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一 抜かずの長剣(1)

(カテゴリ:101兵法の章

淮陰の城市(まち)に、妙な立て札が立った。こう読めた。

知者を求む。淮陰で一番の知力を持っていると自負する者は、わが元に集うべし。

下邳(かひ)の賈人 韓簫子

賈人(こじん。商人)が求人をする内容であった。
この淮陰は綿の生産が盛んで、外からも多くの商人が出入りしている。だから、その中の誰かが人を求めているに違いなかった。しかし、その求人の条件が、「この城市で一番の知力を持っていると自負する者」とは、ずいぶん奇矯であった。
今日の朝、この故郷の城市に帰ってきた韓信も、さっきまでこの風変わりな立て札を見ていた。
「淮陰一の知者、、、?知者なんかいないよ、この田舎には、、、」
などと、彼は立て札の前で、一人言をした。それから、無視して市場の方角に歩いていった。
朝の市場は、騒がしい。彼は田舎と言うものの、淮陰は県庁のある結構大きな城市である。中国大陸の中心部にある大平原を、東西に流れる大河がある。淮水と言う。この淮陰は、淮水の下流に位置する交通の要所であった。この城市から北に、淮水の重要な支流の泗水(しすい)が流れている。泗水に舟を浮かべれば、北の斉や魏までも通じることができる。四通八達の土地である。特産物の綿が人々を引き寄せて、夜明けから夕暮れまで開かれる城市の市場は、売り買いの商人が多く店を開いていた。とりわけ、始まったばかりの朝の市場は、殺気立つほどに活気がある。時は始皇帝と名乗るようになった秦王政が中国全土を統一してから八年ほど経った、初夏の頃であった。

市場に来たのはいいが、朝の騒々しさの上に、また騒ぎが加わっているようだ。
「あれは屠肉屋の衛とその仲間じゃないか。また何か騒動を起こしてるな?」
屠肉屋の衛とその仲間たちは、淮陰の近郊から市場にやって来て、豚を捌(さば)いて肉を売る商売をしている連中である。しじゅう血を見る家業をしているので、気が荒い。この市場でもしょっちゅうもめごとを起こす、悩みの種である。城市の者たちは、誰かが奴らを押え付けて欲しいと内心密かに思っているが、今のところ誰もやろうとしない。この城市の住民は、みんな根性なしである。だから、奴らは最近ますます図に乗っている。
韓信は、近寄って見た。衛が年若い小娘と、やり合っている。
「肉で払うなんていう取引は聞いたことありません。銭か、それがなければ布で払いなさい。」
「売り物なんだから、同じだろうが。この豚と狗(いぬ)の肉で、代金を払うって言ってるんだ。何が悪い!」
「そんな生もので、うちの商品をお渡しすることはできません。帰らせていただきます。」
「こら待て、小女児(こむすめ)!帰しゃしないぞ!この城市では、この城市の規則に従ってもらおうか。よそ者は、この屠肉屋の衛の規則に従うんだ!」
何がこの城市の規則だ、常識を考えろ、と言いたいところだが、衛の一味を怖がって誰も声を出さない。可愛そうに気丈な娘は、衛の一味に囲まれてしまった。それでも目をきっと上げて相手を見つめているのは大した娘だが、いかんせんまだ小さすぎる。体が小刻みに震えているのが、見て取れた。
(あの歳で市場で一人で行動するのは、無謀というものだ。どこかの商人の娘だろう。主人は何をしてるんだ、、、)
韓信は内心気をもんでいたが、まだ他の者と同じ傍観者の一人だった。一方いかつい男どもに囲まれても、娘は引こうとしない。だが、小さな体では気力に限界がある。次第に彼女の顔は、青ざめてきた。
たまりかねて、韓信は声を出した。
「おい、お前ら― いいかげんに小娘をからかうのはやめろよ。肉で代金が払えないなど、常識じゃないか。」
衛の一味と市場の者たちが、一斉に声の出た方角を向いた。そこには、この城市の者ならば皆が知っている男がいた。淮陰の青年たちの中でも一等背が高い、のらくら者の韓信だ。衛は、あからさまに軽蔑の色を見せた。
「よう!久しぶりに見たな、お前の顔!死んだかと思ったぞ。」
「残念ながら、生きている。それより、つまらん難癖はやめろ。」
「お前の出てくる幕じゃねえ!役人でもないくせに!市場の視察でもしているつもりか?」
「役人ではないが― 役人の下にはいた。しばらく南昌の亭長のところにいたんだ。今朝がら、南昌から帰り着いてきたところだ。」
「ふん!どうせ追い出されてきんだろう!」
韓信は、わざと悠然とした口調を作って、それに答えた。
「― ちょっと違うな。自分で、出てきたんだよ。仕えるに値せず、と見切ったゆえだ。―潔く去るのが、士の進退というものだ。」
周囲の者が、これを聞いて爆笑した。こののらくら者が、士の進退などと言い始めるとは。「言うじゃないか、この無為徒食の男が!」と周りの見物人が囃し立てた。市場の注目は、娘から瞬時にこののらくら者に移った。
韓信はとぼけた顔で、周囲の笑いを受け止めていた。その間に小娘の側に動いて、手で彼女をつついて逃げるように諭した。韓信は横目で彼女を見ながら、小さくにやりと微笑んだ。小娘は、急いで小さく礼をして、素早く人の輪の中から去っていった。
「おい、韓信―」
小娘を逃した後は、衛の一味と韓信との対峙となった。衛は言った。
「俺は、お前がもう少し大きな人間になると、思っていた。俺などは、しょせん屠肉屋だ。秦の役人などから見れば、下の下の存在よ。お前は昔から、大きな顔をしていた。俺たちも、お前はどこか俺たちと違う奴だと、内心思って見ていた。少しは期待していたんだ、お前のことを。」
「そりゃ、どうも。俺は、まだ時と所を得ていないのさ。」
韓信の返す言葉に、衛は怒った。
「最近のお前は、そればかりだ!そんなことを言いながら、何年になる!」
「まだ俺は二十代だ。だから、二十年も経っていないだろう。」
「俺たちがもう生業に就いているのに、お前は何もしようとしない。最近のお前は、あっちこっちを徒食して回っては、いつも喧嘩してこの城市に帰ってくる。それの繰り返しだ。何かする奴かと思っていたら、結局何もできない奴だった。もう今のお前は、屠肉屋の俺たち以下だ。お前のその腰の長剣―」
そう言って、衛は韓信の腰を見た。彼は青銅の長剣を、帯に挿していた。彼の長身と、釣り合いがよい。
「その腰の長剣が、泣いているぞ― お前にはふさわしくない。外せ。」
韓信は、自分の腰にぶらさげている長剣について言われて、言い返そうとした。
「この、長剣は―」
衛が言うとおり、韓信は官吏でも何でもない。
その無為徒食の彼がどうして長剣などを持っているかと言うと、これは父親の遺品であった。彼の父親は、もう滅んでしまった楚国の軍吏であった。かつては秦と天下を二分するほどの大国であった楚は、韓信が生まれた頃には秦に圧倒されて、日に日に衰弱していた。最後のあがきとして秦との間に小競り合いを繰り返しては、その都度敗れ去った。韓信の父は、それらの戦いの最中に死んでしまった。
韓信は父親の顔を見たことがない。そして彼の少年時代に、とうとう楚は秦に滅ぼされてしまった。だからこの長剣は、父親の形見であると同時に、滅亡した楚王国の遺品でもある。この官製の剣を、彼は他の家族とも死に分かれて一人になってから、ほとんど体の一部として身に付けていた。だからこれは、彼の家族の最後の形見のようなものだった。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章