時代背景の説明はひとまずこれぐらいにして、淮陰の城市の現場に戻ることにしよう。
股くぐりの騒動は終わった。一刻(いっこく)も経たないうちに、市場は何事もなかったのように午前の商いに戻っていた。いつまでも済んだ見世物の場にかかずらわっているほど、この城市を往来する人間は暇ではない。
暇なのは、商売もしない韓信だけであった。
屠肉屋仲間の一行は、笑いながら去っていった。股をくぐらせた衛だけは、笑っていなかったが。歩き去るとき後ろを向きながら、聞こえる声で肩をゆすらせて「ふん!」と鼻を立てた。そうして、姿を消した。
「結局は―」
韓信は、まだ現場の脇にいて、所在無く突っ立っていた。目立つ体を杭のように立てながら、今は一人ごちていた。
「― 何もやることがないからだ。今日を生きる道がないから、こんな騒動に巻き込まれる。何が悪いんだろう?どこにも自分を打ち込むべき場所も、身を捧げる人にも巡り合わないでいることが悪いんだろうか?、、、打ち込めないんだ、しようがないじゃないか ―」
そのとき後ろから、やにわに声が合わさった。
「一歩を踏み出せばいいのですよ。仮にでも、とにかく足を前に出せば―」
ぎょっとして、振り返った。
そこには、一人の男性がいた。
その横には、さっき屠肉屋の衛とやり合っていた小娘がいた。
「これは失礼。私は下邳(かひ)の城市で商いを行なっている、韓簫子と申すものです。」
韓簫子。先ほど城市で見た、立て札の主の男だ。
「韓簫子、、、?この淮陰で一番の知者を求めているとかいう?」
「そうです。ここに滞在中に知者を募ってみたが、これはという人物に見当たらなかった。もう今日で帰るつもりでいましたが、先ほどこの陳麗花を窮地から助けてくださったとか。この娘に聞くと、見どころがありそうだと申すではありませんか。失礼ですが、お名前は?」
「姓は韓、名は信です。この淮陰の産、韓信です。」
「韓信、ですか―」
そう言って、彼は少し考える風であった。横の麗花という名前の娘は、くすくすと笑っている。十代半ばといったところであろうか。主人によくなついている、小さな体のとても可愛らしい子だ。この娘の主人が、知者を探しているとかいうこの韓簫子であったのか。しかし、韓信は彼に言った。
「あの、申しておきますが、私は商人になるつもりはありませんので― それを私に期待しているのならば、残念です。」
しかし、男は別のことを言った。
「私が知者を求めているのは、別に商売の手助けをしてもらおうと言うわけでは、ありません。」
「では、何のためですか?」
「純然と、知者と交遊を結びたいのです。それだけです。」
何だか酔狂な人だ、と韓信は思って、男の姿を改めて見た。
背は自分よりも低い。つまり、平均的だ。にこやかに笑っているその表情と物腰からは、決して駆け出しではない風格が感じられた。しかし、その年齢については掴みづらかった。容貌が、まるで女性のようにたおやかであったからだ。
韓簫子という男は、韓信に言った。
「先ほどは、この麗花が起こした騒動を受け継いでくださって、何とか無傷で切り抜けることができたようですね。ほっとしました。」
彼は、韓信が股くぐりをした時には、麗花に言われてそのとき滞在していた商家の望楼から、一部始終を眺めていたのであった。
韓信は、ばつが悪そうに返した。
「見ていたのですか?」
韓簫子は答えた。
「ええ。もし、騒ぎがもっと大きくなりそうだったならば、仲裁に入るつもりでした。しかし、よくぞ挑発に乗らずに耐えられた。あれでよいのです。市場のもめごと程度のつまらぬことで、法に触れることはない。」
それから、韓信の方を見ながら、言った。
「私が交遊を結びたいと思っている人物は、いわゆる匹夫の勇を持つ者ではない。知によって裏打ちされた大きな勇と、それから志を持った人物です。あなたは― 私が見るところ、この淮陰では一番光っている若者のようだ。」
「そう、、、ですかね?しかし今の私は無為徒食です。何ほどのこともやっていない。あなたの見込み違いですよ。」
「でも私を助けてくれたのは、大したことでしたよ!他の人はみんな見物していただけじゃないですか!」
横の麗花が、口を挟んだ。
韓信は、少し照れて言った。
「それは、、、君があんまり小さな体で哀れだったからだよ。」
麗花は、またくすくすと笑った。そこで韓簫子は、言った。
「どうですか、私の商船は夕刻まで荷積みのためにここに停留しておりまして、これからしばしの時間を持て余しているのです。私と共に、大河に小舟を浮かべながら、しばしの一献を楽しみませんか、、、?麗花を助けてくださったお礼です。彼女に酌など、やらせましょう。」
このような提案であった。どうせ今日はこれからも暇な韓信であった。渡りに舟だ、と言いたいところであったが、どうして彼が立て札まで立てて知者を求めていたのか、それが今一つ合点がいかなくて、もう一度尋ねた。
「どうして、知者を求めているのですか?本当の目的は何ですか?」
韓簫子は、再び柔らかに答えた。
「私の本業に、必要だからなのです。」
それ以上のことは、このときは言わなかった。代わりに、自分の名について言った。
「韓簫子というのは、私の通り名の一つです。韓の出身ですので、このように名乗っています。つれづれに簫(しょう)の笛を吹くのが、私の趣味でしてね。それで、韓簫子。あなたも韓姓ですが、私の方は単なる通り名です― ああ、爽やかな風が吹いてきた!酒と舟を用意しましょう。淮水の上にしばし繰り出すのは、なかなか爽快だとは思いませんか?」
こうして、韓信は韓簫子に一日を誘われたのであった。



