入れられることは、きっとできなかったであろう。どちらの路線が勝利したかは、現在のキリスト教を見れば分かるであろう。

 

三、アマチュア学者としての孔子

 

そもそも六経に説かれる教えは、平易正確で、深い意味をもち、永遠の人と人との間の基本的な道徳がすべてそこにそなわっている。しかしながら、『論語』『孟子』を完全に理解した上でこそ、六経から学ぶことが、益になるものである。それに反すれば、六経は、内容のないものになってしまって、今の役には立たないものとなる。それは、夏・殷・周の時代の祭器は机上に飾ることはできても、日常の用に供することはできないようなものだ。

(伊藤仁斎『童子問』より。貝塚茂樹訳)

 

 

 

再び、孔子に戻ろう。

 

孔子の創始した儒家において、もし『論語』に(たまたま)凝縮して表れたような倫理的要素がなかったとすれば、それは古代社会を超えて受け継がれることは、なかったであろう。ましてや、中華文明を越えて、日本や李氏朝鮮など違う社会において受容されることは、できなかったであろう。

上に引用した伊藤仁斎の言葉は、儒家が本来保存継承しようとした古代宮廷文化は、時代と文化を隔てた江戸時代の日本においては、机の上の遺物にすぎないことを、言っている。仁斎は、『論語』に、それから古代儒家テキストの中で唯一『論語』に(たまたま)凝縮して表れた倫理的要素を体系的に論じた『孟子』に、自らの共感できる対象を見出すことができた。時代と文化を越えることができたのは、古代の儒家にとっての主要な業績である六経ではなくて、その業績の背後に隠れていた、倫理的要素であった。

 

では孔子は、ただ古代宮廷文化を蒐集したという実績があるだけであるにも関わらず、どうして『論語』に垣間見られるような、倫理的要素を持つことができたのであろうか。

 

私は、その原因として、孔子が決して礼・楽・詩・書という古代宮廷文化の専門家ではなかったところに、見出したい。変なことを言い出すと思われるかもしれないが、私はそう思いたいのである(以下の孔子像は、浅野裕一『孔子神話〜宗教としての儒教の形成』から啓発を受けました)。

 

孔子は、周王朝や諸侯の宮廷文化にあずかることなどできない、貧賤な身分の出自から出発した。

『孔子世家』に書かれている系図など、信用するに値しない。イエス・キリストもまた、彼から1000年前に即位したユダヤ人王朝の開祖ダヴィデから連なる系図が福音書に記載されているぐらいである。教祖の系図を作る心情は、おそらく洋の東西で変わらない。孔子の前半生において確かなことは、彼が自ら若い時代に賤しい身分であったことを、告白しているところである(吾、少きとき賤し。故に鄙事に多能なり。[論語、子罕篇])。

 

そんな彼は、年少時から当時の宮廷文化である「礼」を必死に学ぼうと試みた(吾十有五にして学に志す。[論語、為政篇])。おそらく彼は、それが低い身分である自分にとって、地位を向上させることができる手段であると思って、行ったことであろう。貴族階級たちと違って、彼にとって頼るべきものは、自らの才能と努力しかなかったはずである。

 

孔子の「礼」に関する学問が、師弟関係を通じた正規の伝授ではなくて独学であったことは、弟子の子貢が暴露している(夫子いずくにか学ばざらん、而して亦何の常師かこれ有らん。[論語、子張篇])。

常師がないとは、さすが秀才の弟子であった子貢はよく言い換えたもので、彼の師である孔子には、披露すべき正規の学問的伝授の系譜を示すことができなかったのである。

 

孔子が、宮廷文化の本場である周に行って「礼」を学んだ師匠がよりによって老子であるという伝説がある([史記、孔子世家])。それどころか、孔子が礼について老子から教わった内容を語っているエピソードすら、儒家の文献にある([礼記、曾子問篇])。

後世に道家が孔子を老子の下流に貶めるために作ったに違いないこのような伝説が、否定もされずに後世に伝わっていることは、反証すべき確かな「礼」の師弟関係を孔子が持っていなかったことの、ひそかな証拠となるだろう。

 

孔子は、魯国の開祖である周公旦を祀る大廟に出席を許されたとき、その「礼」について事々に質問して、貴族に一笑に付された。要は、正規な「礼」の詳細な内容について、正規の伝授を受けていない孔子はよく知らなかったのである。([論語、八佾篇]

 

孔子は、三十代後半になって、斉で音楽官である太師の下に学ぶ機会を得た。そのとき舜の音楽を聴いて、三月肉の味を知らなかったという([論語、述而篇])。

肉の味を知らなかったのは感動のためなのか、必死に学ぼうと志したためなのかは、分からない。しかし、舜の音楽という「楽」の要というべき文化をこの壮年時になって初めて聴いたということは、彼の若い時代の学習環境がいかに本来の宮廷文化を知りえない状況に置かれていたのかを、暗に示している。

 

こうして『論語』などから孔子のエピソードを拾っていくと、孔子は「礼」の宮廷文化を官職として正規に伝授された、「礼」の職業的専門家のコースを辿っていなかったことが見えてくる。孔子は若い頃から独学して、独行により次第に一派を立てたのである。

 

そのような独学を積んだ孔子が「礼」に対して取った研究は、はるかな昔の夏・殷王朝の「礼」について、多分に想像を交えた再構成にすら踏み込む、自由さがあった([夏礼は吾能くこれを言かんとすれども、杞徴すに足らざるなり。殷礼も吾能くこれを言かんとすれども、宋徴すに足らざるなり。文献足らざるが故なり。[論語、八佾篇]]

八佾篇のこの章や、為政篇に収録された孔子と子張との夏・殷・周王朝の「礼」制度に関する論議を見ると、孔子の礼・楽・詩・書という古代宮廷文化に対する学問的態度は、現実に存在している文化を忠実に学ぶというよりは、想定した理想に合わせて想像で補って再構成してみせるものであった。孔子のこのような独学による学問は、宮廷文化の正規な伝承から大きく踏み外したものであったと、言わざるをえない。いわば、アマチュア的な学問であった。

 

しかし、そのようにいわばアマチュア的な「礼」の研究を重ねたことによって、孔子は「礼」の中に、単なる伝統文化や儀礼を越えた、道徳的内容を感じ取る機会を得ることができたのではなかっただろうか。

 

上層階級にとって「礼」は当たり前のしきたりである。

彼らは、取り立ててそれらのしきたりの中に道徳的意義など見出すことなど、きっとなかったであろう。

しかし低い身分から成り上がろうとした、身分不相応の「礼」の研究者であった孔子には、かえって伝統文化の奥に麗しいいにしえの道徳秩序を予感することができたのでは、なかっただろうか。正規の伝授を受けず、体制の中で学ぶことが許されなかった孔子だからこそ、アマチュアゆえに儀礼の意義を感じ取る視点を持つことができたのでは、ないだろうか。そしてそれこそが、時代にとって革新的な教えであった。

「礼」の文化の中に道徳を見出すという破天荒な学問を創始した孔子は、彼と境遇が似通っていた身分の低い出自の弟子たちを、集めていった。そしてついには魯や斉の貴族階級までもが、次第に孔子の学問に注目せざるをえなくなった。

孔子のアマチュア学問は、かくて一世を風靡するようになったのであろう。孔子はアマチュアであったがゆえに、むしろ専門家より時代を先んずる視点を持つことができたのではないだろうか。

 

孔子は大成するにつれて夏・殷・周三代の「礼」の復元作業に熱中するようになり、しかもそれと並行して道徳による社会改革を夢見るようになった。その両者は、彼にとって矛盾なく共存していたに違いない。もっとも、しょせんそれは、想像の行き過ぎであった。いざ現実に社会改革に乗り出そうとした孔子は、周知のとおり現実から袖にされた。孔子は現実政治では何もできずに、生涯を終えた。それは、彼の賤しい出自から見れば、しごく穏当な結末であった。

 

しかし、孔子の「礼」に対するアマチュア学問が見出した、宮廷文化の背後にある道徳の精神は、はるか後世にまで影響を及ぼす射程を持っていた。

 

古代における孔子の直接の後継者たちは、孟子にせよ荀子にせよ、古代宮廷文化の専門家として生きざるをえなかった。

すでに孔子の時代から遠く離れて、古代宮廷文化そのものがアナクロとなり始めた時代においても、孟子や荀子は「礼」を国家に装備させるべきことを説き続けた。もっとも、孟子は「礼」を道徳の範囲内で分析して、それを「仁」「義」の道徳と並列し、道徳論をより前面に打ち出した。荀子は、「礼」を国家統治のシステムとして分析して、政治経済学の文脈で「礼」の意義づけを行った。両者はともに、それぞれの仕方で、時代のニーズに合わせて「礼」の意義づけを孔子からずらしていった。

 

そして、時代が下って宋代になると、古代の儒家のテキストの中から、『論語』が突出して輝き出すようになった。

孔子が本来熱中して学んだ対象であった礼・楽・詩・書を記録した六経は、すでに宋代には大方がアナクロな古記録と化していた。しかし単なる語録にすぎなかったはずの『論語』は、後世の読者にも訴えかける力を持っていた。孔子が単なる「礼」の継承者でなく、「礼」の背後にある道徳の精神を見出すアマチュア研究者であったゆえに、彼の研究成果よりもむしろこぼれ落ちた語録が後世にも読むに耐えるものであったという、皮肉な巡りあわせとなった。

 

朱子は、六経の中から辛うじて後世の読書人にも読むに耐える倫理書とみなすことができる部分を取り出し、『孟子』『大学』『中庸』を『論語』と並べて、これを四書と称した。この選定は、時代の変化に応じたものであった。

 


四、結語

 

孔子は、アマチュア学者であったがゆえに、「礼」の背後にある倫理の重要性を感じることができた。

だが彼が生涯を掛けた「礼」の研究は、しょせん時代と文化を超えることができなかった。

現代人にとって、「礼」の研究の成果である六経は、(今これを書いている筆者のような)歴史愛好家を除けば、読まれるべき価値を失っている(*)。時代と文化を超えることができたのは、孔子がアマチュアゆえに古代宮廷文化の背後に感じ取ることができた、倫理だけである。そんな孔子の六経と『論語』との関係を、西洋におけるユダヤ人のためのテキストである旧約聖書と、そこから信仰の原理だけを抽出して民族文化を乗り越えたイエス・キリストの新約聖書との関係に比べたとき、何らかのヒントが得られるのではないだろうか。本稿は、そんな予感の上に立って、一区切り書いてみたまでである。

 

しかし、東西の違いはある。

イエス・キリストとその信徒たちは、意図的にユダヤ人の掟を乗り越えようとした。他方で孔子とその信徒たちは、古代宮廷文化の「礼」を尊重しながら、同時にその文化の背後に倫理を見出そうとした。

イエス・キリストとその信徒たちの教説は、時代や民族に固有の文化に積極的な意義を見出すところがない。イエス・キリストから1500年経った後のドイツで、マルティン・ルターがローマ教会の贖罪符販売に対して異議を唱えたとき、その倫理的根拠となったのは、聖書の教義へのラディカルな理解を通じてであった。

 

だから、司祭や僧侶のするように、身体が聖衣を着たところで、たましいには何の助けにもならない。また身体が教会や聖所にいても同様であり、聖物を扱っても同じである。また身体で祈り、断食し、巡礼し、さらに身体によって、また身体においてたえず行われるようなすべての善行をしても、やはり無益である。たましいに義と自由をもたらし与えるのは、それとはまったく異なったものでなければならない。

(ルター『キリスト者の自由』より、塩谷饒訳)

 

いっぽう、『論語』を読む者からは、ルターのラディカルさを求めることは、到底できはしないだろう。『論語』八佾篇にある告朔(こくさく)の餼羊(きよう)についての論議が、時代や民族に固有の文化への、『論語』流の解答である。

 

子貢が、魯国の宗廟に毎月捧げる告朔の餼羊の儀式を、廃止しようと思った。孔子は言った。「おまえは、いけにえの羊がもったいないと思ったのだろう。しかし私は、廃止によってなくなってしまう「礼」が、もったいない。

 

古代中国の宮廷儀式である告朔の餼羊などを、現代の日本人にとって理解することは、『論語』の読書の本質ではない。ただ、時代や民族に固有の文化は、無碍(むげ)に軽視するべきではない、という感覚を、『論語』のこの章から感じ取ることができれば、読書として成功なのである。

*)だから荻生徂徠は、と孔子本来の教えは礼楽の研究の中にしかなくて、それなのに朱子や伊藤仁斎のように『論語』を後世の道徳観から称賛する姿勢を、孔子本来の教えからの逸脱として批判した。しかし、孔子が行った古代宮廷文化研究の成果を、後世の日本人が異文化として追体験するべしという徂徠の視点からは、結局何の倫理的な読み方も現れることはなかった。結局徂徠に始まる古文辞派の徒が、その古代中国社会研究の成果を現代社会の政治経済の研究に置き換えて、徂徠やその弟子の太宰春台のように倫理を抜きにした実証研究を進める道を選んでいったのは、彼らの学問として必然のコースであった。

 

 

 

 

 

(この稿の参照文献)

 

孔子がアマチュア学者でなかったか、という視点は、以下の著作から啓発を受けました。

浅野裕一『孔子神話〜宗教としての儒教の形成』岩波書店、1997

 

ユダヤ教については、以下の著作から啓発を受けました。

マックス・ヴェーバー『古代ユダヤ教』内田芳明訳、岩波文庫、1996

荒井章三『ユダヤ教の誕生〜「一神教」成立の謎』講談社選書メチエ、1997

 

キリスト教の時代と文化を超えた意義については、マルティン・ルターの以下の書などから啓発を受けました。

ルター『キリスト者の自由』

同『ガラテア書講義』

いずれも、『世界の名著23 ルター』松田智雄責任編集、中央公論社、1979年に収録