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   <title>べるもっと・じん。のBLOG</title>
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   <subtitle>日本・韓国・台湾・大陸中国を含む東北アジア文化圏を、多角的に考えています。政治、経済、古典文学、現代文化、食文化、旅行記。</subtitle>
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   <title>学而篇　子曰道千乗之国章</title>
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   <published>2011-07-12T21:19:55Z</published>
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   <summary>子の曰（のたまわ）く、千乗の国を道（おさ）むるには、事を敬（つつし）みて信、用を...</summary>
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      <name>ODA</name>
      
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      <![CDATA[<font style="font-size:large; font-weight:bold;color:blue;">子の曰（のたまわ）く、千乗の国を道（おさ）むるには、事を敬（つつし）みて信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。</font>


<strong>［現代語試訳］</strong>

<font style="font-size:midium; font-weight:bold;color:blue;">孔先生が言われた。千乗の車を持っているほどに、大きな役所を持っている国の、その一官吏となった。大国の官吏たるものの心得とは、なんであろうか？それは、どんな事務でも真面目に行うことによって信用を得るように心がけ、予算は節約して人を愛し、民を徴用するときには時期を選ぶことだ。</font>


<strong>[筆者のコメント]</strong>

「千乗之国」は決まり文句で、「戦車を千台集めることができる大国」という意味。孔子の当時であれば大国の斉はもちろんであり、孔子の時代には魯や衛はまだまだ強国であったから、この両国もまたそうであろう。孟子の時代にはさらに国家規模が巨大化して「萬（万）乗之国」という語句が現れた。（梁恵王章句上第一章「萬乗之國弑其君者、必千乗之家」）。

]]>
      <![CDATA[ところで、この戦車であるが、殷墟（紀元前一〇〇〇年紀）や始皇帝陵（紀元前三世紀末）からも出土するために、実際に古代中国で用いられていたことは明らかである。
しかしながら、それが実際の戦場でどれぐらい活躍したかどうかは、中国史から世界史にまで視野を広げて考えてみると、きわめてあやしい。オリエントのほうが中国よりも戦車が登場した時代は早い（おそらく中国の戦車は、オリエントの習慣が輸入されたものであろう）が、戦車が実戦で活躍するための条件は非常に狭く、そのために西洋では戦車が活躍した戦争の記録が少ない。ギリシャ人やローマ人は、スポーツとしての戦車競争のために、もっぱら戦車を用いた。

そもそも戦車を実戦に投入するためには地形は平地でなければならず、しかも高速で走らせるためには事前に整地を行う必要がある。その上戦車は直線に突撃する速度は速いが、戦場で自由に手綱を取って駆け回る機動力となると、よほどに熟達した御者がいなければ極めて怪しい。（将棋の「香車」が直進するだけの駒で、戦略的に大して重要な駒でないことは、ゲームとはいえ示唆的である。）だから調達にも輸送にも高価な戦車よりも、歩兵を大量に揃えた方が、よほどに簡便で実戦的であったに違いない。私は、古代中国の戦争で、戦車が実戦でどのぐらい役に立ったのかは、疑問に思うところである。むしろ、貴族たちを上に乗せて車を揃え、国力を戦場で示すための、示威部隊としての効果のほうが大きかったのではないかと思う。

では、どうして古代中国では、そんなに多くの戦車を集めたのであろうか？
それは、平時の官庁に車が必須だったからであったに違いない。
秦朝の制度では、全国の各県には官が乗車するための車が必ず用意されており、「厩司御」という役所付きの御者も置かれていた。後述する劉邦の幕僚の一人で彼の車の御者を勤めた夏候嬰は、無名時代に沛県の厩司御であった。
現代と同じで、各地の高官は自分で歩くことなく、役所が支給する車に乗って移動したのである。車の移動の便のために車軌は統一されて、道の轍（わだち）に沿って進めば高速で移動できるように配慮されていた。こうして平時には運転手として各地の都市において多数雇われていた馬車の御者たちは、いざ戦時となれば戦車を操って百官を乗せ、戦場に現れたと考えれば、極めて合理的である。

古代の「士」が学ぶべき学習科目には、「六芸」（りくげい）があった。

御・射・書・数・礼・楽。

御は御者術。射は弓術。書は読み書き。数は計算。礼は礼儀作法。楽は楽器演奏。
これらの学習科目をざっと見直すと、いずれも高位の貴族が身に付けるべき高尚な芸術というよりは、下級ランクの実務官吏が学ぶべき実用的技芸というべきである。
孔子学校では、これらの「六芸」を学ばせた。なぜならば、彼の学校で養成するのは「士」、すなわち、ようやく国家の役所で雇われる程度の、下級の役人なのだ。世襲の名家でなければとてもなれそうにない卿（大臣）や大夫（上級貴族）ではなくて、下級の役人ならば庶民でも頑張れば成り上がることができる。そして、孔子学校が教えるところは、「士」であっても王朝の一員であるからには礼楽を学ぶ必要があり、かつ民を治める官吏として高い志を持たなければならない、ということであった。いやむしろ、世襲の上層階級などよりもっと真面目に働くぐらいの気概を持つべきだ、ということが、孔子学校に集う数多の弟子たちに贈る、孔子の期待ではなかっただろうか。私は、そんなことを教える孔子学校の姿を、想像する。

孔子学校の第一の意義は、「士」となる最低限の技芸を学ばせて、よき官吏として就職させるところにあったに違いない。孔子自体が、博学で鄙事（ひじ、つまらないこと）に多芸であって、高尚な人間にしてはずいぶん変なことである、と世間の人々から不思議がられたものであった。

そのような孔子学校の姿を想像すると、本章の読み方はちょっと違ったものに見えはしないだろうか。

<font style="font-size:large; font-weight:bold;">千乗の国を道（おさ）むるには、</font>

千乗の国とは、それだけ多くの御者を抱え、つまり役人を抱える大がかりな国家のことだ。だが果たして、ここから以下の言葉は、まず第一に君主や宰相への心得として聞くべきなのだろうか？むしろ、孔子学校において生徒がすぐに聞きたいこと、直接に関心のあることとは、就職して下級の官吏になったときの心得ではないだろうか？

それを思って、この部分はむしろ、

<font style="font-size:large;"><i>－千乗の車を持っているほどに、大きな役所を持っている国の、その一官吏となった。大国の官吏たるものの心得とは、なんであろうか？</i></font>

と、私は読んでみたい。

<font style="font-size:large; font-weight:bold;">事を敬（つつし）みて信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。</font>

<font style="font-size:large;"><i>－それは、どんな事務でも真面目に行うことによって信用を得るように心がけ、予算は節約して人を愛し、民を徴用するときには時期を選ぶことだ。</i></font>

これらの戒めは、むしろ現場で実務を行い、組織の末端として直接に民と面し、民に徴発の命令を出さなければならない大国の官吏たちのための心得が第一の意義なのではないか、と（私個人のかつての役人経験より）思うのである。
現代の組織はITを用いた管理が行き届いてマニュアル化し、現場の裁量の幅は以前よりも大きく削り取られている。そのために現場の事務は定型化して、副作用として現場は指示待ち人間が跋扈して自主性が失われている。
しかし、古代の官庁では、地方間の連絡すら容易ではなかった。大国ともなれば組織が肥大化して管理がおろそかとなり、都からほんの１００Kmも離れた地方都市の役所であれば、現場はモラルがなければたちまち腐敗して民を勝手に搾取したことであろう。広大な中国では、そんな事態は平常事態であることが、歴史であった。
そんな中で、しかし孔子学校の徒は、いざ官吏となればモラルを持って国と民のために真面目に働こうではないか。孔子もまた、下級の官吏が目覚めることによって、国全体の資質も向上し、やがてはその中から高位の職に抜擢される者が現れたならば理想の国家に近づくだろう、という遠大な改革の展望を、持っていたのではないだろうか。

漢王朝の創始者である劉邦は、地方都市である沛県の、鼻つまみ者であった。
農業を嫌がり任侠の徒と交わって旅して、帰郷しては悪友と遊び呆けて兄弟の家に食をせびる毎日の、当時の地方都市ならばどこにでもいたであろう、つまらない遊び人であった。
そんな劉邦は、同じ沛県で雇われていた役人たちと、知己の仲であった。

厩司御から県吏に取立てられた、夏候嬰。
獄掾（ごくえん）の、曹参。
主吏（しゅり）の、蕭何。

彼らは県の長官である県令の下で実務を扱う、地元採用の下級官吏であった。劉邦もまた後に亭長（ていちょう）という、じつにつまらない地方役人となったが、彼の勤務態度はちっとも真面目でなかった。彼は武芸も学問もないホラ吹きであったが、どこか憎めぬところがあって仲間は多く、蕭何のような県で結構重用されていた役人たちも、劉邦には頭が上がらなかった。

そんな彼らが、秦末の大動乱となって沛県が自衛せざるをえなくなったとき、蕭何・曹参たちは劉邦を沛公（はいこう）に推し立てて独立し、自ら国を興した。やがて紆余曲折の後にとうとう劉邦は帝位に就くのであるが、彼ら沛時代の幕僚たちは、大国の高官に出世してもよく役目を果たした。蕭何・曹参は、漢帝国の相国（しょうこく）、つまり総理大臣にまで登ったのである。彼らはもとしがない下級官吏であった。しかし、後に大出世してもよく職責を果たせるまでに、治世の道筋がよく分かっていたからこそ、建国の功臣となることができた。

彼らが生きていた秦代ごろには、きっと沛のような地方都市の塾でも、あるいは孔子の言葉などがテキストとして用いられていたのではないだろうか（劉邦は真面目ぶった儒者が、大嫌いであったそうだが）。『論語』の本章なども、曹参や蕭何などが読んでいたとしても、ちっともおかしくはない章であると、私は思うのである。

[付記]
荻生徂徠は、『論語徴』で本章に全く違った解釈を試みている。
すなわち、「道千乗之国」について、これはおそらく脱簡（だっかん。あるべき文や文字が抜け落ちていること）に違いなく、「道」は従来説のように「導く」という意味ではなくて、「道（みち）［を通る］」というべき意味であろう、と推測する。そうして、この章の本意は、じつは周代の天子が「巡狩（じゅんしゅ）」すなわち諸侯の封建された諸国を巡回して視察し、諸侯の政治を引き締める行事について言っていたはずなのだ、と。そのように読めば、本章は「天子が諸国を巡回する行事を行う際には、民を傷つけないようになるたけ節約するように心がけたのだ」というべき意味となる。

徂徠らしい強引な解釈であるが、おそらく彼の頭には、当時の華美で浪費的な政治パレードの数々があったに違いない。
大名が江戸と本国を毎年往来する、「参勤交代」。
将軍が家康を祀る日光東照宮に社参する、「日光社参」（徂徠の時代には、幕府の財政難から一時中止となっていた。徂徠の死の年に八代将軍吉宗が再開）。
そして将軍の代替わり時に李氏朝鮮王朝から釜山～対馬～瀬戸内海～大坂・京都～江戸と来訪する、「朝鮮通信使」。

徂徠の生きた時代にはこの「朝鮮通信使」が綱吉・家宣・吉宗の代替わり時に前後三回行われて、その華やかさは記録されて現代にまで伝わっている。これらのパレードは徳川幕府の権威を高めるために挙行された行事であったが、結果として街道の整備と宿場町の発展というプラスの効果をもたらし、逆に武士が江戸に集中して住むようになって彼らが貨幣なしでは暮せない生活となり、各藩が大坂などの商人に財政の首根っこを押さえられ、武士は借金に苦しみ困窮する事態を招いていた。

徂徠を独特の思想家としているのは、古典の研究家でありながら、研究を通じて古代社会の制度や経済についても考察を加え、ひるがえって彼が生きた時代についてもあるべき制度や経済の提言を行おうとした、現世的学問態度である。本章に対する徂徠の強引な（強引過ぎる）解釈もまた、彼の学問の流儀であろう。徂徠は、この章の注を書きながら、彼の時代の華やかなパレードが社会制度と経済に及ぼす影響にまで、思いを巡らせていたに違いない。

(07/06/2011)
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   <title>ブログを引越しいたします。</title>
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   <published>2009-07-02T15:50:00Z</published>
   <updated>2011-07-12T21:44:46Z</updated>
   
   <summary>思い起こせば2006年夏の台湾旅行時に開設して以来、これまで三年間書き続けてきた...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://suzumoto.s217.xrea.com/">
      <![CDATA[思い起こせば2006年夏の台湾旅行時に開設して以来、これまで三年間書き続けてきた、べるもっと・じん。のブログです。

本日より、ブログはこちらのサイトに、移設いたします。
（2009/07/13追記：ブログサイトと本サイトを統合しましたので、ブログのアドレスは本サイトそのものとなりました。たびたびアドレスが変わって、申し訳ありません。）

<a href="http://asian-curd.asia">http://asian-curd.asia</a>

こっちのブログは内容をそのまま残しますが、以降は更新しません。

大事だと思う過去の記事は、新ブログにも移植するつもりです。

今後とも、べるもっと・じん。（鈴元仁改め）をよろしくお願いいたします。

アジアの隣人との相互理解と、平和の時代がいつかやって来ることを、夢見て－

2009年7月2日

（2011年7月13日追記）

このブログは、再利用します。
現在京都西陣小学校跡で毎週論語・孟子読書会に参加しているところですが、そこで切ったレジメをこのブログに掲載して、保存したいと思います。当面は、論語読書会のレジメを、投稿することにします。]]>
      
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   <title>多文化交流会　at Tsuruhashi</title>
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   <published>2009-06-21T10:32:34Z</published>
   <updated>2009-06-22T10:54:13Z</updated>
   
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         <category term="019雑テーマ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[6月20日、鶴橋本通にある韓国伝統茶店「ハナ」で、多文化交流会がありました。
「ハナ」とは、韓国語で「ひとつ」という意味です。
私は、先週あった「ワンコリアフェスティヴァル」の集会の席でもらったチラシをつてに、JR鶴橋駅から歩いていきました。

<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200016.JPG"><img alt="P6200016.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200016-thumb.JPG" width="250" height="187" /></a>

この日は、夏至の前日。
厨房以外の明かりを消し、冷房も消して、再利用の廃キャンドルを点しての交流会。
かつての時代の夜を再現した、エコナイトでした。
主催した手塚さんと山中さんの、アイディアです。


<table><tr><td width="230"><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200004.JPG"><img alt="P6200004.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200004-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></td><td><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200009.JPG"><img alt="P6200009.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200009-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></td></tr></table>


「ハナ」は、普段は韓国伝統茶のお店です。
壁には、著名なイラストレーター、黒田征太郎氏の絵が、いっぱいに描かれています。


<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200020.JPG"><img alt="P6200020.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200020-thumb.JPG" width="250" height="187" /></a>


キャンドルライトの下、集まった皆さんと、楽しく会話しました。
喫茶店ですが、今夜はマッコリをメニューに出していただきました。これがなくっちゃ。
アンジュ（つまみ）として、駅前でチヂミとチョッパル（豚足）を買ってきました。
持ち込みOKのパーティーでしたので。
マッコリといえばチヂミかな～と、思ったので。
聞けば、チヂミの焼ける音は、雨の音だとか。
その音を聞きながら、雨の日にチヂミをアンジュに、マッコリを楽しむ。それが、韓国の風流というものなのかな？

－この日は梅雨の最中で蒸し暑かったものの、雨は降りませんでしたけれど。


<table><tr><td width="230"><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200008.JPG"><img alt="P6200008.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200008-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></td><td><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200001.JPG"><img alt="P6200001.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200001-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></td></tr></table>


手塚さんは、韓国語の講師もやっています。
韓国に留学までして、韓国語をマスターした、すごい人です。
山中さんは、オーストラリア留学中に韓国人と知り合ったことを通じて、隣国に興味を持たれたと聞きました。
今夜集まった人々は、いろいろなきっかけで、多文化交流の集いに集まったみなさんでした。

私が隣国に興味を持ったきっかけは、今年2月に行った、韓国旅行からでした。
私は、自分が感動した三つの点を、皆さんに説明しようとしました。
<blockquote>
하나 - 한국의 길이 아주 아름다웠어요.
ひとつ－韓国の道は、きれいだったです。

둘 - 음식이 다 싸고, 그리고 맛있었어요.
ふたつ－料理がみな安くて、そして美味かったです。

셋 - 사람의 인정에 감동했어요.
みっつ－ひとびとの人情に、感動しました。</blockquote>


実際には、こんなにすらすら言っていません。
私の韓国語は、まだまだです。
私は、「道がゴミもなくてきれいだった」と言おうとして、

아름다웠어요. アルムダウォッソヨ。

の言葉を使ったら、手塚さんから、「その場合はむしろ、『ケックタダ』（清い、清潔だ）のほうがいいですね。」と教えられた。
私が「ケックタダ」のハングルを書けないでいると、彼女はすらすらと「깨끗하다」とカードに書いてくれた。
「『アルムダプタ』は、『わあ、素敵できれい！』といった感じの、言葉です。」
「あと、『コップタ（곱다）』っていう言葉もありますよね。その違いは？」
「たとえば、年配の方が綺麗なチマチョゴリを着ていたりしたとき、『コップタ』ですね。」
日本語ならば「清楚だ」って、感じだろうか。
さすが、上手に指摘なさる。


韓国語で「趣（おもむき）」は、モッ（멋）といいます。

멋이 있어요.　モシ　イッソヨ。

と言えば、「趣があります」＝「すばらしい」と言う意味になります。
今晩は、まことに、モシ　イッソッソヨ。（すばらしかったです）


<table><tr><td width="230"><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200026.JPG"><img alt="P6200026.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200026-thumb.JPG" width="150" height="112" /></a>
</td><td><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200025.JPG"><img alt="P6200026.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6200025-thumb.JPG" width="150" height="112" /></a>
</a></td></tr></table>
]]>
      
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   <title>文京沫『済州島四・三事件』</title>
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   <published>2009-06-17T08:56:08Z</published>
   <updated>2009-06-18T03:35:34Z</updated>
   
   <summary>2008年4月、平凡社より発行。 四・三は、（光州事件などの）韓国の過去清算の先...</summary>
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         <category term="011東北アジア研究" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="012政治・経済" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://suzumoto.s217.xrea.com/">
      <![CDATA[2008年4月、平凡社より発行。

<blockquote>四・三は、（光州事件などの）韓国の過去清算の先行的なモデルとしてあるだけではなく、その歴史的な性格からして、過去清算をめぐるアポリアとも言うべき難題を抱え込んでいることも忘れてはならない。このアポリアは、四・三事件が一九四八年の「単選・単政（単独選挙・単独政府）反対」をスローガンにした武装蜂起であり、現在の韓国が、まさにその「単選」による「単政」として生まれた国家であるという紛れもない歴史的事実に発している。（pp.213）</blockquote>

2003年3月の金大中政権末期に完成した『四・三事件真相調査報告書』は、済州島での事件の犠牲者の数を「二万五〇〇〇～三万人」と推定している。この報告書の確定を受けて、後を承けた盧武鉉大統領は、同年10月31日に済州島を訪れて、政府として正式に謝罪を行った。

本書は1948年から翌年にかけて済州島で執拗に続けられた、48年8月13日に成立したばかりの大韓民国当局（大統領・李承晩）による反共討伐作戦についての、概略を示した書物である。著者の文氏は東京出身の在日二世であり、「あとがき」に書かれているとおり、両親は済州島のご出身である。
「おわりに」によると、文氏の父は、戦前に大阪で働いていた、活字拾いの職工であった。
かつて植民地朝鮮から日本にやって来た在日朝鮮人の最も太いルートの一つが、済州島→大阪の航路であった。
大正十二年（1923）、尼崎汽船会社により、「君が代丸」が大阪・済州島間に就航する。その後、他社も航路に新規参入して、1933年のピーク時には「年に三万人近い済州島人を大阪へと運んだ」（pp36）。
本書内に引用されている1934年（昭和九年）の報告によれば、当時「第二君が代丸」は毎月一と六の日の月六回、大阪から済州島に向けて出航していたという。
1930年当時大阪は人口245万人で東京を上回る日本最大都市であったが、本書引用の統計によると、そのうち内地以外の出身者は八万三千人、総人口の3.4％で、神戸や横浜よりも高い比率であった。その大多数が、当時絶頂を極めていた大阪の町工場の雇用に引き寄せられた在日朝鮮人であり、そしてその大きな割合が済州島出身であったはずである。
文氏の父も、こうして大阪にやって来た一人であったに違いない。その父は、戦後いったん解放と共に郷里の済州島に帰ったらしい。しかし、はやくも1946年には日本に戻ってしまう。文氏は、「おわりに」ではっきりと「密航」と呼んでいる。大日本帝国の解体とともに、朝鮮半島の民がいったん帰国した以上、許可なく戻って来るのは「密航」であった。そして、「この父から、、、私は四・三については全く聞かされていない。」（「おわりに」より）
文氏の父の帰国に象徴されるように、解放直後の済州島は、左右の対立が日増しに先鋭化していく、不穏な土地となっていた。そこに、陸地（済州島人にとって、半島）から乗り込んできた統治者や右翼集団たちが島民をまるごと敵視するに及び、虐殺への道が開けていった。政府によって送り込まれた右翼集団には、「西北青年団」といった北から逃亡してきた上層階級の子弟たちもまた、編入されていたという。彼らは、歴史的に差別視されて来た島民の、しかも「アカ」（実態は、「単選・単政」に反対する島出身の知識人たちと言うべきであったようだが）に対して、シンパシーが少しもなかったであろう。

「四・三」という名称は、誤解を招く。
1948年4月3日は、島で左派による蜂起が勃発した年月日であった。
だが、犠牲者が積みあがったのは、それから翌年にかけて、秋から冬を越して、49年4月の李大統領の済州島訪問の前後に至る、長い時期であった。報告された虐殺の非情さは、まるでナチスのユダヤ人狩りさながらである。そして、続いた期間は沖縄戦よりも長い。住民の恐怖は、想像を絶するものであっただろう。

いったいどうして、三万人にも至る犠牲者を出す虐殺が、行われなければならなかったのだろうか。
これは、本書を読んだ私にとっても、オープンクエスチョンである。

・1948～49年時点の、トルーマン政権の極東戦略。アメリカは48年8月13日に南半分だけで成立した大韓民国政府を支持しながら、在韓米軍を撤退させる政策に出ていた。反共の軍事前線を日本列島・沖縄に設定して、その外にある韓国については代理の現地政権を早々と安定させたいという意図が、あったのであろうか。そのために、李政権の反共強行姿勢を、抑制しようとしなかった面があったか。しかし半島を反共防衛の前線と位置づけなかったトルーマン政権の方針は、翌年の金日成の侵攻計略に、賭けへの自信を与えたという、大失敗に終わることとなった。

・影響力が広がっていた、左派勢力。日本ではついに空振りに終わった左派勢力のゼネストや農民蜂起が、半島では見られた（1946年秋の「１０月人民抗争」）。済州島での蜂起が始まっていた1948年10月には、「麗順（ヨスン）事件」が起こった。全羅南道の麗水（ヨス）で勃発した韓国軍将兵の反乱は、「民間左翼や学生が合流して」（pp121）、順天（スンチョン）を始めとする近隣各地に広がっていた。日本よりも、左派との対立は、韓国でより存亡を賭けた脅威であった。何よりもすぐ北に、着々と体制を整備しつつあった金日成政権があった。

・自治の経験がない、成立したばかりの政府。日本植民地当局の朝鮮統治は、法の支配とインフラの整備を半島にもたらしたが、自治を認めるまでにとうとう至らなかった。日本が半島人の国政参加への展望として導入したのは、結局半島人を「日本人」に解消してしまうべき、「皇民化政策」であった。そして、その試みは大した成果も挙げないままに、自治も参政権も空手形のまま、大日本帝国は崩壊した。後に残ったのは、いまだ国家のシステムとして政治を運営した経験のない、半島の国民であった。国政における妥協のノウハウがなく、地方政治と中央とを調整するパイプも、はっきり見えなかった。米ソ軍政の下で集まった政治家の群像は、海外の亡命者あり、ソ連・満州でのパルチザン派あり、国内での地下独立運動派あり、キリスト教勢力ありと、まるで呉越同舟の中でいきなり建国問題に直面しなければならなかった。その中で力を得た李政権は、いきおい力による政治を解決手段として、選んだのではなかったろうか。


四・三事件は、忌まわしい国家の犯罪であった。この事件を反省し、国民と政府のあり方を改めて問い直す作業は、民主国家として当然の動きであっただろう。

しかし、私によく分からないのは、冒頭の引用が言うごとく、四・三事件の清算が「過去清算をめぐるアポリア（=難問）」に、どうしてなるのであろうか。外国人の私から見れば、過去には確かに強権独裁であって、銃剣のもとに成立した国家であったとしても、今や韓国は民主化を経た民主国家である。その成立の基盤に今さら疑問を持つ必要が、どこにあるのであろうか。

四・三の過ちを認めることは、共産主義側の主張を、認めるからであろうか。それが、北の存在を認めることに、つながるからであろうか。]]>
      
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   <title>李榮薫『大韓民国の物語　韓国の「国史」教科書を書き換えよ』</title>
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   <published>2009-06-15T23:48:47Z</published>
   <updated>2009-06-16T01:49:05Z</updated>
   
   <summary>本書は、2009年3月に日本語訳が、文芸春秋社から発行された。訳者は、永島広紀氏...</summary>
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      本書は、2009年3月に日本語訳が、文芸春秋社から発行された。訳者は、永島広紀氏。
だが、原書の発行年と、原書の題が書かれていない。（末尾に英語の題だけが、書かれている。）

著者の李榮薫（イ・ヨンフン）氏は、末尾に置かれている略歴によれば、1951年生まれで、現在ソウル大学経済学部教授。著作に、『朝鮮後期社会経済史』（1988）、『朝鮮土地調査事業の研究』（共著、1997）、『数量経済史で捉え直す朝鮮後期』（2005）など。

著者の情報を得ようと、韓国語版Wikipediaを開く。
「이 영훈」で検索する。
ない。
今度は、ポータルサイトのDaumで、検索する。
教授の写真付きで、出てきた。
教授について書かれたカフェ文（카페글）の表題を、見る。

「ニューライトのアン・ビョンジク、イ・ヨンフン教授、日本の金を受け取って研究！」
「イ・ヨンフンは、学生をだめにする教育を、即刻やめろ！」
「イ・ヨンフン教授、挺身隊は自発的参加と妄言」

えげつない言葉が、並んでいる。
カフェ文の表題では李教授を「ニューライト」と称しているが、本書の訳者永島氏の言葉をここで引用すれば、「李榮薫氏は韓国近代経済史研究におけるトップランナーの一人であり、また『ニューライト』の名で呼ばれるかつての民族至上主義的な右派とは明確に一線を画す保守論客であり」、「しばしばいわれのない『親日派』の称号（？）を冠せられようとも、その学風は常に是々非々の追求であり、しかも決して日本に阿諛迎合することも」ない。永島氏は李教授のことを「熱き憂国の士」と呼び、「実証を伴わない観念的な思考を極度に拝する態度を崩すことなく、それでいてかつての『日帝』の所業に対する筆致は厳しくも透徹して」いると、評価する。その意味で、日本にとって最も手強い相手の一人であるかもしれない、と訳者は評しているのである。

本書は、三部に分かれている。

第一部　歴史への視線
第二部　文明史の大転換
第三部　くに作り

第一部は、本書の前置きとして、本書の問題認識を明らかにする。その批判の標的は、『解放前後史の認識』（ハンギル社、1979-1989）という書物である。

第二部は、解放前史を描く。焦点は、李朝が滅んだ原因、日本植民地時代の評価、そして「挺身隊」と「従軍慰安婦」の実相分析に、当てられている。いずれの内容も、きわめて論争的である。

第三部は、李承晩（イ・スンマン）政権までの、解放後史を描く。こちらの内容もまた、きわめて論争的である。

本日読み終えたばかりであって、検討をするのは今後でなくてはならない。

とりあえず読後の感想として、本書の視点は、以前に読んだ韓洪九氏の『韓国現代史』の歴史評価と、鋭く対立している。

あえて申すならば、戦後の大韓民国を、「親日派」の清算がなされずに「親日派」が国の中枢に陣取って作られたいかがわしい歴史であったと評価する韓洪九氏の視点は、金大中氏・故盧武鉉氏の両政権時代に見られた「民族ナショナリズム」（本書の序言を書いた鄭大均氏の言葉）に近づいている。
それに比べれば、李承晩時代を「『くに作り』の政治」と呼び、自由主義も民主主義もなかった国におけるやむないプロセスであったとしてプラス面の評価を下し、自由主義国家である大韓民国の建国を正統なものであるとみなす李教授の視点は、批判者からニューライトだと呼ばれる側面を、持っていないとは言えない。

李教授の日本支配時代に対する分析は、永島氏も評価しているように、是々非々である。通説を検討して、誤りを排したその後に、日本支配を批判しようと試みる立場である。韓国国内で上記のように一部から罵声を浴びている論客であることをわきまえた上で、本書の内容をよく検討していきたい。
      
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   <title>大阪・生野・コリアンタウン</title>
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   <published>2009-06-14T11:50:12Z</published>
   <updated>2009-06-16T03:26:48Z</updated>
   
   <summary> 大阪環状線から３００メートルほど東側に沿って、バス通りがある。 正式名称は市道...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140025.JPG"><img alt="P6140025.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140025-thumb.JPG" width="187" height="250" /></a>


大阪環状線から３００メートルほど東側に沿って、バス通りがある。
正式名称は市道上新庄生野線であるが、地元民には「疎開道路」と、呼ばれている。
この道の由来は、戦時中のことにさかのぼる。
当時、この近辺は工場の密集地であった。
現在ビル街のOBPとなっている土地には、かつて陸軍の大阪砲兵工廠があった。
周辺雇用まで含めれば二十万人にもなったと言われる、巨大な軍需工場であった。
大阪は、軍需を支える工業都市として、連合軍の爆撃対象となることは、必至であった。
政府は、生野区の土地の一筋を南北に縦割りして、そこに住んでいた住民を強制的に「疎開」させた。
空襲の火災が延焼することを防ぐために、がらりと空き地を、こしらえたのであった。
それでも、空襲による被害は、防ぐことはできなかった。
戦後、強制的に作られた空き地は、道路となった。
「疎開道路」の、始まりである。
大阪にKorean Peopleが現在もたくさん住んでいる理由は、戦前の大阪の工業の発達と、切り離すことができない。

その「疎開通り」から入って、御幸森神社に始まって平野川で終わる、商店街。


<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140002.JPG"><img alt="P6140002.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140002-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a>


大阪市生野区、町名でいえば桃谷三丁目から五丁目。
正式名称、御幸通商店街。
これが通称、コリアンタウン。

<table><tr><td width="220" height="180"><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140010.JPG"><img alt="P6140010.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140010-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></td><td><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140011.JPG"><img alt="P6140011.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140011-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a>
</td></tr><tr><td><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140022.JPG"><img alt="P6140022.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140022-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></td></tr></table>


店先には、韓国語が並ぶ。
韓国の食材が、売られている。
おなじみのキムチ、チジミ。
店頭売りの、ホルモン。
ナムルの材料の、大豆もやしにゼンマイ。
肉を食べるときに欠かせない野菜の、サンチュにゴマの葉。
塊でざっくりと置かれた、豚の肉。


<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140012.JPG"><img alt="P6140012.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140012-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a>


チマチョゴリを売る、服屋。
最近の現象として、韓流スターのグッズを売る、音楽店。
いかにも韓国の風情にあふれているが、決して韓国ではない。
韓国に行けば、店先にはハングルしかない。漢字も、ひらがなも、決して見ることができない。
この街には、漢字もひらがなも、混在している。
だから、ここは日本のコリアンタウンであることが、わかる。

この地域にKorean Peopleがやって来たのは、経済が原因だ。

６月１４日、<a href="http://hana.wwonekorea.com/">ワンコリアフェスティヴァル</a>の催しを、当初からかれこれ２５年間続けて来ておられるチョン会長じきじきの説明で、コリアンタウンのミニツアーに参加した。昼間コリアンタウン内にある韓国料理店で、フェスティヴァルスタッフの集会をこなした後での、有志によるミニツアーだ。


<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140017.JPG"><img alt="P6140017.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140017-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a>


コリアンタウンの東端、平野川にかかる御幸橋から、ミニツアーは始められた。
「平野川はしょっちゅう、氾濫した。それで、浚渫（しゅんせつ）工事を行うために人足が、集められました。そこに集まって来たのが、この土地にKoreanがやってきた、始まりでした。」

背後の歴史は、今あえて、ぼやかしておく。

「しかし、本当に数が増えたのは、工場に働く労働者としてでした。」
ワンコリアの大事業を大阪から進めておられる、チョン会長は、続けた。

「昔、大阪は東洋のマンチェスターと呼ばれて、東洋最大の工業都市でした。そうして、低賃金で働かされるKoreanが、いっぱいこの辺の零細工場の仕事場に、吸い寄せられた。1920年代、30年代にこうして労働者として大阪にやって来た人々の中には、家庭を持ち、子供を持つ者もあった。戦時中、強制連行によって連れて来られた人々は、戦争が終結すると、たいていは帰って行った。それは、家庭が向こうにあったからです。でも、もうここに家庭を持ってしまった人々は、帰るに帰れない。そうして、日本に残ったんです。」


<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140018.JPG"><img alt="P6140018.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140018-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a>


もう今では工場も少なくなってしまったが、昭和の時代にはじつにこの辺りは、町工場が密集していた。
「70年代ごろには、この川はものすごく汚れていました。とにかく臭くて、、、これではいかんと、府と市が川をさらえて、ようやくこうして近づけるようになりました。」
現在、アジアの工業地帯は中国に移り、中国では工業排水が環境の悪化を深刻なものにさせている。
かつての日本が、現在の中国の姿であった。
どうして大阪にKoreanが住むようになったのかのいきさつは、昔の経済の姿に遡らなければ、わからない。
私の隣にいた、ワンコリア委員会でウェブサイト運営を担当している若者に、私は言った。
「まだ、泳ぐまではだめだな。魚も鳥も、戻っていないし。」
に聞いた。
彼は、真剣な顔をして、私に聞いた。
「鳥が、戻りますかね？」
私は、不真面目にもビールの入った頭で、答えた。
「戻るさ。どぶ川だって、ここまできれいになった。人が努力すれば、鳥だって戻る。緑だって、川のそばにまた、繁るようになるさ。でもそうするためには、人の努力が必要だ。」
ビールの入った頭での言葉だったが、私は本当にそう信じている。


会長の話に、戻る。
「もともと御幸通商店街は、日本人の商店街だった。Koreanは、商店街の一つ後ろの裏路地に、板を置いて商売をしていた。日本人とKoreanでは売る物も違うから、分かれていた。それが、戦争によって焼け野原となり、表通りの商店街の店主が逃げて、帰ってこなかった。かつて裏路地で商売をしていたKoreanは、表通りの店を借り、買って、表に出た。そうして、今の御幸通商店街は、Korean6割、日本人4割となっています。」

戦前に日本にやって来た半島の人々の出身地は、圧倒的多数が慶尚道か、あるいは現在の済州道であると、聞いたことがある。

ネットからの乏しい資料を拾い出すと、大阪商船（現・大阪商船三井）が大阪釜山線
を開いたのが、明治２３年。以降、大阪商船は大阪仁川線、朝鮮沿岸線を就航させた。
大阪と済州島を結ぶ「君が代丸」は、大正１２（1923）年に始まった。

こういった海のルートを通って、戦前には主に半島南部の人々が、日本にやって来た。

とりわけ、大阪には「君が代丸」ほかの定期航路を通じて、多数の済州島出身の人々が、仕事を求めてやって来たと聞いている。
そういえば、鶴橋から御幸通商店街を歩くと、済州島名物のトルハルバンが、ところどころに店の看板として飾られているのを、見かける。
トルハルバンとは、済州島の方言で、「石じいさん」という意味。
由来はよく分からないが、石で作られた島の守り神のようなものだ。済州島の主邑である済州邑（チェジュウプ）の四隅に、配置されていた。
それが、今は済州島のシンボルとして、海外にまでその存在が知れ渡っている。コリアンタウンにも、説明書きが添えられて、商店街の守り神として鎮座ましましていた。
（下の写真は、コリアンタウンの隣にある鶴橋本通商店街の『アリラン食堂』の店頭の、トルハルバン。）


<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/000goc6j94ipc6310g8kalqdmrd6310%5B1%5D.jpg"><img alt="000goc6j94ipc6310g8kalqdmrd6310%5B1%5D.jpg" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/000goc6j94ipc6310g8kalqdmrd6310%5B1%5D-thumb.jpg" width="150" height="200" /></a>


この御幸通商店街がコリアンタウンという名称になったのは、チョン会長によると、20年前のことだという。

「当初は、日本人の側からすごい反対があった。でも、商店街は、それから日に日にさびれていった。それが、コリアンタウンの名前で、全国から注目されることになりました。今や、日本人の商店主も、協力してくれているんですよ。」
チョン会長の言葉には、この二十年間に起こったことへの、希望があった。


<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140020.JPG"><img alt="P6140020.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140020-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a>

東大阪朝鮮第四初級学校。
会長の、母校でもある。
日本人の小学校である、御幸森小学校の、目と鼻の先にある。
「最大時には、日本全国で3万5000人の在日生徒がいた。でも今や、7000人。さらに、どんどん減っている。時代の、流れです。」


<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140021.JPG"><img alt="P6140021.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140021-thumb.JPG" width="150" height="200" /></a>


このパネルは、（年度は失念したが）ワンコリアフェスティヴァルの際に、美術担当の方の手でライブの場で書き上げられたものだ。
「だから、絵の具が左右に、流れているんです。横に向けて、描かれたんで。」


<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140023.JPG"><img alt="P6140023.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140023-thumb.JPG" width="150" height="200" /></a>


御幸森神社が、ツアーの最後の場所であった。

現在は、神社の説明に、「百済」「新羅」「高句麗」の文字が、ある。
「でも、これも最近のことです。昔は、このような説明もまた、許されなかった。」

私は、今年慶州の国立博物館に行った。
そこに展示されている透かし彫りの馬の鞍金具を見て、応神天皇陵から出土した作品とデザインがまったく同じだ、と思った。
1500年ほど昔にさかのぼれば、半島の製品がそのまま日本でも珍重され、その逆もたぶん同じであっただろうことが、容易に想像がつく。
新羅でもまた、勾玉（まがたま）がアクセサリーとして流行していた。
新羅の遺跡からは、ペルシャなど西方の文物が、いろいろ出土する。
日本の正倉院からペルシャの製品（あるいは、西方の製品を唐の職人がアレンジした製品）と、同時代性を感じる。

チョン会長は、神社の杜の前で、力説された。
「百済、新羅、高句麗の三国から、日本にいっぱい人がやって来ました－」

彼らのことを、帰化人と言う。
近年、渡来人と呼ばれるようになった。
私は、そのどちらにも政治的意図を感じて、好きな言葉ではない。
私は、単に半島からの移民、と呼びたい。

「昔、日本人が唐人と会話するためには、通訳が必要でした。でも、新羅人や百済人には、必要ありませんでした。普通に、互いの言葉がわかる時代だったのです。現在の日本語と朝鮮語は、発音がぜんぜん違います。しかし、昔の日本語は、今よりもっと発音が複雑でした。半島と接触を失うにつれて、発音が単純になっていったのです。かつての日本人は、半島人の発音を理解できて、両国の言葉はもっと近かったのです。」


<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/Ancientosaka.JPG"><img alt="Ancientosaka.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/Ancientosaka-thumb.JPG" width="300" height="208" /></a>
<font size="0.8em">（クリックすると、拡大します。）</font>


今、ツアーの人々が立っている土地は、古代の難波津（なにわつ）。
この御幸森神社も、もとは仁徳天皇（5世紀）と半島人との係わり合いの中で営まれた、神域であった。

古代の大阪平野は、現在の大阪城から天王寺にまで続く上町台地だけが陸地で、あとは水の底だった。
半島から海を伝ってやって来た人々は、上町台地に上陸してここに集落を築いた。
仁徳天皇の時代、難波津では土木工事が、盛んに行われた。
難波の堀江（なにわのほりえ、運河）、茨田堤（まんだのつつみ、堤防）、猪甘津の小橋（いかいつのおばし、橋）といった開発が仁徳天皇の治世時に行われたことが、『日本書紀』などに記録されている。仁徳天皇は難波に宮城を定め、周辺の土地を開拓することに、熱心であった（日本書紀に、「難波高津宮（なにわたかつのみや）」。現在発掘されている難波宮の地にあったのかどうかは、結論が出ていない）。この天皇の事業のために働いたのが、この土地に移住して来た、半島の民であった。彼らは、当時まだ日本人が持っていなかった、様々な技術水準に優れていた。

かつて、百済郡（くだらぐん）と呼ばれる地名が、今の天王寺区の辺りにあった。
現在では、百済駅（くだらえき）という貨物駅が、関西本線の東部市場駅の横に隣接して存在している。
これらの地名は全て、かつて百済（ペッチェ）人のコロニーと、関わりがあった。

「百済が滅んだ後、同盟国の日本に多くの人が亡命して来ました。その人たちは、すぐに博士や高官に取り立てられました。その当時は、何の抵抗感もなかったのです。」

半島からの移民たちは、この上町台地にまず足がかりを築き、それから周辺の河内国や山城国に向けて、おいおい移住していったに違いない。
京都府南部の山城国は後世に平安京が置かれた土地であるが、ここをまず開いた秦氏（はたうじ）は、半島からやって来た集団であった。
京都は、盆地の真ん中に、鴨川が流れている。
真ん中に川の流れる盆地に、都を築くという地形の選定。
これが、半島と同じであることに気が付くだろうか？
新羅の都である慶州（キョンジュ）は、盆地の中央を兄山江（ヒョンサンガン）が、南北に流れている。
百済の都であった扶余（プヨ）もまた、同様であった。白馬江（ペンマガン）が、内陸盆地の都を、貫いている。
これが、平安京の地勢とそっくりなことに気が付けば、両国の発想になにか通じるものがあったのではないかと、思わずにはいられない。
平安京に都を移したのは、桓武天皇（8世紀）。
この天皇の母親である高野新笠（たかののにいがさ）は、百済移民の子孫であった。
出自の関係もあったのであろうか、桓武天皇の周囲には、百済人の影響がつきまとっている。
天皇の周囲にいた半島からの移民たちが、都の選定場所について何かしらかの影響を与えたことが、十分に想像できないだろうか？

会長は、最後に言った。
「国が隔てられるようになったのは、ずっと後の時代なのです。今や、互いに戦争を繰り返して来たヨーロッパが、EUを作って共同体となっています。世界は、変わりました。東アジアも、これまでのいがみ合うのが当たり前だった歴史から、前に進まなければならないのです。」


わずか1時間足らずの、ツアーであった。
夏の日差しが、暑い。
韓国も、今はもう暑いんだろうなあ。
最後に、コリアンタウンの色を、印象として言ってみたい。

<table><tr><td width="220"><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140016.JPG"><img alt="P6140016.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140016-thumb.JPG" width="150" height="200" /></a></td><td><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140014.JPG"><img alt="P6140014.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140014-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a>
</td></tr></table>


Koreanの色は、緑。
私が、旅行で感じた、とおりだ。


<table><tr><td height="150"><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870005.JPG"><img alt="12870005.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/12870005-thumb.JPG" width="200" height="114" /></a><p></td></tr><tr><td><a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P5020003.JPG"><img alt="P5020003.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P5020003-thumb.JPG" width="200" height="150" /></a></td></tr></table>


彼らは、Chineseが好む黄色を、あまり好まない。
日本人がめでたいと感じる赤色にも、敏感であるように見えない。
この緑への好みは、どこから来たんだろうか？


<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140015.JPG"><img alt="P6140015.JPG" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/images/P6140015-thumb.JPG" width="250" height="187" /></a>


、、、陵墓の芝の、緑なのだろうか？

それとも、川面の水の、色なのだろうか。

そんなことを、思ったりする。

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   <title>美しい韓国の川だけは、守ってほしい</title>
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   <published>2009-06-11T02:26:42Z</published>
   <updated>2009-06-11T02:43:30Z</updated>
   
   <summary> 私が韓国の慶尚道を旅行して、いちばん感銘を受けた景色。 世界遺産の、仏国寺では...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/korea/0221/012.jpg"><img alt="012.jpg" src="http://suzumoto.s217.xrea.com/suzumoto/korea/0221/012-thumb.jpg" width="250" height="187" /></a>

私が韓国の慶尚道を旅行して、いちばん感銘を受けた景色。
世界遺産の、仏国寺では、ありません。
海印寺でも、釜山タワーでも、ありません。
洛東江（ナットンガン）の、まるで水墨画をこの世に再現したかのような、美しい流れであった。

いま、韓国理財部は、低迷する国家経済に刺激を与えるために、数十兆の資金を投入して四大河川改造事業を行う計画であるという。
河川の間に運河を掘り進めるという現大統領の抱負を聞き知ったときには仰天したが、現在の計画では、今のところ運河事業は盛り込まれていないようで、私は一安心した。

Daumの討論コーナーであるアゴラでは、「四大河事業」に対する賛否の意見が、激しく戦わされている。
ある論客は、韓国が日本の土建国家への道を進もうとしている、と反対している。
その懸念は、当然であろう。
韓国でも、日本の壊れた海や川を再現してほしくはない。
金と仕事を回す経済は、人間の生活のためである。
しかし、美しい水と景観を後世の国民に残すことも、また人間の生活のためである。
日本の無残な姿を反面教師として、よく学んでほしい。
そしてできれば、日本の（システムとしては腐っているかもしれないが、技術としては優秀な）力を、役に立ててほしい。

「理財部の四大河河川保護事業は、結局国土を壊す売国政策であることを知るとき、これをのうのうと見逃している者は、売国奴李完用とその末裔である親日派縁戚以外には、ないであろう」（アゴラの一投稿者の言葉）というような言葉が、韓国の川の美しさを知る日本人の私として、痛い。]]>
      
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   <title>「386世代」の原点</title>
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   <published>2009-06-09T00:41:22Z</published>
   <updated>2009-06-09T01:14:25Z</updated>
   
   <summary>1987年6月10日のことは、韓国で「6.10」と呼ばれる。 日本ではバブル景気...</summary>
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      1987年6月10日のことは、韓国で「6.10」と呼ばれる。
日本ではバブル景気がとめどもなく拡大していた時代で、当時東京の大学に入りたての私は、週末になればコンパだ飲み会だとのスケジュールが入って、新宿のライブハウスでバカ騒ぎしていた群衆を見ていた。
ひねくれ者の私は、若い集団のパワーに圧倒されたというよりは、こいつら何が楽しくてこんなに浮かれているのか？と、わざとのように理性を捨てようとしていた姿に、底意地の悪い冷ややかな視線を送っていたものだ。日本では、もう学生運動は一部の好き者が続けている、悪趣味の一つに堕落していた。いっぱんの学生は、飲んで騒いでサークル巡りするばかりであった。校則が厳しい高校を卒業して上京した私は、都立高校出身の同級たちから、彼らがすでに高校時代から合コンとか飲み会とかやりまくっていたという話を聞かされて、驚いた。酒飲んでいいのか？というレベルの驚きではなくて、そんなに早くから浮かれていていいのか？という、私のくそ真面目な性分から出た、驚きだった。

この時期、韓国はソウルオリンピックを翌年に控えていた。
そして、学生運動が爆発していた。
日本では1960年の安保闘争以来見られなくなった、民主化を目指して政府と衝突する熱い大衆運動が、ここではまだ現在進行中であった。当局による大衆への大殺傷事件である光州事件は、じつに80年代初頭に起こった。韓国は、まだ民主化を勝ち取る過程の真っ最中であった。

Daumの議論コーナー「アゴラ」に、今日投稿された記事があった。
Exciteを使えば、大略は分かる。
訳してみたいが、まだそれだけの韓国語の力量が、まだ私にはない。
22年経って、そろそろ民主化運動の記憶も、風化する寸前と見たほうが、よいのであろうか。日本では、60年安保から22年後には、もう労働運動も学生運動も、どこかに消え去っていた。今年5月のノ・ムヒョン前大統領の急死では、「386世代」たちの声がにわかに高まって、韓国中を覆った。「6.10」の頃に学生だった人々が今や韓国社会の中堅となっているから、彼らの声が現在の韓国でいちばん大きく聞こえるのは、当然というべきであろう。しかし、今の下の世代は、「386世代」とはまた別の現実に直面しているように見える。現在の現実を、どのように解決していくべきかを提案するのは、誰なのであろうか。


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      내일이면 6.10 민주항쟁이 일어난지 꼭 22주년이 되는 날이군요.

작년 이맘때쯤 온 나라를 뜨겁게 달구었던 촛불문화제와 맞물려 더 나은 대한민국과 더 나은 민주주의를 위

하여 살신성인 했던 수 많은 분들을 떠올리며 다시 한번 그 분들께 감사 드리는 한편 현 시점에서 우리에게

민주주의란 무엇인지 우리는 어떻게 더 나은 민주주의를 위하여 노력해야 할 것인지 생각해 봐야 할 것 같습

니다.

 

당시 독재타도를 외치던 국민들의 분노를 한층 더 끌어 올리게 된 고 이한열 열사의 최루탄 피격 사건은 결

국 직선제라는 커다란 결실을 국민들에게 안겨 주었지만 그 과정에서 많은 분들의 희생이 있었음은 부인하

기 어려운 사실일 것입니다.분명 22년전의 그 날은 대한민국의 민주주의를 한 단계 더 나아갈 수 있게한 너

무도 소중한 날임이 분명할 것이지만 한편으로 제게는 너무도 아찔한 순간이었으며 지금도 그 때를 생각하

면 온 몸에 전율이 올라오며 부르르 떨리는 마음을 주체할 수가 없는듯 합니다.

 

그 당시 저는 군에 몸을 담고 있었으며 제가 속한 부대는 일명 &apos; 충정부대 &apos;로서 사회에서 각종 과격시위나 집

회가 발생하면 제일 먼저 경찰력이 투입되고 진압을 하게 되지만 그 규모나 시위방식이 너무 격하여 도저히

경찰력만으로 진압이 안 되는 극한 상황에서 바로 저희같은 부대가 출동하여 제압을 하고 질서유지를 도모

하는 것이 저희 부대의 임무중 하나였었습니다.물론 그 충정훈련이라는 것은 차라리 100Km 행군을 하고 말

지 하는 생각이 들 정도로 너무 고되고 힘든 훈련이었으며 무더운 날씨에도 방독면을 쓰고 숨조차 제대로 쉴

수 없는 상황에서 진압봉을 들고 여러 자세를 취하거나 이리 저리 뛰어 다닐때는 정말 고통 그 자체였던것

같습니다.

 

1987년 6월... 

당시 바깥의 분위기는 &quot; 호헌 철폐 독재 타도 &quot; 등의 구호를 외치는 수 많은 시위대들의 모습과 일제히 문을 

닫고 영업을 하지 않는 상가앞 도로에서는 화염병과 돌이 날아 다니며 거기에 최루탄으로 맞서는 정말 전쟁

터를 방불케 하는 상황이었으며 그 시위의 강도나 참여 인원수가 하루가 다르게 늘어 나면서 혹시 진짜로 시

위현장에 출동하게 되지 않을까 초조한 마음으로 하루 하루를 보내야 했습니다.

 

며칠후 시위의 확산이 걷잡을 수 없어지고 결국 저희 부대에는 출동대기 명령이 떨어졌으며 각종 외박 외출

휴가가 금지되고 수송부에 가득찬 차량들은 방석망을 두르기 시작했으며 저희 소대도 흥분된(?) 마음으로

분주히 완전군장을 꾸리고 출동 준비에 여념이 없었으며 취침시에도 군화를 벗지 않고 출동 명령만을 기다

리는 극도의 긴장된 시간을 보내야 했습니다.

 

여러분 혹시 그 당시 부대원들의 마음이 어떠했을지 상상이 가십니까? 화염병과 쇠파이프 각목 돌들이 난무

하는 무시 무시한 현장으로 투입되어야 하고 또 같은 하늘 아래 살고 있는 국민들을 방어의 개념이 전혀 없

는 오로지 공격만의 목적을 갖고 진압 해야만 하는 절박한 심정을...내가 살려면 정말 무지막지하게 진압을 

해야만 하는 그 심정을...

 

고참 한 분이 저희에게 &apos;네들이 살기 위해서는 오로지 가차없는 진압밖에 없으며 현장에서 단 한발짝이라도 

후퇴하는 놈이 있으면 절대 용서하지 않겠다&apos;는 엄포에 저와 동기들은 너무 무섭기도 하고 혹시 현장에서 다

치지는 않을지 또 어쩌면 죽을지도 모른다는 생각에 눈 앞이 캄캄해지고 숨은 가빠오기 시작했으며 그 말을

내뱉고 되돌아 서는 고참의 뒷모습에서도 왠지 모를 두려움이 보이는듯 했습니다.


그렇게 언제 출동 명령이 떨어질지 모르는 긴박한 시간이 흘렀으며 그 때는 한 시간이 마치 하루처럼 느껴지

는 고통속의 시간이었던것 같고 식사시간에 밥을 먹는데 밥이 입으로 들어가는지 코로 들어가는지 모를 정

도로 입맛도 뚝 떨어지고 머리속에는 오로지 시위의 현장 한 가운데에서 어떻게 해야 할 지에 관하여 정말 

많은 생각을 했던것 같습니다.물론 저희 소대 역시 기나 긴 침묵으로 가득 차 있었고 조금이라도 나약한 모

습을 보이는 이들에게는 고참들의 가차없는 구타나 처절한 얼차려가 있었으며 그런 분위기에서 저 또한 한 

없이 입술을 깨물며 &apos;정신 똑바로 차리자 정신 똑바로 차리자&apos; 를 속으로 연발했습니다.
 


그런 숨 막히는 나날을 보내던 어느날 소대장님께서 내무반에 다급하게 들어 와 노태우 후보가 직선제를 받

아 들이겠다는 발표를 잠시전 했다고 큰 소리로 알려 주셨는데 그 말을 듣고 저희 소대원들은 서로를 얼싸

안으며 환호성을 지르고 정말 기뻐했으며 그동안 긴장으로 딱딱했던 근육이 한 순간 풀려옴을 느낄 수 있었

습니다.물론 그 발표에 시위는 급속히 수그러들기 시작했고 저희 부대에 내려졌던 출동대기 명령도 해제되

었으며 부대원들의 긴장 어린 눈빛도 평상시로 돌아오게 되었습니다.

 

분명 서울대생 고 박종철 고문 치사사건으로 촉발된 6.10 민주항쟁은 국민들의 엄청난 분노로 결국 김대중

전 대통령님의 사면복권과 시국관련사범들의 석방 및 민주주의의 초석인 직선제라는 소중한 결실을 맺은 결

코 잊을수 없는 소중하고도 아픈 경험이었지만 어쩌면 그 시기가 저에게는 너무도 아찔한 시간이 아니었나

생각해 봅니다.

 

 

저는 지금도 생생하게 기억합니다.

사단장님 앞에서 충정훈련 시범을 보일때 온 천지를 진동케 한 수천명의 병사들이 발 맞추어 내는 무시무시

한 군홧발 소리를...


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   <title>いまどきの学生は、天安門事件なんて気にしない（Tiananmen Now Seems Distant to China’s Students）-NYTimes記事</title>
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   <published>2009-05-23T01:41:20Z</published>
   <updated>2009-05-23T01:48:16Z</updated>
   
   <summary>http://www.nytimes.com/2009/05/22/world/...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://www.nytimes.com/2009/05/22/world/asia/22tiananmen.html?_r=2&ref=world">http://www.nytimes.com/2009/05/22/world/asia/22tiananmen.html?_r=2&ref=world</a>

4月30日、北京大学の32630名生徒全員の携帯が、大学当局からの文字メッセージを伝達して、鳴り響いた。北京大学は、中国最高学府のひとつとして、世間に穏やかな大学と見られている。メッセージの内容は、「特別に複雑な」状況ゆえ、青年節には「諸君の発言と行動に注意するように」というものであった。]]>
      その意味が分からない生徒は、ほとんどいなかった。5月4日の青年節は、1919年に学生たちが列強の帝国主義と弱体な中国に対して立ち上がった、記念日である。それから70年後の1989年、北京大学の学生たちは、デモクラシーを求めて北京市の中心に再び群集した。学生運動は、共産党を芯から動揺させ、結局それは軍事弾圧による何百人もの死者をもって、終わった。

今、たとえばある学生が、デモクラシーのための抗議運動を提議したら、どうなるだろうか？

インタビューした、北京大学の歴史専攻生が言う。「気が狂ったかと、思うでしょうね。みんな、どこに線が引かれているか、知ってます。考えるのはオッケー、話してもオッケー、1989年のことについて考えても、オッケー。できないのは、公衆に影響を及ぼすことを何かすることです。みんな、それを知ってます。」

ほとんどの学生たちは、それを受け入れているようだ。この二十年、中国政府は、生徒と教授は本を読むのが仕事で、街頭に出てはならないという点を、徹底的に示してきた。いまどきの学生は、1989年のことを、突発的な歴史とみなしている。あまりに極端で悲劇的なために、繰り返せない瞬間。

しかし、デモクラシーが彼らを惹きつけないのかどうかの問題は、複雑だ。

北京大学の学生や教師、それに中国各地での専門家へのインタビューを通じて見えてくることは、今日の学生の多層なポートレートだ。抗議は、したくない。しかしまた、1989年の抗議に火を点けた経済的不満が、あるわけでない。中国の成果を、誇っている。そして共産党に集まるが、それはイデオロギーに導かれたためでは、まずありえない。

彼らは、政府の腐敗と検閲を嫌がっており、西側、とりわけアメリカで勉強することを、熱望している。そして、政府の1989年事件の抹殺の試みにもかかわらず、何が起こったのかを知っている学生もいる。インタビューした北京大学の学生八人のうち、七人までが、発禁の天安門事件に関するドキュメンタリーのダウンロードに成功して、下宿部屋で見たことがあるという。

「学生はデモクラシーに関心がない、というステレオタイプの見方があります。私は、そうは思いません。」ブルッキング・インスティチューションリサーチ主任のCheng Li氏は、インタビューで語った。「少なくとも、彼らは共産党に対して、複雑な見方をしています。」

Xia Yeliang北京大学教授は、言った。「多くの学生は、理論としてデモクラシーを支持しています。しかし、自分の未来をリスクにかけてまで、戦いたくない。」彼は、学生たちがジョークめかして言う言葉は、「デモクラシー運動が盛り上がったときには、僕も参加するよ」であるという。「かなりの高率の学生は、政治に興味がありません。彼らが言うには、『よいことなのは、わかってます。でも、それが私に何の関係あるんですか？』です。彼らは、自分の個人事に、関心があるのです。仕事をどうやって得るべきか、海外にどうやって行くべきか、、、」

共産党の機関紙『人民日報』ですら、キャンパスにおける理想主義の全般的な欠如を、嘆いた。「多くの大学生は、あきらかに考えが功利主義的だ。」人民日報が発行する雑誌、People’s Forumは、今月号で学生への調査に不満を漏らした。「何もかもが、『自分に役に立つかどうか』に基づいている。」

じじつ、こんにちの学生たちは、20年前よりも失うものを多く持っている。シカゴ大学社会学教授のDingxin Zhao氏による天安門運動に関する2001年の著作によると、当時の大学生たちは、年率28％のインフレーション、おそるべき政府の腐敗、そして雇用の縮小によって、自分たちの未来が脅かされていると、信じていた。多くの者は、政府の経済改革によって、希望を失っていたのだ。

こんにち、共産党の支配を批判する学生ですら、中国の大躍進を誇っている。物理専攻の四回生、Wang Yongliは言う。「ときどき僕らは、政府の政策が嫌になる。だけれども、僕らは他方でこの国を誇りに思うし、政府も誇りに思う。だって、彼らはこんなにも多くの人々の生活を、改善したんだ。」

共産党は、このイメージを慎重に育成している。他方で、デモクラシーへの希望を、「デモクラティックに」治めることを誓うことによって、散らそうとしている。

当局は、西洋式の多党制デモクラシーは中国に悪益であるとして、反対する。しかし、また当局は説得、公開された再検討、党の支配下での投票という考えを、採用している。中国は、国がより豊かとなり安定したならば少しずつ政治制度をあくであろう、と当局は約束する。

中国研究家の中には、もし現行の経済危機が学生たちの未来を暗くしたならば、彼らの不満は高まるであろうと示唆する。中国は、1989年に比べて、9倍の学生を高等教育施設に送り込んでいる。そして、よい仕事への競争は、熾烈である。新華通信が報告するには、ほとんど四人に一人の卒業生は、職がないという。

しかし1989年以来、共産党のリーダーたちは、学生を無視すると恐ろしいことになることを、理解している。政府は、いま職業訓練プログラムや辺地で働くことへのインセンティブを与えることによって、雇用不安を和らげようとしている。温家宝首相は、12月にある学生集会で、言った。「君たちが困っているならば、私は君たち以上に困っているのだよ。」

カリフォルニア大学の政治学教授Susan L. Shirkは、言う。「党はまた、学生のリクルートと政治教育に力を入れています。こうして、学生が党内の最も成長している部門となっているのです。」2007年には、全学生の8％以上が、党員であった。これは、1989年に1％未満であったことと、対比をなす。北京大学のようなエリート校では、パーセンテージはもっと高い。

こういった学生の中には、党の意見を繰り返す者もいる。北京大学エコロジー専攻のSong Chaoは、言う。「中国は、大人口です。教育には、長い時間がかかります。それを考えれば、私たちは何らかの規制を人民に与える必要があります。中国のいま一番の仕事は、成長なのです。」

党が改革していくことを希望する者も、いる。ある別の歴史専攻生は熱心な党員だが、言う。「もちろん、デモクラシー社会になれれば、そうしたいです。しかし、ラディカルなやり方で、それを達成するべきものでは、ありません。大混乱が起こったら、どうするのですか？」

しかし、People’s Forumの調査が結論したところによれば、学生の過半は、イデオロギー的な主張によってでなく、よい仕事を得るために、党員になろうとしている。北京大学では、多くの学生は言う。自分たちは、大学で義務コースの政治思想講義で、居眠りしている。「教師たちだって、屑なことを教えていると、知ってますよ。」とある四回生は、言った。

ほとんどの学生は、こういった発言を匿名で言う。政府によるキャンパスでの発言への規制は、厳格だからだ。教授たちは、学生たちはもし教師たちが何か反政府的な言動を行ったならば、行政に報告する義務が与えられている、と言う。インタビューしたほとんどの学生たちは、本名でないことを希望した。自分のコメントがブラックリストに載せられることを、恐れてのことだ。

5年前、大学はユーザー数30万人で、情報が活発に飛び交っていたコンピュータ上の掲示板を、閉鎖した。それは、中央政府の教育長官が、そこで「正しい見方」が必ずしも表現されていない、と不満を述べた後のことであった。学生たちは、今は新しい制限・監視付きの掲示板において、身元が割れないように慎重に書き込んでいるという。

調査によれば、5人のうち4人の大学生は、いまだにニュース源として、中国の厳重に検閲されたメディアに頼っているという。しかし、このデジタル時代、70000人近くの中国人学生がアメリカで学び、約163000人の留学生が中国の大学で学んでいるこの時代において、情報を遮る壁は、磐石でない。

ある四回生は、2007年に北京大学であった、外国ジャーナリストとのつらい座談会のことを、思い出す。ジャーナリストたちは、1989年の学生弾圧について、尋ねた。彼女は、言った。「彼らは、いつも6月4日事件のことについて問いかけた。そして、私たちは黙っていた。それは、私たちが話したくなかったからでは、ありません。私たちは、それについてよく知らなかったんです！」

彼女は、言った。「私たちは、自分たちの歴史を知らない。それで、すこし侮辱されたように感じました。だから、私は図書館に行って、6月4日について読みました。基本的に、ぜんぶ外国のジャーナリストが書いたものでした。」

公共の場での議論への規制は、キャンパスでの政治討論を、うわさのレベルにまでしぼませてしまう。二人の北京大学教授は、Charter 08に署名した最初の二人であった。これは、12月に公開されたオンラインでのデモクラシー推進宣言書で、多くの知識人の支持を受けている。

Xia経済学教授は署名者であるが、彼は二つの研究所の地位を辞任せざるをえなくなった、と言う。彼の同僚で同じく署名した著名な法学教授のHe Weifang氏は、中国の西辺にある無名の大学に左遷させられた。He教授の流刑は、海外ではニュースとなった。しかし、来るべき天安門事件記念日と同じく、学生の注目をほとんど受けていない。

ある学生は、匿名でキャンパスのコンピューター掲示板に、教授を擁護する書き込みをした。「He教授が行きたい所に行ける日が、いつかやって来る。」

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   <title>四寸・八寸・十六寸</title>
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   <published>2009-05-18T01:08:02Z</published>
   <updated>2009-05-18T05:40:32Z</updated>
   
   <summary>韓国語に、サチョン（사촌）という言葉がある。 「四寸」と漢字で書く。 これは、四...</summary>
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      韓国語に、サチョン（사촌）という言葉がある。
「四寸」と漢字で書く。
これは、四等親という意味である。
自分から見て、一寸が両親。
二寸が、祖父母。
三寸が、おじおば。
その子が、四寸となる。つまり、いとこのこと。
イウッサチョン（이웃사촌）という言葉が、しばしば使われるという。
直訳すれば、「隣のいとこ」という意味。
これは、血のつながりはないが、いとこ同然に親しい間柄を指す言葉だ。
人の関係についても言うし、国の関係についても言う。
「ハングッハゴ　イルボヌン　イウッサチョニダゴ　センガカムニダ。」
－韓国と日本は隣のいとこだと、思います。
こんな言い方が、できる。

韓国語の親族を表す言葉は、日本語よりもはるかに多い。
日本語なら「おじ、おば、祖父、祖母」で終わってしまう言葉が、韓国語では複雑に分かれている。父方については、何番目の兄・姉であるか、あるいは子がいるかいないかで、言い方が変えられる。
言葉は、その文化が大事だと思っている対象について、豊富な表現方法を持つという。
アラブ語がラクダについて豊富な語彙を持っていたり、漢語が料理方法について細かい用語を誇っていたりするのは、それぞれの文化が大事に思ってきた対象をよく表しているといえよう。
日本でも、あったね。

　津軽には七つの雪があるとか
　粉雪、つぶ雪、綿雪、ざらめ雪、水雪、かた雪、春待つ氷雪

新沼健二の、『津軽恋女』。
雪の津軽だから、雪にいろいろ言う。
日本語全般では、雨の語彙がとても多い。雨の国なのだ、日本は。
さて韓国では、父方は十六寸、母方は八寸までが、親戚とされる。
ものすごい、広がりだ。
数えてみれば、自分の八代前の父方の祖先の子孫が、親戚となる。父方だから、必ず自分と同姓同本貫のはずだ。もし一世三十年と考えれば、二百四十年前の祖先から分かれた同姓の人が、ぜんぶ親戚となる。
親類というよりは、社会集団と言うべきであろう。
ここが、日本と全く違う。
韓国の歴史で、特定の一族がまたたく間に権勢を独占するケースが見られるが、これは韓国社会の親類の結束の強さが、背景となっているはずだ。日本では、一族による権勢の独占は平氏や北条氏の頃まで見られたが、室町時代以降は目立たなくなった。親類よりも組織集団の結束のほうが、日本人の集団意識として重視されるようになったからであろう。
韓国に旅行すれば、同姓同本貫の人たちの組合事務所が、都市にある。
金海金氏、密陽朴氏、全州李氏、晋州姜氏、、、
外国人の目にはよく見えないが、韓国社会にはこのネットワークがある。政治すら、このネットワークで動いている面がある、と洩れ伝わってくる。

韓国語では、母の姉妹、すなわち母方のおばを表す特定用語として、イモ（이모）がある。イモは、面白いことに他人の女性に対しても、使う。店などに行って、その店のママさんに対して親しく問いかける言葉が、「イモ！」である。

それと、韓国語では男性と女性で、親しい目上の人に問いかける言葉が違う。
男性は、親しい目上の男性に対して、「ヒョン」と呼びかける。目上の女性には、「ヌナ」を使う。
女性は、親しい目上の男性に対して、「オッパ」と呼びかける。目上の女性には、「オンニ」を使う。
ところが、ここからが面白くて、男性もまた、女性に対して「オンニ」を使うことがある。ちょっとふざけたニュアンスを持った、親しい彼女への呼びかけである。年上・年下は、関係ない。日本語にあえて訳せば、「オネーサマ！」といったところだろうか。
だから、男と女が、互いに「オンニ！」「オッパ！」と呼び合っていれば、二人がとても親しい間柄だということが、すぐに分かるのだ。そうして結婚した後も、「オッパ！」と呼び続ける。やがて子供が生まれると、「オッパ！」が「アッパ！」になる。「アッパ」は、お父ちゃんのこと。たぶん漢語からの、輸入語だろう。

ちなみに女性が男性に「ヒョン」と呼びかけることは、普通ない。あるとすれば、学生時代に女性が気合を付けて、先輩などを呼ぶ場合だけ。日本語にあえて訳せば、だから「センパイ！」あたりなのだろう。

      
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   <title>「間」と「情」</title>
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   <published>2009-05-16T13:48:32Z</published>
   <updated>2009-05-17T18:25:16Z</updated>
   
   <summary>今日、韓国フリークのオフ会があって、いろいろ面白い話を聞かせていただいた。 忘れ...</summary>
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      今日、韓国フリークのオフ会があって、いろいろ面白い話を聞かせていただいた。
忘れないうちに、メモしておく。

－関西在住、三羽烏。

これは、姜在彦、金達寿、尹学準の三氏のことである。
幸いに、私は三氏の書物を、読んだことがある。
だから、彼らを韓国で出迎えに行った、という本日会った方の話を、適当でなく聞くことができた。
いずれも、司馬遼の『街道をゆく』に出てくる。

『韓のくに紀行』。
『壱岐・対馬のみち』。
『耽羅紀行』。

金氏は、壱岐・対馬への旅行に、司馬遼と共に行った。
姜氏は、耽羅すなわち済州島への旅行に、同行した。
「司馬氏はお弟子さんがいなくてね、資料集めを人に振るんだ。彼は、人づかいがうまかった。耽羅紀行の資料は、姜先生に振った。その資料集めが、当事学生だった、僕に振られたのさ。」
私は、本日会った三羽烏の後継者の方の話を今日聞いたから、三世かな？
その方は、現在日韓の貿易のお仕事をしておられるが、学生時代は上田正昭京大教授の謦咳に触れられて、日本の大阪生野出身の在日韓国人でありながら、韓国ソウルの大学に留学された。当事まだ注目されていなかった、野史（ヤサ）の研究をなされた。野史は、韓国史で中世と呼ばれる、李朝時代の民間の記録である。現代の韓国文化の原点は、中世の李朝にある。

この方が、ソウルに留学なされていたとき。
「よう！」
教室の学生数は十八人なので、すぐに顔見知りになる。
胸には、当時いちばんポピュラーだった、「コブッソン」のたばこ。
ぐいと、取られて、
三本を、引っこ抜いて、
彼は、残りを返すのかと、思った。
ところが－
彼のポケットに返したのは、その三本だった！

大学試験に、受かった日。
下宿のオーナーに、なぐられた。
「よく受かったな！」と、祝福の、しるしとして。
下宿に、戻ったら。

冬。
漢江は、氷点下18度の気候で、凍る。
酔っ払いが、川のそばで、寝ていた。
－日本人だったら？
通り過ぎる。
しかし、彼は韓国流儀に従って、背負った。
背負って、警察に連れて行った。
警官は、彼をほめたという。
「お前ら学生は、政府に楯突いてばかりするが、たまにはよいことするじゃないか！」

相手に、このぐらいはやる。やらなければならない。
そのお返しに、自分にもやってくれる。
トータルで、つりあっている。
それが、韓国なのだろう。私は、お話を笑いながら聞いた。

－日本は「間」の文化で、韓国は「情」の文化。

これは、もう一人のお方が日韓の文化を総括された、言葉である。
このお方も、代表取締役。
くしくも一国一城の代表三人が、同じテーブルに集まっていた。
私の城は、ちゃんとビジネスを成り立たせておられるお二人とは違い、ただのにわか仕立てのあばら家であるが。

その方が言った。
－仕切るんだなあ。人と人とを、互いに干渉しないように。それが、日本の文化。しかし、韓国人は、相手のテリトリーに、ぐいと入っていく。島国と、半島との違いだよ。島国のムラだと、いちど失敗したら、逃げられない。だから、明日また同じ人と顔をあわせることを、先に考えた行動になる。しかし、韓国は陸つづきだから、やばくなったら逃げればいいんだ、って考えるんだ。中国に逃げればいい。ロシアに逃げればいい。アメリカだって、日本だってある。だから、いまこの時を遠慮せずに、自分の思ったままの姿をさらけ出したほうがいい。そう、思うんだよ。韓国と日本の違いを、何と表せばいいか長らく分からなかった。香川に行って、話を聞いたとき、分かったんだ－「間」の日本と、「情」の韓国さ。


      
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   <title>傷に塩を塗るのか（Salt in their wounds）－The Economist記事</title>
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   <published>2009-05-16T00:56:00Z</published>
   <updated>2009-05-16T01:02:37Z</updated>
   
   <summary>今週号記事を、訳す。 犯罪者扱いされる、遺族の親たち（Bereaved pare...</summary>
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      <![CDATA[今週号記事を、訳す。

<a href="http://www.economist.com/world/asia/displaystory.cfm?story_id=13650027">犯罪者扱いされる、遺族の親たち（Bereaved parents treated like criminals）</a>

「災害地域の市民は、新しい生活に向けて行進中であります」と、胡主席は宣言した。
五月十二日。四川省での地震が、8万6000人以上の死者及び行方不明者を出し、数百万人の家を奪った、一周年のことであった。
しかし、主席がいう中国の巨大な救助活動が納めた勝利宣言にもかかわらず、生き残った人々の中には非常に不満が残っている。]]>
      中国の地震に対する迅速な対応は、そのスピードとオープンさで、国際的賞賛を勝ち取った。ふつう、ジャーナリストは災害の現場から、締め出される。しかし、今回は、おおむね無制限のアクセスが許された。しかし、当局はすぐにつぶれた学校によって圧死した幾千のこどもたちの怒った親類たちに近づくことを、制限しようとし始めた。主席が震源地近くで巨大な被害を受けた映秀であった、外交官が出席したセレモニーの席で一席ぶっていた頃、その地区の警察は、家族たちが苦情をメディアに載せようと試みるのを阻止するために、取締りを強化していた。

映秀の東南約２０kmにある聚源の町では、警官が立ち入り禁止となった中学校の残骸を、取り囲んでいた。そこでは、数百人の生徒が、死んだところだ。外国のジャーナリストは、現在地震の被害地域からレポートするためには、政府に登録しなければならない。周辺の都江堰市の役人は、聚源に本誌記者が行くならば、当局の介添えを連れて行くようにと主張した。しかし、いざそこに着くと、黒シャツの警備員が直ちに一行をストップさせた。彼らは我々を警察署に連れて行き、そこで役人が、「聚源は『特別管理』状態にある」と、宣言した。

聚源中学校近くの建物には、地震のダメージはほとんど見えなかった。
親たちは、疑っている。これは、学校の建物よりしっかりと建てられていたから、こうなったのだと。地震から数日のうちに、高位の役人たちは、いいかげんな建築が7000以上の教室の崩壊の原因であったのか調査することを、誓った。しかし、この問題は、すぐにトーンダウンされた。政府が最終的に死亡・行方不明の生徒の人数（5335人）を公表したのは、一周年記念日のたった数日前のことであった。しかし、役人たちは、同時に主張した。稚拙な建設が原因で崩壊した学校は、ひとつもなかった、と。 

Juyuanの遺族の親たちは、納得がいかない。中学校で死んだ15歳の息子の父親は、地方政府が調査を恐れていると、批判する。
「腐敗が、あるからだ。」
当局は、この男性と他の数人の親を、5月12日に観光旅行ツアーに合流するように、要求した。どうも、一周年に町から遠ざけるのが、目的のようだ。中国の厳格な一人っ子政策のために、多くの親はたったひとりしか、子供がいないのだ。

北京では、あのオリンピックの「鳥の巣」をデザインした著名な艾未未が、50名以上のボランティアを組織して、地震地域を旅行して、死亡した学生生徒たちの名前を集め（彼は、7000人以上はいるはずだ、と確信している）、親たちの声を聞こうと企画した。彼が言うに、チームは道中、警官に20回以上止められているという。警官はたいてい彼らが取った記録を没収し、消去し、そして、これ以上続けたらもっと重く処罰するぞと、脅した。二度、ボランティアは殴られた。犠牲者の親たちと、外国ジャーナリストたちもまた、同じような目に会っている。親たちは、抗議するなと警告されている。それを拒否した親たちは、こう言われている。「法輪功の、支持者か？チベット独立運動の、支持者か？」－艾氏は、こう語る。

当局は、直接的には艾氏の活動を阻止しようとしていない。しかし、北京のインターネットポータルは、しばしば彼がやろうとした署名活動の更新についてのブログ記事を、消去している。3月、四川省の警察は、活動家Tan Zuorenを逮捕した。彼は、Ai氏と同様の企画を実行している人物であった。彼は、現在も拘留中である。Huang Qiもまた、拘留中である。彼は、崩壊した校舎についての情報を集めた後、国家の機密情報を保持していたとして、昨年訴追された。

艾氏は、「中央のトップが政策の失敗について認めるのを拒否することは、親の不満を増すだけだ」、と語る。90年代、中国全土で、いいかげんな作りの学校が建てられた。それは、政府が義務教育九年政策の徹底のために、十分な教室の確保へと動いたからであった。建築費は、中央政府と地方政府の両者で、拠出されるはずであった。しかし、地方政府は、しばしば金を出さなかった。こうして、質の劣化が起こった。

今月、学校と病院は四川地震にだいたい等しいマグニチュード８に耐えられるように造られるべき法が、施行された。だがこんなことは、聚源の怒る親たちにとって、何の慰めになろうか。彼らは言う。「地方政府は、草ぼうぼうの学校の敷地に行って、冥福を祈ることすら、禁じているんだ…」
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   <title>悲鳴を上げる中国農業 - 日経オンライン記事</title>
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   <published>2009-05-13T23:11:48Z</published>
   <updated>2009-05-13T23:28:39Z</updated>
   
   <summary>ある教授が農村で目にした“悲惨な病理&quot; 話し手は、愛知大学の高橋五郎教授。まず自...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://suzumoto.s217.xrea.com/">
      <![CDATA[<a href="http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090507/193943/?P=1">ある教授が農村で目にした“悲惨な病理"</a>

話し手は、愛知大学の高橋五郎教授。まず自ら、「中国専門家」ではなく、「農業の専門家、食料の専門家」であると、断ってからの、インタビューである。ゆえに、教授は農業・食料の専門家として中国農業の実態について、語る。

日本でもさみだれ的に報道されている中国農業の恐るべき汚染実態を、高橋教授もまた述べる。
<blockquote>
――　そう考えると、土作りや水の管理、肥料の使い方、循環の手法などについて、国や企業がもっとコミットすべきなのでしょうね。 

　高橋　何らかのルートでコミットすべきでしょう。ただね、農民に教えることは大切だけど、何せ数が多い。日本の場合、農協などに農家を集めて研修や講習会を開くことができる。ところが、中国の農村では、どこを見ても農民を集める施設がないんですよ。従って、一人ひとり相対で教えていくしかない。これはものすごい時間がかかる作業です。 

中国には、技術指導などを担う農業専業協会という農協のような団体があります。ここの指導員を教育するという方法はありますが、先ほど述べた理由で、指導員が農民に指導していくのもえらく手間がかかる。コミットするとしても、相当に大変だと思いますよ。</blockquote>

高橋教授は、農業の技術が立ち遅れている原因として、土地の公有制度を挙げる。これは、さきほど政府が、農民に対して土地の一定の使用権を認めて、資産として活用することを認めた立法を通した、と聞いていた。いったい、いまだに実行化されていないのだろうか。農村の購買力を上げる、という中央政府のスローガンは、いつになったら末端にまで政策が行き渡るのであろうか。

それにしても、上の引用などからも垣間見えるように、地方政府の無能と非能率さは、ひどいもののようだ。農村を貧窮させ、汚染への関心を失わせている最大の障壁は、中央と地方の政府なのではないか。いまだに、首都が作った法を広大な天下に一律に当てはめて、地方には中央にしか目が向いていない、金権まみれで直近上位の役人の監視の目しか気にしていない、非能率な役人ばかりしかいない。帝国時代から、進歩していないではないか。もっと、人民の幸福を願う有志の者が、法によって処罰されることを恐れずに、自発的な力を発揮できるような社会に作り変えることを、望む。もういいかげん『韓非子』流の統治政策は、捨てなさいよ。]]>
      
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   <title>最も遠い国</title>
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   <published>2009-05-10T22:50:19Z</published>
   <updated>2009-05-11T15:11:23Z</updated>
   
   <summary>昨日、韓国語講座仲間と飲んで、その時出た会話。 「北朝鮮は、韓国にとっていちばん...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://suzumoto.s217.xrea.com/">
      昨日、韓国語講座仲間と飲んで、その時出た会話。
「北朝鮮は、韓国にとっていちばん遠い国ですよ。何考えてるか、まったく分からない。」
ソウルの人が、言った。
日本人がいっぱいいるソウルに生活していた彼女にとって、日本はよほどに近い。北朝鮮は、もうそうでない。若い世代は、正直そう思っているのだろう。統一という韓国の国是は、残念ながら若い世代から、崩れ始めていると予感した。ちなみに、いま韓国で「八道」といったら、韓国の行政区画である八道のことを言うようだ。現在は、済州道が新設されて、九道になっている。私は歴史的な八道（京畿・慶尚・全羅・忠清・江原・黄海・平安・咸鏡）を想定して話をしたら、彼女と言っている内容が、食い違ってしまった。

「『同志』（たしか、「同胞」の意の「トンポ」と言っておられたと思う）なんて言葉、知らないよ。北の人は、学校でこれを使うんだな。」
日本に住んでいる韓国籍の人が、言った。
聞いてみると、朝鮮籍の人は、やっぱり韓国に渡航できないという。
渡航したければ、韓国籍に変えるしかない。
しかし、韓国籍でも、北朝鮮に渡航は可能だという。
「金、出しゃあね。結局、金だよ。」
じっさい、渡航しているという。
現在、新潟の港は閉ざされているが、北朝鮮に渡ることができないかといえば、そうではない。
中国を経由すれば、行くことができる。
だから、日本の制裁政策は、中国と調整をしなければ、何の実効もないことになる。
これじゃあ、バカにされますよ。
本当に日本は、人権を大事にせよと、胸を張って言えますか？
抑圧されている人、国家の犠牲となっている人に対して、「私たちはあなた方の味方だ」と、言うことができますか？していますか？
拉致被害者について怒るならば、どうして法輪功弾圧に対して、怒らないのか。ミャンマー軍政を、どう思っているのか。ロシアのファシズムと言ってもよいプーチン政権を、どう思うのか。
日本人の悲しみだけ主張していれば、外国が聞いてくれると思ったら、大間違いですよ。
日本は、経済が繁栄して、その何万倍も、高笑いの声が外国に聞こえているではありませんか？
      
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   <title>酒井敏雄『日本統治下の朝鮮　北鎮の歴史』</title>
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   <published>2009-05-02T10:08:12Z</published>
   <updated>2009-05-02T12:34:02Z</updated>
   
   <summary>著者は一九二〇年北鎮で生まれ、この土地の日本人小学校を卒業し、平壌の商業学校に学...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://suzumoto.s217.xrea.com/">
      <![CDATA[<blockquote>著者は一九二〇年北鎮で生まれ、この土地の日本人小学校を卒業し、平壌の商業学校に学んだ。ここの生徒は半数が朝鮮人で、著者はいまも彼らと親交を結んでいる。北鎮の歴史を書くことができる残り少ない一人である。（表ブックカバー折込みより）</blockquote>

本書は、草思社から2003年に発行。

本書の大半は、かって植民地時代に平安北道雲山郡北鎮面と呼ばれた金鉱都市の、歴史である。
叙述は詳細で、これもそれなりに面白い。
だが、山間の一都市だけの記録であって、戦前の朝鮮半島の全体像がここから理解できるかと言えば、私はそれには無理があるだろう、と思った。

むしろ、本書の冒頭に当たる、第一部「数字が語る日本の朝鮮統治」が、意見として重大である、と感じ取った。
この第一部は、『朝鮮総督府統計年報　明治四十三～昭和四十七年度』を一次資料として、植民地時代朝鮮の経済動向を、分析しようとする試みである。
その、結論。
<blockquote>
、、、朝鮮の近代化計画は約二〇年余りで達成されたのである（昭和五年頃）。
近代化のために日本は、朝鮮の人々を誘導するため、時には軍事力を行使したこともあり、後にはこれが朝鮮における日本の失政といわれる大きな原因となった。
しかし世界の植民地で、このような短期間に繁栄をもたらした国が果たしてあったであろうか。これには日本の決断と実行がなくては進まなかったであろう。
当然のことながら、これは多くの朝鮮人の絶大な協調と理解があってはじめて達成されたことである。
このような輝かしい成果が、どのようにして醸成されたかは多くの日本および韓国の学者や研究者たちが『朝鮮総督府統計年報』の解析に携わり、その結果を次々と公表することになれば、やがて日朝の近現代史が新たに解明され、これにより日韓両国とその国民には必ずや明るい二十一世紀が開かれてゆくものと確信される。（pp20-21）</blockquote>
朝鮮の近代化が達成され、経済水準が李朝時代より向上した傍証として、著者は人口と歳入の増加を挙げる。
朝鮮民族の人口は、
1910　13,128,780人
1941　23,913,063人（＋182％）
朝鮮総督府特別会計の歳入は、
1911　 52,284,464円
1930　218,210,352円（＋417％）
であった。著者は1942年と比較しているが、戦時中では税収体系に大幅な変更が起こっていただろうし、満州事変以降の円ブロックの経済は、インフレーションがあったはずだ。だから、満州事変直前の大恐慌時代、1930年と比較してみた。
人口と財政収入が期間を通じて激増していることが、このデータから読み取ることができる。
これが著者の言うように、単純に朝鮮民族の生活向上を意味していたのかどうかは、私には即断できかねる。
たとえば著者は、「従来畑作が主で穀類はムギ・アワ・ヒエ・キビ・トウモロコシなどで、栄養に乏しかった朝鮮人は、米の飛躍的な増産で彼らの食生活は栄養的に改善され、、、これは人口が急激に増加したことで明らかとなった」（pp39）と、書いている。
しかし、この説明は、どうも李朝時代に農村を旅行したイザベラ・バードの観察と、食い違っているように思われる。バードが見た農村は確かにとびきり裕福とは言えなかったが、食事は現在の韓国人のパンチャンと同じく、米のごはんといくつもの小皿が供される食事で、味もよく栄養にも富んでいた。ひょっとしたら、著者は自らが生活していた北部地方の事情について、一般化して述べているのかもしれない。戦前に日本に渡って来た人々は、困窮した小作人が多かった。平均値はどうであれ、困窮した階層が植民地時代に発生していたことは、私にとっては確からしいと思われる。それは、現在の在日の方々がアボジやオモニの労苦を思い出して語る言葉に、よく表れている。

しかし、他方で、植民地時代の朝鮮が日本の経済的収奪によって、全般的に困窮化したと主張するならば、たぶんそれも誤っているのでは、なかろうか。
私は、経済史の研究家ではない。
ゆえに、これまで半島について書かれた著作を私が読んだ限りで、自分としてイメージで語るより他はない。
戦前の巨文島（コムンド）は、漁業で繁栄していた。
本書にも書かれているように、北鎮は日本資本によって活況を呈していた。
以前読んだ朴景利の小説『金薬局の娘たち』は、統営が物語の舞台であったが、日本による併合は人々にとって痛恨事であったと、書かれていた。しかし、二十年の歳月が過ぎた後の統営の街は、日本式の漁業が導入されて、繁栄を加えていたと叙述されていた。
もちろん、経済的繁栄と、人の心の憤りは、別次元のものだ。
『金薬局の娘たち』でも、併合から２０年後の若者たちの中には、独立運動に向けて突き進もうとする群像が、現れて来る。
かつての日本史でも、貧農史観が猛威を振るっていた。今でも、有力なのかもしれない。
植民地時代の朝鮮史も、経済的収奪史観だけでは、歴史の実像に迫ることはできないのではないだろうか。
両国のわだかまりは、もはや経済ではない。
プライドを傷つけられた、人の心の憤りに関する、点なのだ。]]>
      
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