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一 抜かずの長剣(2)

(カテゴリ:101兵法の章

韓信は、このように言った。
「この、長剣は― 捨てるわけにはいかない。だが、抜くこともしない。この剣は、士の象徴だ。だから、俺はこれを持ち続ける。」
こののらくら者が、自分をまたも士と言った。しかしさきほどよりは真剣な顔をしている。これは面白くなるぞ、と、周囲の見物人は屠肉屋仲間とのらくら者との対決に、目を見張った。

韓信は、そのときどういうわけか、林媼(ばあ)さんの言葉を思い出していた。
― おまえは、頭が良すぎるんだよ。だから、世の中全部がばかばかしく見える。
彼に時々飯を食べさせてくれる、淮陰の城下で綿晒(さら)しをしている林媼さんにある時言われた言葉であった。目の前で飯を食っていた韓信は、媼さんに答えた。
「そんなことは思ってないさ。」
媼さんは返した。
「いいや、そうだ。いいかげんに目を覚まさないと、人生はあっという間に終わってしまうよ、、、これは、お前のために言ってるんだよ。」
「目を覚まして、やるべきことがあればいいんだがな。」
「またそんなことを言う!人間っていうのはね、何かをしなければ、産まれて来た命の無駄遣いってもんだ。まあ、あんたは真面目に生きられそうにない性分だねえ。かと言って、悪さができる子でもない。それが中途半端で、よくないのかねえ、、、」
官吏、商人、それに農民。結局この秦の世では、この三つの職業しか許されない。だが韓信は、そのどれにも釈然としなかった。それで、二十を過ぎた今でも、いまだに無為徒食である。働き盛りの年にぶらぶらして、しかも大人たちに従順でもなく殊勝なところも見せない彼を見る郷里の目は、ますます厳しくなっている。
(天下統一か― つまらない世の中だ。)
韓信は、そんなことを心に浮かべた。

「韓信!」
屠肉屋の衛の呼び掛けで、彼は我に返った。衛は彼に言った。
「お前はそうやって、何一つ自分でやりもしないで、形だけ格好をつけていい気になっている。お前には、その剣を付ける資格などない。だがもしお前がその剣を付ける資格がある士だというのなら―」
「いうのなら?」
「― どうだ、その剣で、俺を斬りつけてみろ!命を張れる男であるところを、見せてみろ!」
衛は、秦の法を知って、韓信に挑発している。
もし斬り付けたりしたら、韓信は重罪だ。秦の法では、人を傷つける罪は重罪である。秦の法では、重罪には肉刑すなわち体を損なう刑が科せられる。五刑と呼ばれ、その内容は、罪の重さによって劓(ぎ。鼻そぎ)・黥(げい。顔面に入墨)・刖(げつ。足首切断)・宮(きゅう。生殖器切断)・死罪がある。肉刑を受けたなら、一生体は元に戻らない。もし秦の爵位か官位を持っていれば、その位の剥奪によって肉刑を免れる処分もありうる。だが韓信のような無位無官の者には、そんな逃げ道はないのだ。
「やめておけ、、、決闘は、法に触れる。秦法は、違法の者を決して許しはしない。お前も挑発した罪を問われることになるぞ。命を大切にしろ。」
「臆病風に吹かれたか!そんなに、秦の法が怖いのか!それでも楚の男か!」
「こんなつまらんことで、体を損ねるのが無意味だと言ってるんだ。」
「できないというわけか。できないのならば、、、お前が臆病者だということを、全員の前で認めさせてやる。」

昔、淮陰のそばを流れる淮水で、大洪水があった。
もはやその頃、楚は秦に連年猛攻を受けて追い詰められ、政府は狼狽して河川の治水工事すら放棄していた。
そこに、夏の大雨が降った。あまり能率的とはいえない楚の政府が作ったぞんざいな堤防は、あっという間に決壊した。淮陰の上流の湿地帯から、水があふれ出した。淮陰の近辺の小邑はたちまち濁流に飲み込まれ、淮陰の城壁もついに保(も)たなかった。水は、容赦なく城内に流れ込んだ。
その時少年であった韓信は、夢中であふれ返る水の中を泳いで、多くの人々を助けたという。だが本人は無我夢中だったので、ほとんど当時のことを順序だって覚えていない。とにかくそれがあって以来、郷里の人々は韓信少年に一目を置くようになった。郷里の少年たちは、韓信を畏敬のまなざしで見るようになった。彼の人並み優れた身長が、畏敬の念をさらに大きくした。十年以上も前のことである。十年以上の年月が流れて、大人になった韓信は今やこの有様であった。それが、郷里の男たちを内心深く失望させていたのであった。
沈黙の対峙がしばらく続いた。それから衛は、再び韓信を挑発した。
「韓信。さあ、俺に斬りつけてみろ。それができないならば―」
「できないならば?」
「できないならば、土下座して、はいつくばってこの俺の股の下をくぐれ。」
「なに?」
「命を賭けてみろ!淮水の洪水の中に飛び込んだ昔のお前は、命を賭けたはずだ。法が何だ。秦が何だ。お前はそんなものに臆するのか!」
「やめるんだ― 次元の違う話だ!」
「今のお前に士として何ができる。お前はもう法に挑戦することでもしなければ、もはや何一つ見るべきところがない男にまで成り下がっている。それが分からないのか。無為徒食で何の役にも立たない命を、賭けることすらできないか!この臆病者が!」
衛の目は、もはやどこか悲しげであった。
「やってみろ!俺の命を、奪ってみろ、、、!」
挑発された韓信は、そのまま彼としばらくの間、にらみ合った。
そして、わずかにうつむいて―
膝を屈した。
物見高いやじ馬が、騒動の始まりからぐんぐん集まってきて、大きな人だかりとなっていた。その注目の中、韓信は屠肉屋の衛の股をくぐり抜けた。
周りの一部から、失笑が漏れた。
誰かが、「いい気味だ!格好付けが!」と言った。
しかし大部分の人間は、「まあ、しようがないな、、、それで正解だ」という意見を心にもっていた。もちろん、股をくぐった韓信のことを、高く評価しているわけではない。単に、ひょっとしたら役人が出動するかもしれない大事件になったかもしれないこの一幕が、ただのありふれた結末に終わったことで、半ばほっとして半ば肩透かしを食らった印象を持っただけであった。
股をくぐりぬけた韓信の尻を、屠肉屋仲間の一人がしたたか蹴りつけた。そのため、韓信は前のめりになって、その長身の姿があまりに不恰好であった。そのとき、笑いが爆発した。
これが、後世「韓信の股くぐり」として伝えられる伝説の中身であった。ありふれた、地方の城市の午前中の一日であった。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章