奥の方から、一瞬我に返った男の声が、響き渡った。
「おらん?おらんぞ!、、、どこに行った?」
しかし、そのような声は気にもとめず、虞美人の舞は最高潮に進んでいった。美は決して見捨てられることはない。どこかにいるはずの理想の相手、それがなんであなたを見捨てようか?― 天界にも地界にも麗しき世界を見つけることができなかった詩の主人公を、巫(みこ)の靈氛(れいふん)がそのように託宣して慰めるのであった。
「索藑茅以筵篿兮、命靈氛爲余占之、 霊草もて取り数え、靈氛に命じて私のために占わせる。「曰美其必合兮、孰信脩而慕之、
卦にいわく、『美は、必ず互いに巡り会いて一つとなろう。まことの美が、どうして思われないことがあろうか?「思九州之博大兮、豈惟是其有女、
思うに天下の九州は広大ではないか。お前のための人が、どうしてここだけにいるだろうか?「曰遠逝而無狐疑兮、孰求美而釋女、
遠くまで行け。疑うでない。美を求める者が、なんでお前を捨てようか?「何所獨無芳草兮、爾何懷乎故宇、
かんばしい草がない所がありえようか、お前は故郷の家などに未練を持つべきでない。「世幽昧以昡曜兮、孰云察余之善惡、、、
世は暗黒ゆえに、日の光に目がくらむのだ。これでは、誰も善悪など分かるはずもない、、、』・・・
だがここに至って、郡守の声は、ついに音楽の調べを切り裂いた。
「おらん!、、、郡兵、何をしている!出会え!探せ!」
虞美人の舞は、宴席の広間を密かに監視していたはずの郡兵たちまでも、魅了して一瞬の隙を作ってしまっていた。いざ郡守が我に返ったとき、謀りごとはすでに破れていた。樊噲は周囲の空気に隙が出来たことを見切って動き、その巨体の陰に張耳と陳餘は隠れた。そうして速やかに西門に滑り出て、門外に脱出していたのであった。そこにはすでに彼らの手のものが待機して、密かに二人を連れ出した。もとより修羅場には慣れている家のものたちである。白昼堂々と県庁を出て、いつの間にか消え去ることなどたやすいことであった。
華やかな宴席も、今やその正体が明るみに出てしまった。本来の予定では、この一席が全て終わった後に、忍ばせていた郡兵を使って密かに張耳と陳餘を獄に連れ去る手筈であった。しかし、自分の生け捕り策がもろくも破れたことを知った郡守は、各城市の代表者たちがまだ目の前の席にもいるにも関わらず、大声で逆上してしまった。隣の県令が、必死に止めた。しかし、もしこれで取り逃したら自分は罰を受ける。秦という国は、成果を挙げた者に対する賞は確実であったが、それ以上に失敗した者に対する罰はもっと確実であった。そのことが恐ろしかった郡守は、もはや周囲を気づかう余裕など失っていた。
横にいた郡の武官主席の郡尉が言った。
「彭城の城門はすでに閉鎖しています、、、城外に出られるはずはありません。ここで慌てても何もなりません。各地の下々の者どもの前です、ご自重を、、、」
だが、城門を閉鎖しただけで外に出られなくなるなどと考えているところが、役人どもが実際はこの地の実情を何も分かっていない証拠であった。第一、城門を管理する賤しい門番どもが、お役人樣と張耳たちのどちらの味方だと思っているのであろうか?
「下々の者のことなど、どうでもよいわ!大事なのは、詔命なのだ、詔命!」
郡尉に自重するようにたしなめられても、郡守の逆上は収まらなかった。彼のこれまでの官吏としての生き様は、このようであった。彼は、郡守に昇るまでの経歴の間、ひたすら上に屈従して法に触れないように細心の注意を払ってきた。そして数多くの密告をして上司と同僚を売り、また失敗の恐れが高そうな無茶な仕事はなるたけ他人になすりつけてきた。そうして保身に保身を重ねて、ついにこの郡守の地位に昇ったのであった。
だが郡守ともなればもはやこれまでとは違って、何かしら積極的に目立った功績が上から求められる。郡守の拝命を受ける直前に、彼は首都咸陽の丞相府に呼びつけられた。そこに、丞相李斯が激務の間を縫って、彼ら新任の郡守たちに訓示するためにやってきた。彼は目の前の高級官吏どもに、こう言った。
「郡守ともなれば、その任期中に無作為でいることは、それだけで国に対する罪であることを、心得ておくがよい―」
目の前の者たちを見据える李斯の目は、一切の情を示さない冷ややかなものであった。統一からこのかた行政の最高職務に座り続けている、この秦の国家理性の権化とも言うべき老政治家は、配下の高級官吏どもの性根を全て見通していた。これまでうぬらが這い上がってきた際に使った事なかれ主義の調子は、今後一切許さん― 法家思想を政治家としての自分の信条としている李斯は、人間の醜悪な面を努めて見ようとした。利己的で我欲でしか動かない人間をあえて動かすには、褒賞のエサと刑罰の恐怖を用いるしかない。それが、彼の原理であった。そして、李斯から見ればこの目の前のふやけた男どもは、脅しをかけないと何もしようとしないであろうことは、確信の持てることであった。
丞相のこの言葉に震え上がった郡守は、何かよい功績となる上への土産はないものかと、考えに考えた。その結果見つけたのが、赴任前の当時中央で検討段階にあった、魏の張耳と陳餘の一党を逮捕する作戦であった。そこで、郡守は丞相府に上奏した。「臣は、昧死(まいし。死罪を犯すこと)して上奏いたします。張・陳二氏は旧魏・趙及び旧楚地方に影響力強く、公開の捜査では取り逃がすおそれがあります。そこで、新任の会合にかこつけて二名を呼び出して捕縛する方が、連中を公開で捜査するよりも確実に捕えられるでしょう。各郡県に逮捕の旨を下達す前に、どうか臣に作戦の遂行をご命令ください。―」
数日後、皇帝の決裁が下り、密詔が出されたのであった。
この仕事を上申して承認されてから、小心な郡守は夜も寝られない日々が続いた。手抜かりなく、かつ情報が漏れないように行なったつもりであった。それでも不安で、繰り返し繰り返し占師を呼びつけては、卜占を行なって吉日を決め、出た卦の面で自分を慰める毎日であった(ちなみに秦の政府が卜筮の書を禁書から除外したのは、当時の官吏にとってうらないを立てることがほとんど日常的な性癖となっていたためである)。
それが破れようとしたから、郡守は動転していた。「昧死」して上奏しているのだから、文書の形式上は任務が果たせなければ死罪である。これは、上奏文の決まり文句であった。もちろん実際の運用としては、果たして一回の失敗で厳罰が下されるかどうかは、本当のところは明らかでなかった。だが郡守の頭の中には丞相李斯の冷ややかな眼差しが頭にこびりついていた。そして受けた密詔に押された始皇帝の玉璽(ぎょくじ)が、彼の心に重くのしかかっていた。あの冷酷無比の始皇帝が、自分の案を決裁したのである。失敗したら、どのような罰が待っているか。このとき郡守は、最悪に最悪の場合を次々に連想していた。
(この郡守からの更迭は、もうまちがいない。せめて、せめてもう少しこの郡でいい思いをしてから、案を出すべきだった、、、賢明な私としたことが、早まった!、、、県に降格して、南方の未開拓の前線送りだろうか?それともいきなり武官に転任させられて、匈奴と戦わされるのだろうか?いや、これまでの事例では、任務に失敗した高位の官吏将軍たちの中には、爵位と全財産を没収されて、ただの庶民に落とされた者もいた。いや、、、ひょっとして良民の資格も剥ぎ取られて、奴婢(ぬひ)にされるかもしれない。法はますます苛酷になるばかりだ、、、丞相府での、あの李丞相の目、、、、!)
そんなことを考えていた郡守は、必死であった。必死であったが、ここから後に何の策も思いつかなかった。とりあえず、群守は会場に怒鳴った。
「誰もここから出してはならん!県令!県吏どもに命じて、県庁を封鎖しろっ!、、、」
そのとき、舞を中止された虞美人は宴席の広間の奥に引っ込んで、退屈そうにしなだれて座りながら、混乱する会場を眺めていた。
「つまんないねえ、、、せっかくいい気持ちで舞っていたのに、、、」



