「江海が百谷の王となって大水を湛えるのは、水が低きに流れるからです。」
韓簫子は、言葉を続けた。
「この広大な中華の大陸を、いくつもの大河が貫流しています。水がなければ人間の生活が成り立たず、かといって水をよく治めなければ人間に殆(わざわい)します。秦が統一するまでの時代、諸侯はあるいは川の上流を押さえあるいは下流に陣取り、自領の堤防を高くして他国の堤防を壊し、あまつさえ水の流れを不自然に変えてでも他国を水攻めにしようとしました。まことに、この大陸が分割されて割拠されていたがために、水流全体を考えた計画的な治水も行なわれなかったこと久しかったのです。そう考えるならば、長い戦国が終わって統一されたのは、禹が治水を行なった時代以来の自然な状態に帰ったとも言えないでしょうか?」
「あなたは、秦王を称えるのか?」
韓信は、彼に聞いた。
彼は、この辺の庶民同様に、首都咸陽の男を昔どおり秦王と呼んでいた。
統一以降、支配者の公式の名称は「皇帝」であると布告されてはいる。だが、普通の人民たちにとってはいまだに秦王であった。皇帝などと言っているのは、中央政府から派遣されてきた郡県の官僚たちと、それらが君臨する郡役所・県庁の中だけだ。もっとも地元採用の下級の属吏たちも、役所を出て仲間うちの間で話をするときには、たいていやはり秦王に戻っていた。
韓信に問われて、韓簫子は答えた。
「天下の大きな流れが間違っていない、と言ったまでのことです。」
「では、秦王じたいの統一の仕方については?」
「― あれが今やっているのは、ひとつの実験でしょう。統一した天下の型を作るための、実験です。ひょっとしたら今は過度期で、数世代数十世代の後には、今新奇な事業も定着するようになるかもしれません。」
「でもそれでは、今の時代を生きている人間は踏み台じゃないですか。今の時代に生きている我らにとって大事なのは、今の時代でしょうが!」
「じゃあ、あなたはどうして何もせずにいる?」
「、、、」
「人間の一生の長さなどは、戸の隙間を馬車が通り過ぎる程度にしかすぎません。眺めている間もなく去ってしまいます。今この時代に生きている以上は、悪い時代であっても何事かを自分で始めたほうがせっかくの命の損にならないと、思いませんか?見たところあなたは、文章を読めるようだ。読み書きができるならば、官吏への道もあるでしょうに?」
「官吏?」
韓信は、官吏と聞いて、少し目を斜めにそらした。
そしてしばらく間を置いてから、言った。
「それは、ごめんです。私は子供時代、淮陰の中でもちょっと有名な老師の下で学んでいました。私は家の中ではみ出し者でしたが、見込みがありそうだというので放りこまれたんです。で、そこにいた同学たちは、楚が滅んじまった後にも淮陰に留まっていましたが、ときどき酒場で集まったりしていました。そうして飲んで酔いが回ったら、周りに聞こえないように声を低めては、秘密にささやき合ったものですよ― ちょっと危ない言葉なんで、ここでは言えませんがね。」
危ない言葉とは、巷のたわいもない戯れ歌であった。しかし、明らかに不敬の歌であった。だから、彼は用心して言わなかった。かなり酒が回っていたが、それだけは分別があった。
「― とにかく、秦のために働かないようにしよう、っていう言葉でした。ところが最近になって、そいつらは手の平を返したように秦の役人だ。結局は出世栄達なんですよ、出世栄達!家に帰れば親や兄たちから言われるんです、『お前は一家の宝だ、お前には期待している、お前に比べればいとこや叔父上たちなんかはものの数ではない。だからとにかく出世を目指せ、一族の誉れとなってくれ、それが孝行の道だぞ、みんなが期待してるからな!』とかなんとか。こうやって孝行の道にほだされて、『仕方なく』官吏になるんですよ。もう県の主吏にまでなっている奴もいます、、、ああ、すいません、ちょっと酔ってしまったようだ、、、」
つまらないことをしゃべってしまって、韓信は居心地が悪かった。
横の麗花が、気遣って彼を扇いでくれた。
前で聞いていた韓簫子は、彼の憤激をやわらかく批評した。
「― 人間には、名誉心というものがあります。これは人間の本性で、人間を動かす大きな力です。朝廷の官位というのは、出世栄達を望む人間の心を釣って王朝に役立たせるために、あるわけですから。」
さらに、続けた。
「しかしあなたは、官界の大人(たいじん)や郷里の父老たちに、頭を下げられない気性のようだ― 上の者に気に入られなければ、属吏に推薦もしてくれませんからね。その矜持心は別の次元の名誉心の表れだから、あなたはむしろ大事にしてそれと付き合っていくべきでしょう。けれども、いたずらに頭を下げて生きろとは言いませんが、己の中に天下にも通用するような実がなくては、自らを立たせることすらできませんよ?」
韓簫子が説教した。
説教といっても、好意があった。
だがその後に彼が続けた言葉は、少々韓信をどきりとさせるものであった。
「この秦の統一も、いつまで続くかわかりませんよ。天下に何か起ったときにうろたえないように、あなたも己の実を持っておいたほうがよい― 」
韓信は、おそるおそるその言葉に返した。
「― 秦が長くないと、言うのですか?年を追うごとに力を増しているこの秦が?」
韓簫子は答えた。
「それは、表層だけを見た観察― 今は濁流を堰を作って溜まらせている状態です。秦王が流れを散らす道を作り出さなければ、堰は壊れるだけでしょう。彼が一人勝ちして勝ち誇ったことによって天下の敗者に怨みを残していることが、流れに勢いを付けています。そしてますます悪いことに、秦王の心は生き急いでいます。自分の生きている間に、全ての事業をやってしまいたいという欲望に取り付かれています。これは天の道に逆らった生き方であり、なおかつ人間個人の限界をわきまえない考えです。その欲望が、濁流の流れをますます強めています。今後自ら控えるならば、吉ともなりましょう。しかし、人間というものは、そして組織というものは、一度道を決めたら自ら変わることはきわめて難しいのです。」
韓信は、目の前の穏やかな男が発した急転直下の冷ややかな観察に、驚いた。
しかし、このときはすぐに、好学の人が天下を批評しているのだと思うことにした。
諸子百家が並び立って、片々たる小邑にすら詩書を読んで政治を論ずる者がいた時代のことである。商人でも好学博識の人間は、そんなに珍しくはない。そのように思うことにして、韓信は逆に意地悪に聞き返した。
「しかしそんなふうに評論しますけれど、韓簫子、あなたはもうご自分の生計で成功しているから、脇目で語っているだけでしょう?でも、もし天下に再び何かあったら、あなただってただではいられないでしょう?」
「そう、ただではおられない。」
「なのに、ずいぶん超然としてますね!それは、人生を知った達観というものなのですか?それとも、ただの酒の席での政治評論なのか―」
「なぜならば、私はすでに自分というものを全てすり減らしてしまったからですよ。だから天下と私は、もはや一つなのです。」
と、韓簫子は、言った。



