城門の向こうに、答えがあった。そこには、この辺りの地区担当の亭長配下の、求盗(きゅうとう。捕吏)の一団が待ち構えていた。韓信たちを追って一斉に城門から入り込んだ盗賊たちは、全員門をくぐったや否や、城門が閉められた大きな音にはっとした。謀られたと気づいたときには、もう遅かった。この支城は、ずいぶん前に廃城となっていて、彼らはその中に閉じ込められたのである。結局、盗賊団はことごとく求盗に絡め取られたのであった。
支城の城壁の脇に、いくつか背の高さていどに盛り上げられている塚があった。戦国時代華やかなりし頃、ここで攻城戦があったのかもしれない。この小さな支城は、泗水沿いに造られて下邳やその向こうの彭城を守るために計画的に縄張りされた、防衛線の一つであったのだろう。老人は、その塚の一つにひょいと飛び乗って、下にいる韓信に言った。
「全て、計算済みのことよ。おまえが来たときから、始まっていた。全てを事前に仕込んでおいたのさ。孫子曰く、
― 夫れ未だ戦わずして廟算して勝つものは、算を得ること多ければなり ―(始計篇)
しかし、無我夢中であったろう。先ほどのお前ほどに速い漕ぎ手は、天下広しと言えどもそうそうはいるものではなかったぞ。まことに、
― 善く人を戦わしむるの勢い、円石を千尋の山に転ずるが如くなる者は、勢なり ―(兵勢篇)
お前は、今しがた兵であった。そしてこの私は、将の立場にあった。この関係が、孫子兵法の根本にある。体で分かったであろう。」
孫子。老人の出していた言葉は、ことごとく兵法書『孫子』からの引用であった。その著者は、呉孫子と呼ばれた孫武(そんぶ)である。春秋時代末期、呉王闔廬(こうりょ)の下にフラリと現れ、兵法を王に売り込んだ。闔廬はこの客が提出した十三篇の兵法書を読んで、いたく面白がった。しかし、本気で採用する気にはならなかった。王は、座興として孫武に提案した。
「先生の著した十三篇の書、全て読ませてもらった。いちど試しに、実際に兵を鍛えてみてくれ。」
「喜んで。」
「ならば― 兵は婦人でもよいか?」
全くの王のからかいである。しかし、孫武は答えた。
「もちろんです。」
宮中の美女百八十人が、孫武の兵として与えられた。孫武はそれを二隊に分け、王の寵愛している二人の姫をそれぞれ隊長に任じた。全員に戟(ほこ)を持たせて、さて孫武はこの女性部隊に命令を発した。
「君たち!自分の胸と、左右の手と、背中がどこについているか、分かるか?」
女性部隊の面々は、くすくす笑いながら答えた。
「知ってまーず!」
「よろしい。では、私が『前』と号令したら、胸のある方向に体を向けなさい。以下、『右』と号令したら右手の方向を、『左』と号令したら左手の方向を、『後』と号令したら、背中の方向を向くのだ。よいな。」
「りょーかーい!」
と、気の抜けた返事がさみだれに聞こえてきた。部隊の統率は何も無く、将の威令は配下に行き渡っていない。
孫武は、定めた軍令に対する法刑を明らかにするために、鈇鉞(まさかり)を持ってこさせた。
「ただ今の軍令に違反した者は、これで斬首する!」
そう宣言して、さらに数回さきほどの軍令を繰り返し説明した。そこまでやった上で、太鼓を鳴らして孫武は、命令した。
「右!」
しかし、婦人たちはただただ笑うだけで、動きはてんでばらばらである。笑いながらくるくる回転する者までいた。それを見て、孫武は言った。
「軍令が明らかでなく、指令が部隊に行き渡らない。これは、将の罪である。部隊に軍令を行き渡らせることができないで、どうして兵を動かすことができようか?今一度、説得しなければならない。」
孫武は、さらに三度軍令を申し聞かせ、五度説明した。そして今度軍令に違反したら、本当に斬首することも申し渡した。試しに、全員にこの簡単な軍令を暗誦させてみた。全員コロコロした声を揃えて、言うことができた。これだけ繰り返せば、いくら何でも覚えられる。
そして、太鼓を鳴らして孫武は、号令した。
「左!」
結果は、同じであった。婦人たちはやっぱり笑うばかりであった。聞こうとしてない以上、何度説得しても無駄なのである。法刑を用いなければならない。
「すでに軍令は明らかである。軍令が明らかであるのに、兵が規則のとおりに動かない。これは、斬首に当たる。兵の統率に当たるべき隊長は、その罪を受けなければならない。者ども、左右の隊長を、斬首台に引き立てよ!」
そう命じて、呉王の二人の寵姫を斬首台に引っ立てた。この間呉王は高台の上から見物していたが、自分の寵姫が斬首台に引っ立てられようとしたのを見て驚愕し、あわてて使者を孫武に送って下命した。
「それがし、将軍が用兵に優れていることを十分に理解しました!その二人の姫がいなければ、それがしはもはや食事の味すらわからなくなる。二人を赦免してくれ!」
しかし、それを聞いた孫武の答えは、こうであった。
「― 三軍の事を知らずして、三軍の政を同じうすれば、則ち軍士惑う ―(謀攻篇)
兵とは、国の大事です。一旦王が将軍に兵を任せた以上、軽率に介入しては指揮命令系統を乱し、軍紀を乱し、軍法は破れることとなります。それは敗北の道、亡国の道です。将たるものが軍中にあるときには、君命であってもお受けしないことがあるのです。」
そう言って取り合わず、二人の姫の首をすっぱりと刎ねさせたのであった。峻烈な将軍の姿勢に、残された女性たちは震え上がった。上から見ていた呉王は、腰を抜かして顔面蒼白となっていた。
残された女性の中から、呉王が次に寵愛している二人を隊長に任命した。こうして、太鼓を打って号令したところ、女性たちは私語することもなく左右前後を向いた。孫武はそれを確かめて、跪(ひざまず)く、起つ、行進、速歩の軍令も教えた。今度は、一度の説明だけで、全員が動くようになった。訓練を終えた孫武は、呉王に言上した。
「部隊はすでに整いました。王よ、どうか台から降りてこの兵をお使いくださいませ。王のご命令の下、この兵たちは水火の中ですら怯まず突入することができます。」
このように報告した。しかし、呉王は台から降りずに、使者を通じて下命した。
「将軍は、練兵をやめて宿舎で休め。それがし、降りる気にならん。」
そう言って、引っ込んでしまった。使者からこの言葉を聞いて、孫武は言った。
「王は、兵法の議論をお好きなようであられるが、兵法を具体的に実践することは、おできにならないようだ。兵を動かす法則とは、このように恐ろしいものなのです―」
しかし呉王闔廬は、英主であった。孫武の実力を十分に理解して、ついに孫武を正式に呉の将軍に任命したのであった。孫武は、それから王の下で大いに働いたという。闔廬とそれを継いだ夫差(ふさ)の時代、呉は隣国の楚を大破して当時の都の郢(えい)までを陥落させ、北に向いては大国の斉・晋すら呉の勢いに屈従して、彼らから見れば蛮国であるこの国とよしみを結んで媚びることを強いられたのである。
孫武の伝説は、これだけである。その後半生がどのようであったのかは、全く伝わっていない。しかし、彼が著した十三篇の兵法書は、彼の名を取って『孫子』と呼ばれ、後の全ての兵法家が必ず暗誦するまで読まなければならない根本聖典となった。戦国時代には、多くの兵法家が現れた。孫武の子孫といい、斉の軍師として魏を痛破して魏の覇権を空しいものとした、孫臏(そんぴん)。彼は、先祖の呉孫子に対して、斉孫子と言われる。魏で兵法家として名を顕し、後に楚の宰相となって国政改革を試みた、呉起(ごき)。親政を始めたころの秦王政、すなわち後の始皇帝に遊説した、尉繚(うつりょう)。彼らはいずれも自ら兵法書を著した。しかしながら、『孫子』を越える兵法書は存在しない。『孫子』は時代を越えた将兵の基本法則を明らかにした書として、後々まで影響を与えたのである。この秦代においては、なおさらであった。



