韓信は、堂上にいた。昨日服屋で借りてきた似合わぬ礼装をして、長身の身を南長の亭長の後ろで突っ立てていた。人物としての中身はない亭長であるが、人付き合いだけは堂に入っている。その後ろに随従して、主人に合わせて拱手の拝礼をしたり、酒を入れた壷を持って爵(しゃく。コップ)に注いで渡したり、昨日までに腐るほど書かされた木簡(もっかん)の名刺を随時主人に渡したりしていた。だが、亭長は自分のことなど一回も客に紹介してくれなかった。
(まだ怒ってるのか、、、仕様のない人だ。)
韓信は内心舌を出したが、あくまで外面は精いっぱい殊勝に随従の役を努めていた。
ほとんど最後に回った客に、泗水の亭長がいた。昨日の派手な異装とは打って変わって、今日の宴席では正式の官吏装束をしている。この辺が、この劉邦の如才ない所だ。
挨拶をする南昌の亭長の後ろに立っている韓信を見た劉邦は、昨日の青年を見つけて喜んで、南昌の亭長がどうでもよいお世辞をだらだらと喋っている最中に、こっそりと右手の人差し指を手元に曲げて、指し招く指図をした。
挨拶が終わって南昌の亭長が座を立ったときに、韓信は合い間を盗んで劉邦の横に近寄った。劉邦は、言った。
「よし、ちょっとぎこちないが、身なりは整えて来たな。一応の大人だ。」
「ありがとうございます。」
「俺の忠告を素直に聞いた褒美に、後で張耳に会わせてやろう、、、魏の大身で、俺の兄貴筋だ。お前の主人の挨拶が終わったら、その後に来い。」
「は、、、分かりました。」
「何となくお前が気にいった。今日はよく見聞しておけ。」
しばらく後に、韓信は挨拶回りが終わって席に戻った南昌の亭長の隙をついて、劉邦のところに行った。劉邦は韓信に酒壷を持たせ、樊噲も従えて席を立った。樊噲は、宴会の間も眉一つ動かさず、劉邦の後ろに立っていた。まさしく、主人の「侮りを禦(ふせ)ぐ」にふさわしい壮士であった。宴席はたけなわで、参席者の間では今日の豪勢な料理の話で持ちきりであった。
「いや、ここまで来たら、熊掌(ゆうしょう)もたぶん出そうですな。」
「出るでしょうなあ!」
熊掌というのは、熊の手の平を長時間ゆっくりと煮込んだ料理のことである。儒家の孟子も絶賛した、伝説の美味であった。それを聞いて劉邦は、言った。
「ふん、熊掌ってのは、見掛け倒しで本当は大して美味くないんだよ。あんなものを有り難がっているのは、半可通だ。」
「食べたことあるんですか?」
「あるよ、、、張耳のところでね。」
その張耳の座に、劉邦たちは来た。両者は互いににやりとして、型通りの挨拶を交わした。
一昨日、韓信はこの張耳の一行が彭城に来たときのことを、見物していた。だから、顔はその時に見ていた。もう初老である。しかし、立居振舞は矍鑠(かくしゃく)としている。場数を踏んだ経験者らしく、無駄な動きが少ない。大身の名士ではあるが、ここに居合わせている郡守のような、ふやけ顔の社交家といった風とは対照的であった。もっと筋肉質の厳しさがある。
「この張耳は、むかし信陵君の食客だったとか、、、本物に接して、少しはその遺風を受け継いでいるのだろうか?」
信陵君。実名は無忌(むき)。魏国の王弟で、戦国末期に天下に名を轟かせた貴公子であった。戦国末期、天下には四人の実力ある貴公子がいた。斉の孟嘗君(もうしょうくん)、趙の平原君、楚の春申君、そして魏の信陵君である。彼らは、いずれも戦国諸国の高位の王族であった。彼らはその位がなせる豊かな財力にものを言わせて、自らの封地を事実上の独立王国となした。彼らの実力は、その母国の王たちからも恐れられるほどであった。
この「戦国四君」と後に称された貴公子たちには、共通したところがあった。それは、いずれも自分の領地を天下の人士に開放して、多数の食客をその下で養ったことであった。彼ら四人は競って人士を抱え込み、その数はいずれも数千人に上ったという。なぜこういうことをしたのか。それは、王族とはいえ正規の政府の組織を操る立場にない彼らが、代わりに求めた力の根源が個人的な主従関係だったからである。彼ら戦国四君たちは、そのため積極的に自分個人に忠誠を誓ってくれる人間を求めて交わった。人士たちの心を取り忠誠心を得るために、彼らは身分の貴賎を問わず腰を低くして客を求め、信義を守るように心掛けた。そのようにして集まった者どもは、組織ではなくて主君個人に忠誠を誓い、主君の危機には一命を賭して守り、そして主君が侮られることがあれば敵に血をもって報いた。それが、これら貴公子たちに知己を得た者たちの掟であった。
張耳が仕えた魏の信陵君無忌は、その食客が三千人。人に対して仁愛に富み、賢不肖を問わずに謙譲して接して、礼儀を失しなかった。自らの富貴の身を誇り驕慢に振舞うこともなかった。そのためはるか遠方からも人士が集まってきた。
信陵君は、賢明であった。彼は配下の食客たちを使って、各国の情報収集に努めていた。ある日、信陵君と兄の魏王とが博戯(すごろく)をしていた。そのとき、北の国境線から烽火が次々と上げられて、趙王来襲の知らせを届けてきた。王は博戯を中止して大臣を召集しようとしたが、信陵君は言った。
「趙王は、狩をしているだけです。攻めて来たのではありません。」
と言って、王と博戯を続けた。だが王は心配で、博戯どころではなかった。しばらくすると、果たして再度の伝令がやって来た。趙王はただ狩をしているだけだったという。魏王が「どうして分かったのか?」と聞くと、信陵君は、
「それがしの客の中に、趙王の動静を深く知っている者がおります。その者から常に報告を受けていますので、今回のことも分かったのです。」
彼は、広大な中国で情報を収集することが何よりも進退の助けになることを、熟知していた。
彼は、多くの命知らずの男たちの協力を得ることができた。
後に始皇帝となる男児が趙の都邯鄲で人質の公子子楚(しそ)の子として産まれた頃、彼の母国である秦は、その邯鄲を包囲していた。秦は、男児が産まれた年に趙を長平の戦いで撃破して、その士卒四十万人を坑(こう。穴埋め)にして殺した。この敗戦で、函谷関以東で最強の国であった趙もまた秦の敵ではなくなった。勢いに乗った秦は趙の首都を囲み、戦国四君の一人、平原君は魏王と信陵君に救援を依頼した。魏王は、将軍晋鄙(しんぴ)に命じて、趙に軍を派遣した。
しかし、その頃魏王のもとには秦からの脅迫が届いていた。趙はすでに敗れた、もし趙を救援するならば、取って返して今度は魏に兵を送るぞ、と。魏王は恐れて、晋鄙に進撃を中止させて塁壁を築いて待機するよう命じたのであった。
平原君から、信陵君へ催促の使者が届いた。あなたは、他人の困窮を見れば必ず救済する男ではなかったのか。どうして今趙を見捨てるのか、、、信陵君は、魏王に懸命に説いたが、魏王は秦を恐れて聞き入れない。今はやむなし。信陵君は自分一人でも玉砕覚悟で救援に行き、信義の樣を天下に見せてやろうと思い切った。そこで、賓客たちに事情を訴え、手勢だけを率いて魏の都の大梁を出発しようとした。
このとき、信陵君が知己を得ていた賓客の一人に、候嬴(こうえい)という者があった。
大梁のただの老いた門番である。しかし、前も言ったように、城市の門番には思わぬ賢者が身を隠していることがある。この候嬴― 尊称して候生(こうせい)もまた、そうであった。彼は、悲壮の覚悟で出陣する信陵君の戦車隊を見て、「公子は、死ぬつもりだな、、、」と思った。「生き延びる策を、与えてやらねばなるまい、、、」と、門に近づいてきた信陵君を見て、思った。



