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二 法・法・法(3)

(カテゴリ:101兵法の章

李斯は言った。

「周の文王・武王は同姓の子弟を多数封建しましたが、その後それら全てが宗室と疎遠になりました。そうして互いを仇敵となして相争い、諸侯は互いに討伐し合う有様となったのです。これを周の天子はとうとう禁絶することができないようになりました。ところで今や陛下はその御威光によって天下を一統し、全てを秦国の郡県となさいました。もはや諸子や功臣は公の費用で養い、賞を厚く賜えばよいのです。その方が最も下の者を制しやすく、天下に異心ある者を無からしめる道なのです。これこそが、安寧の術です。諸侯を置くのは、よろしくありません。」
この進言が、自らの手で天下を制した皇帝の耳に力強く響いた。
皇帝は、李斯の議論を是として郡県の制を断行した。
帝国は、広大であった。その広大な国家を治めるための根本的な原理は、法刑の支配に求められた。そして法刑の支配を理論づける思想が、法家思想であった。
法家思想には、三つの基本原理がある。そして、その三つの原理それぞれに。三人の先駆者がいた。
「法」の先駆者である、商鞅。彼は、秦の孝公の下で政治改革を行なった者でもある。
「術」の先駆者である、申不害。韓を強国とした、宰相である。
「勢」(せい)の先駆者である、慎到(しんとう)。道家の思想家である。その立場のとおり、君主の積極的な意欲による統治に、何の効用も認めなかった。
これら「法」・「術」・「勢」の三つの基本原理を君主が活用することが、最も効果的な統治の道である。法家思想は、そのように主張した。
大筋の理解は、このようなものだ。
まず― 君主という存在は、「勢」を持っている。「勢」とは兵法においても兵の統御術として極めて重要な概念とされるものであるが、法家の統治の理論としては、現代の言葉で言えば「国家権力」である。領土の富を自在に収奪し、臣民に褒賞を与えて働かせ、また臣民に刑罰をちらつかせて反抗を抑止する。そういった、国家の力そのものである。君主のなすべきことは、この「勢」をいかに有効に活用できるかどうか、それだけでしかないと、法家思想は喝破する。儒家が王道政治論として主張するように君主が人徳を積んで臣民を慈しむことなど、必要はない。また墨家が兼愛論として主張するように君主が率先して世のため人のために知力を尽して働くこともまた、必要ない。
さきほどの慎到は、面白いたとえを言う。

― 堯(ぎょう)も匹夫となれば、三人を治むること能(あた)わず、桀(けつ)も天子となれば、よく天下を乱(おさ)む。吾、これをもって勢位の恃(たの)むに足りて賢智の慕うに足らざるを知るなり。(『韓非子』難勢篇に引用された言葉)

堯は、五帝の一人として後世名君の代表とされる。しかし、その堯ですら、もし彼が天子でなくてただの庶民であったならば、果たして三人を統治することすらできたであろうか?桀は、夏王朝最後の君主である。殷の紂王(ちゅおう)と並んで、暴虐の君主の代表とされる。その桀が、どうしてその統治の期間、快楽の限りを尽すことが続けられたのか?結局、臣民を動かすのは、君主の人徳ではないのである。君主の地位が持つ、「勢」じたいがなさしめることなのだ。慎到は、そのように捉えた。
この「勢」を、最も効果的に活用しなければならない。その武器として使うのが、「法」と「術」である。いずれも、君主が最小の努力で最大の権力を用いることができるための、武器であった。いずれ詳しく述べるが、「法」はあらかじめ定めた賞罰の掟である。「術」は、君主の「勢」を脅かすまでに増長した家臣に振り下ろす、断固たる鉄槌である。権力を余計な善意などでごまかすことなく、冷酷かつ合理的に使え。それが、法家思想の主張するところであった。
かつて始皇帝は、韓非の著した孤憤(こふん)・五蠧(ごと))の篇を読んで、「ああ、寡人(それがし)は、この人と交遊できるならば、死すとも恨まない!」と言ったという。法家思想を大成した韓非の著作は、その著作の篇名にある通り、孤独な憤りに満ち満ちていた。韓非の著作に感動した始皇帝は、法家思想が支配する秦国に正しく生を享けた、韓非と同じく孤独で超然とした魂の持ち主であった。
韓非と始皇帝、そして韓非と同学の徒であった李斯との関わり合いについては、また後に書くことになるだろう。結果だけを言えば、韓非は秦によって獄につながれて自殺し、李斯は秦帝国の丞相に成り上がった。彼は、始皇帝と共に、法家思想に基づいた統治を天下に行なうこととなった。
全中国大陸に、秦の法が拡大適用された。そうして、猛然とした勢いで、事業が始められた。
統一の翌年、すなわち二十七年に、天子が巡行する道である馳道(ちどう)を人民を動員して完成し、働いた人夫に爵一等を賜った。これは、よい法の適用であった。
三十三年、かつて逃亡罪を犯した者、贄婿(入り婿)、そして賈人(商人)を徴発し、南方の現在の広東・広西両省に当たる地を守らせて、桂林・象郡・南海の三郡を置いた。国の領土の拡大は、君主の義務であってかつ楽しみである。その目的のために、社会に必要でない分子を徴発して送り込んだだけだ。そういう意図が働いた政策であろう。(入り婿は、中国社会で最も大事とされる父から実の息子に受け継がれる宗族の継承を妨げない。)しかし、未開でマラリアなどの瘴疫がはびこる土地にいきなり送り込まれた者たちの大多数の運命がどうなったかは、簡単に推測できる。
三十四年、治獄の吏で法を枉げた者を流罪とし、北の長城と南の南越地方で築城工事に当たらせた。この『史記』秦始皇本紀の簡潔な記述の間からは、秦の法により大量の触法者が各地に発生して、基本的に地元採用であった治獄の吏たちの多くが、法に厳密に従った処罰を下すまで踏み切れなかった事情が垣間見える。
三十五年、咸陽の諸宮殿が手狭になったので、渭水(いすい)の南にかつてない規模の阿房宮(あほうきゅう)を着工した。東西の長さ五百歩、南北の長さ五十丈、殿上には一万人を座らせることができる予定であった。この阿房宮と、すでに着工が始まっていた驪山(りざん)の自らの陵墓の造営のために、この時期に宮刑・徒刑に処せられて働かされていた者の数は、七十万人に上った。
始皇帝と李斯は、何も人民を無原則に徴発したわけではなかった。後の時代の野蛮で頭の悪い皇帝や軍閥どもとは違って、あくまでも法に従って、規則的に触法者や好ましからざる分子を捕えて転用しただけだ。
だが、あまりにもその数が多すぎた。そして唐突であった。始皇帝は、毎年のように外征や建築事業を打ち出して、皇帝としての仕事に突っ走っていた。彼の政策を実現するためには、膨大な人力が要る。その人力の元として、法に触れた刑徒の集団がいつのまにか必要不可欠となってしまっていた。政策を実現するために刑徒の数が必要で、それだけの刑徒を生み出すためには苛酷な法が前提となる。こうして、帝国の制度は意図せざる循環を作り出していた。
その上、思わぬ効果が生まれた。秦の法に触れることによって、未曾有の流動的な人口が発生した。法に触れる者の大多数は、下層の階級の者であった。戦国時代までは一部の上層の者に限られていた狭い郷里を越えた人の交流が、秦の政策によって強制的に大規模に作られつつあった。あるいは法によって駆り出され、またあるいは法の処罰を避けるために逃げ隠れているうちに、人民はやがて郷里の外にも天下というものがあることを、肌で知り始めた。
天下の人民の心に、今急速な変化が起りつつあった。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章