劉邦と張耳は、型通りの挨拶を交わした後、座った。張耳はそのまま宴席の皿が出ている方向に座り直り、その斜め後ろに劉邦が控える。あくまでも主催者は郡守なので、立ち話は脇で控えめに行なわれた。劉邦の後ろには、樊噲と韓信が従っていた。張耳の横の席は、彼の盟友で義弟の陳餘がいた。陳餘は魏の大梁の人で、張耳には年少の頃から父のように付き従ってきた。だから劉邦にとっては彼もまた兄貴分に当たる。
「壮士を引き連れて来ておるな、、、お前も一家を成したか。」
張耳は、劉邦の後ろに控えて腰を下した二名の偉丈夫を見て、言った。劉邦は答えた。
「片方は、それがしの沛出身の男です。名は樊噲。常にそれがしと行動を共にしております。もう一人は、実は昨日拾った青年で― 見聞を広めたいと申しておるので、今ここに連れております。」
「ほう。よい顔をしておるな― 名は何と申す。」
張耳が韓信に声をかけた。韓信は、返した。
「淮陰の産、姓は韓、名は信と申します。」
「淮陰の、韓信か― して、生業は?」
生業を問われた。正直に答えれば、「無為徒食」と言うしかない。もし劉邦のような人間ならば、恥の心などどこ吹く風で「無為にして、徒食しています。」と言い切るであろう。自分を低くして、相手を安心させて巻き込むのが彼流儀の生き方だからだ。しかし、韓信はそれはできなかった。彼のような矜持心の高い青年は、できればこのようなときにはむしろ高い目標を表明した方がよい。その方が他人から見て年頃に合った前向きの人物像となるし、また他人の前で表明することによって、自分を暗示に掛けることもできるかもしれない。得てしてこういった場で壮年者の前で表明する目標が、青少年の針路を決めたりするものである。
(韓信よ、理で世界を捉えることを学べ。それが、お前をこの世で生かすことができる道となるであろうよ―)
韓信は、数日前に下邳の支城で黄生に言われた言葉を、思い出した。兵法の魅力を彼に開示されたときのことも、目に浮かんだ。兵法、理で世界を捉える法。それが、自分をこの世で生かす道なのか、、、そこで、彼は張耳に返した。
「兵法家です。修行中ですが。」
張耳は青年の言葉を聞いた後、ちょっと目を丸くした。しかしすぐに、何か興味を持った顔つきに変わって、声を低めて、しかしとぼけ気味に言った。
「兵法家?― 禁制の学だぞ。もっと小声で言え。」
言ってしまった後、韓信はしまったと思った。どきりとして、周囲を見回した。だが、すぐ周囲の人間以外は誰も聞いていなかったようだ。彼の前に座っている劉邦は、むしろ喜んでいるようであった。
張耳は、韓信に今度は大きめの声で言った。
「― よい男になれよ。」
韓信は返した。
「ありがとうございます。」
そして、それ以上張耳も劉邦も何も言わなかった。このことは聞かなかったことにする― 二名のはからいであった。二名のはからいであった。だが、彼らは二人とも、後にこの青年と互いの人生を変えるほどの関係を持つことになる。
話題は、張耳と劉邦の当り障りのない話に移った。
「お前がこの私のところにいた頃から、外黄の城市は大して変わってはおらん。だが大梁は今だに完全に復興していない。この彭城のにぎわいは相変わらずだが、魏は何となくさびれてしまったよ。」
「外黄にいた頃は、それがしも若かったですな。」
それから張耳は、劉邦の後ろの韓信に向けて、昔のことを言い始めた。さきほどの「兵法家です!」の一言で、彼が一種こちらに近い人間であることを、感じたのであろう。酒の座においてちょっと気に入った若者に話し掛ける、功績を積んだ年長者のお決まりの流儀であった。
「この泗水の亭長、劉邦はな、昔この私のところにはるばる沛から出向いてきて、『できれば、先生のお国の英雄、信陵君無忌のような男になりたいと思います!』と抜かしおった。私は言った、『信陵君は、私が仕えていたお方だ。信義この上なく厚く、弓矢の嵐の中でも一歩も引かない太肝を持った、男の中の男であったよ。お前になれるものではないぞ。』と。しかしこいつは、礼儀作法の面では信陵君の足元にも及ばん。この横にいる陳餘は私の義弟だが、この男は礼儀作法に詳しいので名が通っている。こ奴から、泗水の亭長は昔いつも叱られていたものだ。」
張耳が言った横に座っている陳餘は、昔儒家の道を学んだ人物である。ゆえに、礼儀作法に詳しい。現在の秦では、儒家の信奉者であることもうかつに広言できかねる状況にあるのであるが。その陳餘に叱責されたという劉邦は、しかし昔話を張耳の口から出されても、それを恥ずかしがるような風ではなかった。それは当然― とでも言いたげな表情であった。
「だがな、こいつには、一つ信陵君に通ずる所がある。こいつは、人の話を聞くのがうまい。自分の知を誇らず、他人の言葉から大事な要点をつかみ出しよる。これは、できるようでなかなかできないのだ。その上、こいつはいつの間にか色々な情報をどこかから耳に入れて来る。他人に話を持ちかけられる器を持った男なのだ。だから礼儀知らずなのだが、面白いので目を掛けてやったのだ。信陵君の一徳を持った男だからな― ところで、、、劉子よ、前に世話してやった女は、元気にしてるか?」
劉邦は、しれっと答えた。
「おかげさまで。」
(こんな関係なのか、、、やはり任侠なんだな。)
後ろで聞いていた韓信は思った。ちなみに張耳が劉邦に世話した女というのは、曹氏のことである。曹氏が産んだ子の劉肥は、後に斉悼恵王となる。
劉邦は、返した。
「そういや前に長兄のところを訪問したときに、、、可愛がってる娘御がおりましたな。もうずいぶん大きくなってるでしょう?」
「まだ八つにしかならん。一応この彭城にも連れて来ているのだが、宿舎に置いておるわ。」
「燕、、、でしたっけ、名前は?実の娘じゃないんでしょう?」
「ああ。趙のほうから、わけあって引き取ったのだ。なかなか利発な娘だ。将来役に立つかも知れん。」
「実の娘もおられるのに、、、酔狂なことで。」
「ふん。並の娘など、何人いてもいざという時に何の役にも立たん。金がかかるだけだ。」
劉邦は、韓信に向き直って、軽い調子で言った。
「張耳の長兄は、子福者でいらっしゃるのに、斉から娘など引き取って育てている。大身だからできることだ。金がないと、特に娘などは重荷になるだけだよ、、、」
韓信は、質問した。
「子福者って、娘さんが沢山おられるんですか?」
劉邦は、張耳に向いて聞いた。
「十五人でしたっけ?」
張耳は、無表情に答えた、
「― 十八人だ。」
韓信は、鼻白んだ。「名士」という人種の生活がどのようなものであるか、そのあらましが娘の数だけで分かった気がした。
彼らにとっては何事でもない世間話であったが、田舎の青年の韓信にとってはずいぶん面食らう別の世界の話であった。だがそのような彼ら流儀の世間話を一くさりした後、張耳は劉邦に近づいて、こっそりと極めて小さな声で、話し掛け始めた。
「― ところで、重要な話とは?」



