«« ”二 法・法・法(1)” | メインページ | ”二 法・法・法(3) ”»»


二 法・法・法(2)

(カテゴリ:101兵法の章

その分裂に、秦王政は突然とどめを指した。

即位から十年後、それまで政治の実権を握っていた相国(しょうこく)の呂不韋を引退させて政治の実権を握るや否や、彼は猛烈な勢いで中国大陸の地図を一新する作業に打ち込み始めた。秦の満ち足りた軍事力を用いて、他国を征服にかかったのである。
まず、説客の尉僚(うつりょう)の計を用いて各国の重臣を大金で買収し、秦に対する合従(がっしょう)が成立することを阻止する謀略を行なった。
続いて、王翦(おうせん)・桓齮(かんき)・楊端和(ようたんわ)らの練達の将軍を動員して、連年魏・趙・韓に猛攻を加えた。これらの国は、もはや一方的に前線を後退させるだけとなった。
王の十七年に、韓が滅んだ。韓の旧領は潁川郡(えいせんぐん)と改組され、秦の行政区画となった。
十九年に、趙王が捕えられ、都の邯鄲が陥落した。
二十年、燕の太子旦が刺客の荊軻(けいか)を秦王のもとに送って暗殺を試みたが、失敗に終わった。翌年、燕は首都を失った。
二十二年、魏の都大梁が陥落し、魏は滅んだ。
二十三年から二十五年にかけて、王翦を将軍に用いて楚を攻め、ついに平定した。最後まで王を立てて抵抗した楚の将軍項燕は、王と共に滅んだ。
二十五年には、燕と趙の残存政権もまた、滅ぼされた。
そして二十六年、最後に残った斉もまた、もはや決定済みの運命として滅んだ。
親政開始からここまで、十六年。何のことはない、秦の国力はすでに六国を全て併合することができるまでに、拡大していたのである。後は君主の意志の問題であった。そしてその意志を強烈に持った君主が、歴史の配剤として秦王政となって現れた。

商鞅の変法以来、秦は諸国の中で最も厳しい法刑による支配が貫徹した国であった。
以下は、あくまでも商鞅以降の秦の統治思想を支配した法家思想が理想とする姿である。
法家思想の理想とする国家においては、法刑の前では、君主以外の人間は皆平等でなくてはならない。平等といっても近代の平等ではなく、君主ひとりが権力の全てを独占して、残りの臣民全てを法が定める賞罰に従って平等に使役する、いわば奴隷の平等である。従って戦場で功績を挙げた者は、功の大小に応じて爵が与えられる。逆に王族の一員であっても軍功がなければ、族籍から除かれる。地位の高い卿や大夫であっても、法に触れれば必ず詮議の上で処罰される。商鞅が導入した「什伍の法」においては、人民は十戸または五戸単位で相互に犯罪を摘発するように強制され、犯罪をかくまった者は罰せられ、逆に犯罪を告発した者は賞せられたという。
(この商鞅の法について、『史記』商君列伝においては「姦を告せざる者は腰斬(ようざん。胴体を切り裂く処刑)、姦を告する者は、敵の首を斬すると賞を同じくし、姦を匿(かく)す者は敵に降ると罰を同じくす」といったふうに犯罪の隠匿者に対して極端な厳罰が記載されている。だが、実際の運用でここまで苛酷な刑罰を与えたのかどうかは、近年発見された睡虎地秦簡(すいこちしんかん)などの当時の現場官吏が実際に用いた行政文書の内容から見て、疑ってかかる必要がある。しかし連座の処罰と告発の奨励は、秦法の疑いもない特徴であった。)
このような法刑の制度の下に統制された秦の兵は、同時代の観察者によって、このように形容された。

― 戦いを聞かば、足を頓(おど)らせ徒裼(とせき。上半身裸になる)して、白刃を犯し、鑪炭(ろたん。燃え盛る炎)を踏みて、前に断死する。 (『韓非子』)

また秦の役人については、

― 百吏は粛然として恭倹敦敬忠信にして、不楛(ふこ。堅実なこと)ならざることなし。 ― 士大夫を観るに、その門より出れば公門に入り、公門より出ればその家に帰りて私事あることなく、比周(ひしゅう。なれあい)せず朋党(ほうとう。徒党を組むこと)せず。 (以上、『荀子』)

このような規律の行き渡った国が、時を重ねるごとに強大となるのは必然のなりゆきであった。
統一を成し遂げた秦王政は、「皇帝」という造語をもって、自らの称号とした。「皇」とは、いにしえの天皇・地皇・泰皇のこと。「帝」とは、むかし中国を聖徳をもって治めた、五帝のこと。中国最初の君主であるという黄帝から代々に位を受け継ぎ、著名な堯(ぎょう)と舜(しゅん)の二人の聖王までを言う。「皇帝」とは、これらのいにしえの権威を借りて、さらに上に出た称号であった。彼は、最初の皇帝であるとして、自ら「始皇帝」と名乗った。後世の諡(おくりな)では、ない。自分で名乗ったのである。死後に後世の者が称号を与えるなどは、子が親について論じ、家臣が君主について論じるようなもで、不遜ではないか。よって、自ら始皇帝と名乗った。以降の皇帝は、二世皇帝、三世皇帝、、、と名乗るがよい。皇帝の自称である「朕」もまた、始皇帝がその使い始めであった。
始皇帝は、中国大陸の世界全てを秦の制度で一元化することにした。
その遂行には、法家の統治論の立場に立つ李斯(りし)が大きな働きをした。李斯はもと呂不韋の舎人(しゃじん。食客)から始めてやがて秦王に信任され、秦の統一が成った後には行政の最高責任者である丞相の位に昇った。秦王政と李斯は、長い中国の歴史上で見てもまちがいなく最も多くの実績を一代で成し遂げた君主と家臣であった。
まず、六国ばらばらであった書体を統一した。秦の正式な書体である大篆(だいてん)を様式化した小篆(しょうてん)を全国統一の正式書体とした。
次に、度量衡を一元化し、車の轍(わだち)の幅を一定にする政策を打ち出した。
天下の武器を没収して、首都の咸陽(かんよう)に集めて鋳潰した。もっともこれはおそらく各国の備蓄している武器が対象で、民間の持っている武器までは根絶し切れなかったに違いない。現に、無位無官の韓信が、長剣などをぶらさげていた。
そして最も重要な改革は、全国全ての地域を均一な上意下達の官僚組織に組み込んだことであった。
すなわち各地方をだいたい一〇〇里(四〇キロメートル)を目安とした範囲の「県」に区分けして、県庁を置いた。県庁には文官の長である県令と、武官の長である県尉が任命された。これらの役職は命官(めいかん)と呼ばれ、中央政府が任命して派遣した。「県」の上には上位組織として「郡」が置かれ、やはり文官の長の郡守と武官の長の郡尉が中央政府から任命された。こうして組織された地方行政の上に、李斯が就任した丞相を頂点とした中央政府があった。そしてその上に、神聖不可侵の存在としての皇帝が君臨するのである。皇帝の出す命令は、「詔」(しょう)という語が新たに造られた。官民を規制する法の体系である律令(りつりょう)と、皇帝が適宜発する詔は、皇帝秘書局の御史(ぎょし)を通じて、公式な命令文となって丞相に渡される。丞相はその律令と詔を地方官に下達して、受け取った郡県の官吏はことごとく法の定める規定に従い命令を遂行しなければならない。皇帝は、中国大陸を一つの行政機械に改造した。それを制御するものが、絶対の掟である法なのだ。
全国の統一後、政治制度をどのようにするべきかについては、少しく議論があった。
当時丞相であった王綰(おうわん)が、始皇帝に進言した。
「燕・斉・荊(けい。楚の別称)は僻遠の地にあります。これらの地域は、王を置かなければ鎮定できないでしょう。諸公子を王に立てて、派遣するよう願います。」
王綰の進言は、常識的なものであった。欧州大陸ほどの大きさのある中国大陸を、古代の通信設備もほとんど十分でない社会が、一元的な官僚組織で遠隔操作できるとはとても思えない。案件は百官の前で詮議されることとなったが、大方は丞相の意見に賛成であった。
しかし、この時まだ廷尉(ていい)という職にあった李斯は、一人反対した。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://suzumoto.s217.xrea.com/mt/mt-tb.cgi/917

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

          

各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章