«« ”一 抜かずの長剣(2)” | メインページ | ”二 法・法・法(2) ”»»


二 法・法・法(1)

(カテゴリ:101兵法の章

このころ、広大な中国大陸が、またたく間に統一された。

周の幽王が都を西北の剽悍な部族である西夷(せいい)・犬戎(けんじゅう)の侵攻によって奪われて殺されてから、いわゆる春秋時代が始まった。長い長い乱世の、始まりであった。
四大文明の中で遅く始まった中国文明は、春秋時代にようやく素朴な状態を脱した。各地の都市国家が、自律性をもち始めた。自律性の芽生えは、必然的に争いを引き起こした。大小の都市国家の長である諸侯が、おびただしい数の紛争を繰り返した。文明が、加熱し始めたのであった。
加熱した文明は、二つの方向で大渦を引き起こした。
一つの渦は、文明の面積の拡大であった。それまで中国文明の範囲外であった人々が、文明に参加し始めた。
南の長江流域には、米を栽培する人々がいた。彼らが、楚・呉・越の三国の住民のもととなった。いずれも、文明を知るやいなや強国となった。
西には、秦という国が勃興した。秦は、おそらく周の都を陥落させた西夷・犬戎の同類から分かれた集団であろう。しかし秦は、周の同盟国であった。周の故都があった関中盆地の支配を許され、ここに後の発展のいしずえとなる拠点を置いたのであった。
もう一つの渦は、人間の心の中に起った。
因習や伝統を無批判に守る意識から脱却して、人々は「人間とは何か?社会とは何か?」を問いかけ始めた。思想の誕生であった。
春秋時代後期の孔子が、思想の先鞭であった。孔子は、鄭国で国政改革を行い成文法による統治の試みを始めた子産を、学問の兄として敬慕していた。しかし子産とは、思想の道を違えた。彼は、よき社会の秩序の根源を、人間の持つ徳の力に見出した。よき為政者とは、どうあるべきか。もはや、生まれや身分による権威を通じて統治するべきではない。むしろ自らの徳を自覚して伸ばし、他人を感化すること。そして伝統的な儀礼の形を学んで、文化の卓越者となること。これが、為政者の統治の道であると考えた。孔子は、素朴から脱した人々が方向を見失って支離滅裂に振舞う傾向にあることを、よく理解していた。だから、統治する階級の者は学んでよき人となるよう努力して生きよ、と人々に教えたのであった。
いわゆる春秋時代は、三百数十年間続いた。その間に争いは、ますます激しくなっていった。
孔子が後半生を生きた紀元前五世紀には、南方から後発の呉と越が入れ替わりに勃興した、両国は、中原諸侯を一時的に切り従えるほどの勢いを得た。
大国の国内においては、いよいよ下克上が始まった。
孔子の生きている時代に、斉は家臣の田常がクーデターを成功させて、事実上の君主となった。また晋は趙氏・魏氏・韓氏など有力家臣の専横がますますひどくなり、国内はもはや彼らの支配地の分け取り合戦の場となっていた。斉も晋も、名門の大国であった。かつて「斉桓・晋文」と後世にうたわれた斉桓公・晋文公の二人の覇者を輩出した、中原の重鎮であった。だがもはやそれらの国が、下の者によって食い破られ始めたのであった。ここに、いわゆる戦国時代が始まる。
戦国時代になると、弱小の諸侯はあらかた整理されてしまっていた。
残った各国が、めいめいに王を名乗った。王を名乗ったのは、自らが天下を支配する覇者であることを、宣言するためであった。為政者の野望は、一段と大きくなった。
戦争の規模は、ますます大きくなった。士大夫と呼ばれた諸国の支配階級がもっぱら戦争に従軍していた春秋時代とは異なり、版図内の平民から徴募した兵卒が軍隊の核となった。
社会は流動化し、貴賎が激しく入れ替わった。有名な蘇秦・張儀は、もとは貧民の出自であった。それにも関わらず、己の才覚一つで国の宰相にまで登りつめた。このようなことが起る時代となったのである。ある意味、夢のある時代であった。しかし、他人を蹴落とすために露骨な暴力が横行する時代でもあった。そして、下に組み敷かれる人民には、野望に燃える君主からの苛斂誅求が待っていた。
社会の構造は、次第に突出した君主の権力と、その他大勢の臣民たちとの間の二極に単純化される傾向が生じ始めた。これが、後に述べる法家思想による一元的な君主の法による支配に、現実性を与えることとなる。
戦国時代を戦いつづけた、有力な七国は以下のとおり。
魏。旧晋国を分割して成立。狭い定義での「中原」、すなわち現在の河南省近辺を押えていた。領内に当時の世界でおそらく最大規模の大都市群を抱え、商工業が極めて盛んであった。戦国時代初期には最強であったが、東の斉と西の秦に挟み撃ちされて、以降振わなくなる。
趙。同じく旧晋国を分割して成立。都の邯鄲は、背後に山西地方の山岳を控え、前面に黄河を擁した防衛の適地。武霊王の時代に遊牧民族の戦法を学んで、胡服騎射(こふくきしゃ)を採用した。戦国時代後期には、単独で秦と対抗できる戦力を持つ唯一の国であった。
韓。これも同じく旧晋国を分割して成立。領土は山がちで狭かったが、例の子産の鄭を征服して、おそらく法刑の知識を吸収した。申不害(しんふがい)が宰相の時期に、強盛を誇った。申不害は、法家思想の一つの核である「術」を実施して有力家臣を国家のために押さえつけた業績を残し、法家思想の先駆者の一人とされる。
斉。もとは周の文王・武王の二代を補佐した太公望が封建された国であった。しかし先述のように、家臣の田氏に乗っ取られる。斉と隣国の魯は儒家の根拠地であり、斉王は都に「稷下の学士」と呼ばれる有力な学者たちを集めて、文化事業に精を出した。
燕。周王国の創建時代から連綿と続く、七国で最も伝統ある国。昭王の時代に名将楽毅(がくき)を登用して、宿敵の斉に大勝した。
楚。春秋時代には南蛮・荊蛮(けいばん)などと呼ばれて、中国文明の国とは見なされていなかった。だが兵は勇猛で強く、国土は広大で物産盛んであって、春秋時代末期には蔡・陳などの中原南端の諸国を滅ぼし、戦国時代に至っても変わらず南の大国であった。
秦。もとは文化の遅れた国であった。しかし外国人の商鞅(しょうおう)が宰相となって変法を行なってから、にわかに強くなった。商鞅の変法とは、「什伍の法」と呼ばれる犯罪に対する連帯責任の導入、爵位の明確化、その爵位の昇降を功績に応じて行なうこと、そして貴賎を問わない公平な法の適用、などなどであった。国力を急伸させた秦は隣国の魏に大勝し、以降秦の連戦連勝の時代が続くようになる。商鞅は彼を支持した君主の孝公の死後に憎まれて殺されたが、彼の残した制度は結局後世まで受け継がれることとなった。
このように、法を一新させた秦が、時代が進むごとに強大化していった。
隣り合う魏・韓・楚は、秦に次々に領土を奪われていった。しかし、秦王政(せい)が自ら政治を行なう時代までは、六国はまだ全て存在していた。
いわゆる戦国時代は、二百年も続いた。社会は経済を大きく発達させ、人間の思想も爆発的に多様化した。
孔子の儒家から分かれて、不戦兼愛を唱える墨家(ぼっか)が起った。
南の楚からは、老子に始まる道家(どうか)が衝撃的な哲学として現れた。
戦争の研究は、兵法を専門とする兵家を輩出した。中でも孫子の兵法は、戦争という現象から普遍的要素を抽出してその得失を国家の政治経済のわく組みにまで広げて分析する、古代中国が達成した科学的思考法の粋であった。
孔子に始まる儒家もまた、多様化した。孟子は、性善説を唱えて王道政治を打ち上げた。彼は、主観的理想主義者であった。彼より少し遅れた荀子は、性悪説を唱えて礼と法による政治を唱えた。彼は、客観的現実主義者であった。
これら諸子百家と呼ばれた各種の思想家が、二百年間思想の実験を続けたのであった。どこまでいくのかわからないほどの、発展と混乱であった。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://suzumoto.s217.xrea.com/mt/mt-tb.cgi/916

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

          

各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章