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八 夢の彭城(1)

(カテゴリ:101兵法の章

夜。韓信は、南郭の韓簫子の屋敷の門をくぐった。望楼まで付いた大きな屋敷だが、淮陰で韓簫子の周囲にいた任侠の一行の姿は見えない。ごく普通の商家の構えであった。
家人に来訪を告げると、通された。さすがに裕福なようで、邸内は燭台がいくつも灯されて、ずいぶんと明るい。もっとも、これは後で知ったことなのだが、これらの燭台は一斉に消すことができるような仕掛けがしてあって、侵入者があると直ちに闇と化す工夫がされているというのであるが。この大きな商家は、そのときには侵入者にとって迷路となるように周到に作られているのである。

奥の間に通された。入り口は上等の御簾(みす)で仕切られてあって、来客のために捲(まく)り上げられていた。
その脇に、あの麗花が控えていた。
「いらっしゃいませ。奥にどうぞ。」
彼女は稽首(けいしゅ。頭を下げる)して、韓信に拝礼して迎えた。淮陰で会ったときとは、雰囲気が全然違う。前の時は可愛らしい小娘であったが、今はまるで深宮に仕える宮女であった。彼女と韓簫子との関係を思い出した韓信は、姿かたちをまるで一変させた彼女を見て、どきりとした。しかし彼のそんな視線に、今日の彼女は一切反応もしなかった。

韓簫子が、奥の間の中央にただ一人で座っていた。いつもながら、居住まいが正しい。どうやら書庫であるようだ。驚くほどに間取りが広い。その後ろの棚には、巻かれた書物がぎっしりと詰められていた。この時代の書物は、竹簡すなわち細長い竹の札に字を書いて、ひもで縛ってつなげている。「冊」という漢字が、そのような古代の書物を象形した文字である。収納するときには、それをくるくると巻いて「一巻」とする。だから、一巻の書物でも相当な大きさである。それが薄暗い書棚に整然と並べれられている光景は、知というものの荘厳さを視覚で感じさせるものであった。今は、彼の座右にも、一巻取り出されて置かれていた。

彼は韓信の姿を見ると、改めて主人が客を迎える座席の地位に居直った。
「わざわざ、ご足労かけて申し訳無い― どうぞ、お座りください。」
そういって、韓信に客の座をすすめた。韓信は、韓簫子と対座して、言った。
「再びお目にかかりました― しかしこの屋敷では、淮陰で見た者たちを見かけませんでしたが?」
韓簫子は、答えた。
「あの手の者は、私がこの城市から外に出向くときだけ、ご足労いただいております。普段は私の家に出入りすることはありませんよ。」
「すごい量の書物ですね― 今、読まれていたものは?」
「『荀子』です。近年では最高水準の著作です。」
「はあ、、、残念ながら、聞いたことありません。」
学問の世界は奥が深い― 韓信はため息をついた。

話題は、自然と今日の黄生との一件になっていた。
「昼のことは、あらかた聞きましたよ。黄生は、普段は門番に身をやつしています。そうして人づてで紹介された者に、学問への道を開いているのですよ。」
「しかし、なんで黄生はそんなもったい回ったことを?」
「それよりも、どうしてあなたがこれまで兵法に触れる機会がなかったのかを、考えてみるがよい。秦の統一後、一般人に対して兵法書は禁書となりました。さらに今年に入ると、丞相李斯の献策によって、ついに法律・医薬書・農業書・卜筮(ぼくぜい。占い)の書以外の書物は、全て禁書とする措置が発布されたのです。禁書を教える者は、処罰されます。そのため、少数の信頼できる者だけに密かに学問を伝授する― 黄生は、その姿勢を取らざるを得なかったのです。」
「― つまり、私は信頼されたということですか。」
「そうです。私にね。どうです?やりますか?それとも、引き返しますか?」

韓信は、だが少し躊躇した。
「しかし、ならばここで学ぶことは、違法ですね。」
「違法です。しかし、今の秦のように、人間の知識をふさぐ政策は、文化の自殺です。書物を禁書となし、学問を禁圧するような政策は、どうせ続けられることはありません。秦は天下の人民がなつかないので、ついに狂ったのですよ。狂った政府の言うことを、頭から遵守することはありません。」
韓信は思った。淮陰の韓信の里の父老は、どうも自分に一度別の世界を見せてやろうと腹で考えていたのかもしれない。そして、この韓簫子に見込みがありそうならば誘いをかけてやってくれと、それとなく依頼していたのではないか。股くぐりの日に韓信が声をかけられたのは、そんな事情が背後にあったような気がする。裏には何かの動きがある。楚のための運動だ。父老は、そしてこの韓簫子たちは、そこに飛び込めというのか?その奥に何があるのか?韓信が立ち止まるのも、無理はない。だが、先ほど黄生から聞いた兵法の世界は、これまで突破口を見出せなかった韓信にとって、あまりにも魅力的であった。

韓信が即答できかねているのを見抜いて、韓簫子は穏やかに言った。
「今は答えなくても結構。今日下邳に呼んだのは、別の件を依頼したかったからなのです。今度、彭城で郡守が各城市の代表者の会合を催します。私は、あなたの里の父老に言伝えて、あなたをその場に派遣してもらいました。実は、私やこの下邳で私と行動を共にしている項伯は、その会合に行くことができないのです。そこであなたに依頼したいのですが、その会場にやってくる代表者たちの真価を、あなたの目で見て私に伝えてもらいたいのです。この近年、泗水地方周辺の勢力圏は急速に変動しています。下相(かしょう)の項梁、これは、項伯の親戚でして、彼からその人となりと活動のあらましは聞くことができています。外黄(がいこう)の張耳、彼は昔からの魏の名士です。その張耳の弟分格に、沛(はい)の劉邦と言う者がいます。現在泗水の亭長で、隠然たる力を持ち始めていると聞いています。主だった者は、この三人でしょう。特に、沛の劉邦という男がどのような人物か、あなたの目で見て私に報告してほしいのです。」
「沛の劉邦、、、?知りませんなあ。」
「この男、入ってくる情報だけ聞いているところでは、何と言うことはないほら吹きにすぎないとか。しかしほら吹きにしては、郡役所や県庁の属吏の間で最近相当影響力を増してきているのです。いつも屈強の舎弟を引き連れて、彼らからいたく忠誠心を集めているとも聞きます。私が観るに、これは人物だ。人を巻き込む何かを持っている。できれば、それを見てほしいのです。」
韓信は、とにかく彼のこの依頼にだけは応えようと思った。
「― わかりました。しかし、そのようなことを私に観察させて、何に使われるのですか?」
「この辺の勢力地図の下絵を、持っておかなければならないからです。観察眼を持った人の目からの、情報が欲しい。」
「下絵を持って、どうなさるのです?」
「― 彼を知りて己を知らば、百戦して殆(あや)うからず ―ですよ。」
「それは、やはり孫子?」
「そうです。」
「あなたも兵法を学んでいる、というわけですね?」
「黄生の、下でね。この下邳で、ずいぶんになります。」
韓簫子はそう言った後、言葉を続けなかった。沈黙の後、韓信は、あえて質問した。
「韓簫子― あなたの正体は何物なのですか?」
だが、彼は言った。
「それも、いずれ話すこともありましょう。」
韓簫子は、その問いをとりあえず今は受け流した。もう一歩この青年が踏み込んだとき、明らかにするつもりであった。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章