«« ”十一 虞美人が舞う(2)” | メインページ | ”十二 離騒曲(2) ”»»


十二 離騒曲(1)

(カテゴリ:101兵法の章

歌には、その精神というものがある。下手は、言葉をなぞるだけである。しかし上手は、歌に込められた精神を心で理解して、その精神と一体になって芸を作る。だが、更にその上の芸というものがある。歌の精神を踏み台として、その素材から自分自身の世界を作ってしまう芸である。それができるのは、真の芸術の霊感を持つ者しかいない。虞美人の舞の世界は、まさしくその境地であった。素材は古くからの歌であるのに、誰もこの世界を見せたことがなかった。

悲痛の調子は続く。詩の主人公の孤独なる魂は、世俗には捉われて遠きあの人には顧みられず、行き場所を失って苦しみ、かつ悲しむ。歌に合わせて舞う虞美人の姿は、月界に飛び去る嫦娥(じょうが)の姿と言うべきであろうか。それとも崑崙の霊峰を舞う鳳凰の映しと言うべきであろうか?― いや、この時、ここにいるこの女は、一個の虞美人という存在以外の何者にたとえるべきでもなかった。


「長太息以掩涕兮、哀民生之多艱、
長太息して涙をぬぐい、人生の多難を悲しむ。

「余雖好脩姱以鞿羈兮、謇朝誶而夕替、
私はすすんで善美であろうとした。だがその報いは、縛り付けられることであった。ああ!朝(あした)に言葉を告げると、夕(ゆうべ)には捨てられるのか。

「既替余以蕙纚兮、又申之以攬茝、
前には私が蕙(けい)の帯をしていると言って捨て、今は茝(し)を摘むからと言って疎む。

「亦余心之所善兮、雖九死其猶未悔、
だが私の心がよしとすることを貫けば、九死を受けても悔いはない。

「怨靈脩之浩蕩兮、終不察夫民心、
怨むべきは麗しのあの人が、心虚ろにして、人の思いを察せざること、、、

「衆女嫉余之蛾眉兮、謡諑謂余以善淫、
世の女どもは、私の蛾眉(がび)の美をねたみ、私を淫蕩だとはやし立てる。

「固時俗之工巧兮、偭規矩而改錯、
世俗は、何と器用なことか!規矩(きく。定規とコンパス)に背いてでたらめに置き換え、

「背縄墨以追曲兮、競周容以爲度、
縄墨(じょうぼく。すみなわ)に背いて曲った道を追い、競って世間におもねるのを当然とするのだ。

「忳鬱邑余佗傺兮、吾獨窮困乎此時也、
悲しや!私は憂いに沈み、立ちつくし、一人この時代に苦しむ。

「寧溘死以流亡兮、余不忍爲此態也、
いっそ今死に、五体が消え去ったとしても、私はこの世俗のような生き方をするに忍びない。

「鷙鳥之不群兮、自前世而固然、、、
猛禽が群れることないのは、昔からそうだったではないか、、、?


満座の男どもは、見るより他はなかった。虞美人から突き付けられたこの美の挑戦状を、己の底浅い美学の範疇で処理できる男など、この席には一人もいなかった。ただ呆然として、圧倒されるより他はなかった。
だがすでに自分の席に戻っていた劉邦だけは、美学は抜きにして自分の女性観を使って理解することができた。
「ひゅー!大した女だ。この女は、図抜けている、、、」
しかし、女の道の通の劉邦は、すぐに付け加えた。
「惚れると、確かに滅びるな、、、」


「悔相道之不察兮、延佇乎吾將反、
道を誤った不明を悔いて、久しく立ち尽くした後、帰ることを思う。

「回朕車以復路兮、及行迷之未遠、
車を回(めぐ)らせ、来た道を帰る。まだ迷った道は、遠くなかった。

「歩余馬於蘭皐兮、馳椒丘且焉止息、
私の馬を蘭香る沢に走らせ、椒(はじかみ)の匂う丘に駆け、しばらく休もう。

「進不入以離尤兮、退將復脩吾初服、
進んで容れられず咎めを受けたからには、ここは退いて初心の頃の服を作ろうじゃないか。つまり、

「製芰荷以爲衣兮、集芙蓉以爲裳、
芰(ひし)と荷(はす)で衣を作り、芙蓉を集めて裳(もすそ)となそう。

「不吾知其亦已兮、苟余情其信芳、、、
私が知られないのはもういたし方がない。私の情はまことに芳しいのだ、、、


「これは、、、これは、、、」
韓信は、言葉を失っていた。正直言って、田舎者が宝玉を見せられたときの驚きであった。この天下が大きいのは、単に土地が広いからだけではない。人間もまた、深いところでは驚くほど深いのである。韓信は、虞美人の女性の美に賛嘆したというよりは、人間というものがここまできらめくことができるという可能性を見せつけられて、魅了されていた。

この世に容れられざる魂、その魂の嘆きの歌は、高まる。詩の主人公は、かくして地上を捨てて天界に理想の世界を求めようと、旅立つ。


「駟玉虬以乘鷖兮、溘埃風余上征、
白竜を四頭立てにし大鳥に車を載せて、たちまち風塵を上げて天に昇る。

「朝發軔於蒼梧兮、夕余至乎縣圃、
朝(あした)に車を蒼梧山に発せば、夕(ゆうべ)に崑崙山の縣圃(けんぽ)に至った。

「欲少留此靈瑣兮、日忽忽其將暮、
しばらくこの聖地の門前にいようと思うと、たちまちに日は暮れなずんでいく。

「吾令羲和弭節兮、望崦而勿迫、
私は日輪の御者の羲和(ぎか)に命じた、『止まれ!お前が崦(えんじ)山に入れば日が暮れる。山の前で留まっておくれ、、、』

「路曼曼其脩遠兮、吾將上下而求索、
行く手の道ははるけく遠い。だが今はこの車を上下させて、よき人を求めよう。

・・・

「時曖曖其將罷兮、結幽蘭而延佇、
時は闇迫り、すっかり暮れようとしている。なのに今、誰に贈るともない幽谷の蘭を結んで、立ち尽くしている。

「世溷濁而不分兮、好蔽美而嫉妒、、、
世は混濁して分別なく、美を蔽(おお)いて嫉妬するばかり、、、

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://suzumoto.s217.xrea.com/mt/mt-tb.cgi/941

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

          

各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章