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十三 何処(いずこ)かに(1)

(カテゴリ:101兵法の章

今日の一件で、秦の役人への印象は地元の人間たちにとってますます悪くなってしまった。

逆上する郡守を何とかなだめすかしながら、県令は文官の県吏に命じて、すでに白け切った列席者たちを順次外に送り出すのに奔走していた。
だが同時に、もはや隠す必要もなくなった捜査を行なうために、県庁の内外は慌しかった。それらを一遍に行なったため、自然と宴席の会場が解散するのには、ずいぶんと時間がかかった。
劉邦は樊噲を連れて、何食わぬ顔で堂下の周勃たちと合流した。張耳の宿舎に密かに急事を告げに行っていた廬綰もまた、もう戻っていた。何をしていたかは、隣の周勃と夏候嬰の二人には言わなかった。
しかし、帰り際に、すでに今日のあらましを大方悟った周勃は、劉邦の横に行って小声で不満を言った。
「― ひどいなあ!なんで俺には知らせてくれなかったんですか?」
劉邦は、横も向かずにすぐ答えた。
「わかってるだろ― お前は、口が軽い。」
まさしく、舎弟の性質を知っている劉邦の、わかり切った答えであった。しかし周勃は仲間外れにされて不満だったから、後からでも企みに割り込みたいと思って、もう一つ急いで質問をした。
「なんで、事前に張氏に知らせなかったんですか?」
劉邦は言った。
「― せっかくの虞美人の舞を見ずに、彭城から帰れるかよ。」
そう言って、にやりとしながら、片手で鼻毛を抜いた。
もう一人の夏候嬰も、周勃と同じく大体は勘づいていたが、彼はいま県吏という立場にある以上は、劉邦に対して何も言うことができなかった。ただ、今日のぶざまな騒動を総括して、心でこう思った。
(― こんなことをしているようでは、秦もだめだな、、、地元のことが何もわかっていない。)
いっぽう今日の隠れた当事者であった泗水の亭長は、茶番劇の場を後にしながら、悠然と思っていた。
(帰ったら、両名の捜査の詔が県庁から降りてくるだろう。ま、どうせ初めから公開して捜査していたとしても、無駄だったろうけどな、、、裏の世界の人間が、そんなに簡単につかまるかよ!)

劉邦の去った宴席の会場では、各城市の代表者や付き人たちはもうかなり少なくなっていた。広間に残っていた大多数は、後始末をする下級の県吏たちと、置いてけぼりを食らった芸人たちであった。来賓の者たちはしばらく経って順次解放されたが、座興に出た芸人たちは後回しであった。彼らは、この予想外の事態に至って、完全に役所の眼中から抜け落ちていたのであった。
広間の脇から女の声が聞こえて、県吏を難じていた。
「早く出してよ、、、こんな醜い場の空気、一瞬も嗅ぎたくないんだよ。」
虞美人であった。今日の座興の舞の話が出たとき、彼女はどういうわけか受ける気になった。自分が霊感を感じたときには、どんなみすぼらしい桟敷でも芸を披露する。逆に虫の居所が悪い時には、たとえ皇帝の招聘があろうとも断るつもりであるのが彼女の生き方であった。その彼女が一旦芸を披露することを承諾したからには、今日は自分としても完璧な一日でなければならなかった。それが、この有様である。彼女は、このような結末で今日の日を終えたことが、愚かしくてならなかった。だから、一刻も早く離れたかった。
虞美人に難をかけられていた県吏が、返した。
「娼妓ふぜいが、何を抜かすか。だめだ!」
取り付く島も、なかった。まずは、役人の言うことであった。
その会場に、まだ韓信は残っていた。南昌の亭長とはいつの間にか行動が別となってしまっていた。彼は他の随従の者たち(彼自身が連れて来た者たちが、他にもいた)を連れて、さっさと出て行ったのかもしれない。
急転直下した一日であった。
自称英雄の劉邦、その兄貴筋の張耳、彼の失踪、宴席の正体、そして― 虞美人の舞。
韓信は所在なく立ち尽くしながら、広間の脇でいまだに県吏とやり取りをしている虞美人に、いつのまにか目を向けていたのであった。彼は正直言って、野暮な性質である。男女の関わり合いについて想像力を巡らすことに、これまでほとんど力を費やしてもこなかった。だがしかし、目の前の異性が見せた奇跡の世界は、確かに彼の心を揺さぶり動かしていた。つまり、この美女を女性としてではなくて、芸術作品として眺めていたのであった。この日のための鮮やかな錦繍をまとったその姿は、見飽きるということがなかった。
ところが彼女は、県吏とのやり取りをあきらめたのかどうか、ぷいと場を離れた。
そして、周りをゆっくりと見回した。自分と目が合って、彼女がにこりと笑った気がした。気のせいだろうと高をくくっていたら、彼女が歩き始めた。どうもこちらに向ってくるようだ。どこに行くつもりなのだろう?
「ちょっと協力してほしいの。手伝ってくれない?」
はて、誰に言っているのだろうか?と韓信は思った。
「え?」と言って、彼は周りを見回した。
「あなたよ。わからずやじゃなさそうだからね。県庁の裏の厩舎場にまで、私を連れて行ってくれない?」
一方的に眺めていた対象から、声を掛けられてしまった。韓信はこの唐突の不意打ちに対して、一瞬馬鹿者のようであった。ようやく状況を把握して、しかしこのいきなりの依頼に一応の拒否を返した。
「そ、それは― だめですよ。県吏が通してくれない。」
なかなか偉丈夫で質朴そうな青年なので、虞美人は彼に目を付けたのであった。そこで、もう一押しするために、さらに一歩接近して依頼した。近づいて見ると、さらに美しい。
「一里(四〇〇m)もあるわけじゃないでしょ。五十丈(一一〇m)もないじゃない。それともあなたは、役所の中のたった五十丈足らずの向こうにも行けないほど、知恵がないっていうの?情けないね!」
綺麗な顔にこのようなことを言われたので、結局韓信は引き受けてしまった。
虞美人を連れて広間から出ようとすると、県吏が誰何した。
「止まれ!なぜ、出ようとするか!」
韓信は、咄嗟に偽名を使って出まかせを言った。
「― それがしは、郡吏の魏徴である。この女を別室で訊問する必要があるゆえ、これから連行する。」
ここにいるのは県吏であって、今日の座に郡守たちと同伴して来た郡吏たちとは、顔見知りがない。だから、このように言われると、混乱しているこの現況では信じざるをえなかった。
まんまと同様の手で、途中に出会った者たちもごまかすことに成功した。
「なかなかやるじゃないの― 上出来、上出来!」
後ろで無邪気に虞美人は言っていた。彼女の化粧の匂いが、心地よかった。かなわないな、、、と韓信は思った。
そうして、首尾よく裏の厩舎場に出た。
そこには、県公用の馬車が何台かあって、その一台に厩司御(御者)が待機していた。ところが虞美人は、悪びれることもなしに、いきなりそれに乗り込んだのであった。
「厩司御さん、飛ばして!早くね!」
「わかったよ、美人!」
この県庁の厩司御は、虞美人の崇拝者であった。そのため、これまでも彼女に足を用意していたのであった― 県の公用馬車を使って。その辺は上層部が知ったならば逆鱗に触れるだろうが、不思議と上層部は知るところのない、県庁の最末端の世界であった。
虞美人は、馬車の席から振り向いて、呆れた韓信にこの上ない笑顔をして言った。
「ははは、ありがと!私の芸、途中で終わっちゃったからお金は取れない。だからこれで、木戸銭代わりだね!」
そう言い残して、無断乗車の女を乗せた馬車は駆けていった。
軽やかに男を踏み台にする女であった。その上に、決して男に悪い印象を残さない。劉邦が(惚れると、滅びる―)と直感したのは、全く正しかった。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章