「― ところで、重要な話とは?」
「長兄― この会合は、姦策ですよ。」
「なに?」
「長兄と陳兄を捕らえよとの詔が、新任の郡守の元に下達されているもようです。きっとこの新任の郡守は、その特命を受けて赴任してきたに違いありません。県庁以下を動かして大々的に行なうよりも、真意を伏せたままで宴会にかこつけて長兄たちを誘い込もうと企んだんです。ここで、長兄たちを捕まえるつもりですよ。」
「むむむ、、、しかし、どうしてわかった。」
「郡役所にも、それがしの仲間がおりますので、、、へへへ。役所の上層の機密など、それがしにとってはあってなきがごとし、というわけで。」
張耳と陳餘は、表向きは在野の魏の名士である。しかし張耳は信陵君の食客として過ごしたその経歴から、江湖の任侠界に強い影響力を持っていた。彼とその義弟の陳餘は、表の政府からはよく見えない裏の世界に対して隠然たる力を持ち続けていたのである。張耳の数多い子供もまた、地方の社会との表にも裏にも何層にも重なった昔からの付き合いの輪の中で、「自然と」産まれたものであった。
秦の政府が中央から派遣してくる命官と呼ばれる高級官吏は、権力は大きいがその数は人民の海の中の一しずくにもならない。彼らが地方の行政を動かすには、どうしても郷里の父老たちの力を借りるしかない。そして彼らをまとめあげて政府に協力させることができるのは、決して命官の郡守や県令ではないのである。
張耳たちは、表と裏の世界の実力者として、その役割をすることができた。租税と労役の徴発、地方採用の属吏の推薦、違法者の摘発や逮捕などは、建前上は命官が法に基づいて上から人民に指令する事項である。しかし現実には、郷里の父老たちの協力があって初めて円滑に進められることができた。張耳らは、そのような地方の現実の中で、政府と郷里の仲立ちのような位置を占める者であった。彼らは郷里の子弟に労役の徴発を手配し、しかるべき人材を地方政府に推薦し、そして法に触れた者を郷里から摘発した― もっとも、この最後のことについてはずいぶんと手を抜いていたが― のであった。郡や県の行政は、彼らがいることによって、さほど苛酷に法刑を適用せずともこれまでやっていくことができた。それゆえに、張耳たちは旧敵国の重要人物であるにも関わらず、これまで見逃されてきた。
しかし、秦の政府はそろそろこの人間たちを取り除くべきだと考えるようになった。そもそも、秦の国家原理を作る思想は、法家思想である。明らかに示された法刑の秩序によって、全ての人民を一律に支配する― これが法家思想の理想状態であり、始皇帝や丞相李斯が理想とする国家体制であった。政府にとって張耳のような人間は、法をゆがめて表の政府からは見えない別種の権力を地方に及ぼす存在であった。それは中央の政府にとって、不気味な存在であった。不気味ゆえに、いつかは絶やさなければならない存在であった。
現在統一から八年が経過したが、相次ぐ外征や土木工事によって、人民は統一政府になつくどころかますます不満が高まっていた。始皇帝と丞相李斯がそのような中で取った道は、人民への圧力をゆるめるのではなくて、より法刑を厳密に適用して人民を隅々まで支配することであった。この年に断行された焚書と諸学問の禁止令もまた、書物にかこつけて政府を批判する市井の者どもが後を断たないので、批判の元を断つための人民統制の手段であった。このように締め付けを強化していく中で、今回張耳と陳餘を逮捕する詔も出されたのであった。
「秦め、、、この私が邪魔になったか。郡や県には仕事がうまく運ぶように、これまでずいぶん後ろから世話してやったのに。思い通りに動かせないと見たら、手の平を返すように捕えるのかよ、、、役人なんぞ、しょせんはそんなものか。」
張耳は内心腸(はらわた)が煮えくり返っていたが、この場では表情を改めずに、劉邦と再び小声であわただしく会話を続けた。劉邦は、ささやいた。
「逃げて、しばらく身を隠しなさい。隠れる穴は、いくつでもあるでしょう?」
「門番にでもなって、しばらく隠れるか、、、とにかくよくぞ教えてくれた、恩に切るぞ― さすがは私の見込んだ小無忌だ。」
「間も無く虞美人が登場して、舞の座興となります。全体の目は必ずそちらに釘付けとなるでしょう。その隙に、西門から密かに― それがしの手の樊噲が立ちますので、その後ろに隠れてお出でなさい。こ奴は大男ゆえ、長兄と陳兄の二人分隠すだけの盾となります。西門の向こうには、すでに用意が出来ているはずです。それがしの手の者が、すでに長兄の宿舎に連絡しておりますので。」
劉邦は、義弟の廬綰を密かに張耳の宿舎にやって、張耳の家の者に対して目立たないように逃亡の用意をするように告げさせておいた。すでに、郡の兵が彭城に入っているに違いない。目立つ動きをすれば、直ちに包囲される。
「それでは、それがしは席に戻りますので―」
劉邦は、長い時間の密談は無用とばかりに、今度は声を高めて長兄に拝礼した。
張耳も返して拝礼した。しかし、内心で彼は、別のことを考えていた。
(― こいつ、恐ろしい奴だ。)
対して拝礼する劉邦もまた、別のことを考えていた。
(― もう、これからは俺の時代だ。)
韓信は、劉邦が席を立ったので、同じく席を立った。しかし樊噲だけは、張耳の席の後ろに控えたままであった。後ろにいた韓信には、彼らが小声で何を語っているのかは分からなかった。ただ、その内容を質問するのはまずいだろうとは思った。
「さてと、そろそろ虞美人だな、、、青年、お前は運がいい。滅多に見られないんだぞ、あの女の舞は―」
「虞美人、、、?」
「ふふふ、お前はやはり、この手の道には鈍なようだな。彭城で知る人ぞ知る、最高の妓女だ。美貌も才も、巷の女どもをはるか後ろに置いていく程に卓絶している。しかし、その女を知った男は、この世にいない。」
「― なぜ?」
「知った男は、全て滅んだと言われているからさ―」
本日の宴の席に、虞美人が舞うということは、事前に知らされていなかった。事情通の劉邦だから、知っていたのである。しかし、その噂は、いつしか今日の席に居並ぶ客たちの間に伝わっていった。料理の豪勢さに一度は驚いた客は、しかしそれをも上回る座興が用意されていたことに、再び驚嘆のため息を出さずにはいられなかった。
「彭城一の妓女、虞美人― その女に気に入られた男は、一人残らず滅びる運命にあると噂される、、、滅多に表に出ない女が、この席に出てくるというのか!」
「あの女は気まぐれです。舞いたいと思ったから、舞うのですよ、、、」
やがて、宴席の広間の、主賓の郡守たちが居並ぶ奥の座の背後に、楽隊が入ってきた。いよいよ始まるのである。彭城一の妓女、男を滅びさせるという女の、虞美人の舞が― 宴席は、しばし静まり返っていた。



