夕暮れの城内であった。
夜になれば各里の門が閉められるので、その間だけ顔を出すつもりでいた。門番に「隣の里の韓信で、林家にあいさつに来た」と、いつものように告げた。門番も、いつも来る顔の若造なのでわかっていて、「別の里の者は、夜までに出ろよ」と告げて、通してやった。
林媼さんの家は、門から入ったすぐ右手にあった。韓信は、戸を叩いた。返事がない。しかし戸は閂(かんぬき)がかかっていない。そこで、戸を開けて、中をのぞいた。
「戻ってきたぞ、、、っと、何だ、いないのか?、、、しようがないな。また明日出直すか?、、、ん?」
しかし、中に誰かいる気配がした。夕暮れ時で部屋の中は暗くて、よく見えない。
「あっ、あの、、、どなた?」
媼さんの声では、ない。とびきり若い声だ。誰だ?
「えっ、、、隣の里の、韓信だ。いつもここで林媼さんに世話になっている、韓家の信だ。どうやら媼さんはいないようだな。じゃあ出直すことにします。」
「あっ、韓さんですか!暗くてよく見えないんで、男が入ってきてびっくりしちゃいましたよ。そういや、その大きな体は、韓さんですね。」
戸の向こうから夕陽が入ってきているので、中からは韓信の顔が陰になってよく見えなかった。声の主の女性が、戸から入ってくる夕陽に当たる場所まで、前に進んで来た。それで、韓信にもようやく声の主の正体がはっきりした。
「ああ、阿梅か。」
「声でわからなかったのですか?」
「今日はいろいろあったんでな。」
「いろいろあって、わからないっていうのは、どういうこと?」
「いろいろあったことで頭がいっぱいになっていて、お前のことが頭から飛んでしまったんだよ。」
「そうですか、、、やっぱり韓さんから軽く見られてるんですね、私、、、そりゃあ私は目立たない娘ですけど、、、」
韓信が話しているのは、林家の阿梅こと林梅であった。林媼さんの、姪である。
十四歳であるが、父母をすでに亡くしてしまっている。韓信の一家を押し流した淮水の洪水の、彼らもまた犠牲者であった。それで今は、里内にある林家の宗家に引き取られて暮らしている。だが林媼さんと仲がよくて、こうして時々媼さんの家に顔を出すのだ。それで、連日のように昼飯時に乗り込んで来た韓信にも顔を合わせていた。
背は低くて、長身の韓信の隣に立てば、倍ほども違うように見える。そしてこの年頃の娘の通り相場として、やはり若い男には慣れていない。大丈夫の韓信ががさつに飯を食っている隣に居合わせると、別に頼んでもいないのにちょこまかと動き回って給仕してくれたりする。やりたいからというよりも、手でも動かしていないと居ても立ってもいられないから、やっているようなものだ。媼さんいわく「親はいなくても根は明るい子だ」ということなのであるが、韓信の前では口数を費やすようなことはない。しかし髪の結い方は常にきちんとまとまっており、髪にはいつも小さな竹製の梳(くし)を留めていた。服装は庶民の娘として腰に裳(もすそ。スカート)など着けずに衫(ひとえ)の衣にしかすぎないが、きれいに帯を閉めて合わせ目も正している。きちょうめんな娘である。それで、裕福な家の子でもないのに、ちょっと清楚な雰囲気がある娘であった。
「媼さんは、、、外出か?」
「はい、それでしばらくの間、留守番を、、、」
「そうかそうか。だけど、俺もあんまり長くはここにいられない。夜によそ者が勝手に居るわけにはいかないからな。」
「あの、、、城内で、いろいろ韓さんのこと噂になってますよ、、、本当にそんなことがあったのですか?」
「股くぐったことかい?まあ、しようがない。法刑に触れないためには、ああするしかなかった。言う奴は言えばいいさ。どうせ、俺の評判はこの城市では最低だ。だから、これ以上落ちはしない。そう考えると、俺は最善の道を取ったというわけだ。」
「韓さんは、そんな最低の人じゃないと思うのに、、、」
阿梅が世間の評判に逆らった見方をしているのは、例の洪水のときに、少年であった韓信が多くの人命を濁流から救ったと聞いていたことからであった。
韓信に言わせれば、無我夢中に自分が生きて、また誰かの命を助けることに必死だっただけだという。彼女は当時幼すぎて、洪水の記憶すらない。しかし、だからこそ当時のことを聞いては、自分にとっても人ごとではない災難での勇士に特別な印象を持っていたのであった。
その彼に、大きくなってこのように近しく会うことになった。彼は、今や城市の嫌われ者である。だが、想像で作り上げた少年時代の韓信と重ね合わせて、彼女は今の彼をいまだに蔑む目で見ることができないでいた。
だから、今日例ののらくら者が市場で見事に股くぐりをやってのけたという噂がこの里内にもあっという間に拡がって、里内の大人たちの大笑いとなったとき、彼女は初め信じられない思いがした。その後、彼女は自分までが侮辱された気持ちになった。表には出さなかったが、憮然としながら大人たちが再現してみせる実況を聞いていたのだった。
その本人に、今日のうちに鉢合わせしてしまった。
気丈な娘ならば、韓信を見るや否や叱り飛ばすところだが、彼女はそんな性格ではなかった。
「ずいぶん久しぶりですね。何ヶ月もいなかったんじゃないですか?」
「南昌に行ってたんでな。今日、そこから帰ってきた。」
「南昌に行って、、、韓さんにとって何か得ることが、ありました?」
「ない。あるとすれば、つまらん人間と俺は付き合えない、ってことだ。」
何ヶ月もいながら結局何も得られなかったという彼の言葉に、むしろ彼女は淋しかった。その上、今朝のことである。阿梅は、少し悲しい顔をした。韓信は、彼女の表情に気付いた。そこで、説き伏せる調子で、彼女に言った。
「今は最低でも、俺は構いはしない。いつも言ってるだろ?俺は、大きな仕事をしなければならないのさ。今朝のことなんか、俺は気にも止めていない。阿梅、それより俺が大きくなったときのことを考えてみろよ!この淮陰なんぞ、飛び越えてしまうだろうよ。そうなったら、今朝のことなんかは、笑い話だよ。」
「笑い話?」
「そう、笑い話だ。俺が笑うのは、そのときだ。そのときには、お前も笑え。」
「そうなってくださいよ。そうならないと、、、」
「ならないと?」
それから、阿梅は思い切ってこう彼に言おうとした。
(― 私、本気で怒りますよ!)
しかし彼女がそれを言おうとしかけた時、韓信のさらに後ろから、別の声がかかった。
「股くぐりの王孫!勝手に阿梅としゃべるんじゃないよ!」
韓信が振り返ると、林媼さんがいた。媼さんもまた、仲間から彼の股くぐり伝説をたっぷり聞かされていたのだ。しかし、彼女は「そうした方が、罪にならないんだからいいじゃないか」と軽く聞き流していたが。
「結婚前の男と女が牆(かき)を踰(こ)えて密談するなんかは、世間の恥というもんだよ!この娘は傷ものにしちゃならないんだ。さあ帰った帰った!」
韓信は、後ろから久しぶりに会った顔にいつもの調子でどやされて、すっかり嬉しくなってしまった。
彼は振り向いて、つい似合わぬ軽口を言った。
「じゃあ、正式に阿梅さんを嫁にもらうことにしますか!林家と韓家は淮陰の旧家だ、いい話だと思わないか?」
それを聞いて、阿梅は真っ赤になった。当然だ。ただちに林媼さんが応酬した。
「だめだね、職無しにはあげられないね。それじゃ宗家の顔が立たない。嫁に欲しかったら、早いこと大身になりな!」
「よし、だったら俺は、媼さんの言うとおり、王になろう。一国の王だったら、宗家も嫌とは言えないだろ?今日から俺は、一国の王を目指す― どうだ、こんなところで?」
「全然変わらないね、ははははは」
「俺は変わらないさ、ははははは」
青年と媼さんは、門前で笑い合った。阿梅は、うつむいて奥に小走りに去ってしまった。



