(彭城に来た私が行くところは、裏の世界しかなかった―)
虞美人は、嫌な時代の回想をようやく終えた。
(表の世界では、女が少しでも自由でいられる道は、どこにもなかった。妓女の世界は、最も賤しい世界。でも最も賤しい世界だからこそ、これよりも下はない。ここまで行き着いたら、逆に自由が出てくる。秩序は逆さまになり、女が男よりも優位に立つことだってできるようになる― 結局、男は女を激しく求めている。道徳とか五倫の道とかを全部はぎ取った後の、生の人間の世界に妓女は生きているから、女を求めてやまない男と、取引ができる。この世界に入ったとき、私は少し快復した。そのうち、もっと自分を前に押し出すことを、試してみるようになった。そのとき確かな反響が、周りから出たのを感じた。それを感じてから、決めた。もう自分を作って、自分を押さえ込むことはしない― 私はこの世の女たちが追い込まれているように、死んだように生きることはしない。私は生きたい。それを許さないような世界は、それ自体が間違ってるのよ、、、)
「美人!」
馬を駆る厩司御が、声を掛けた。馬車は、すでに城市の西側半分の、工業地帯に入っていた。もうすぐ向こうに、遊郭のある地区がある。
「私は、時々思うことがあるんだ― 今の私のように、世間の中でつつましく生きている道は、実は大切なものを見失ってるんじゃないかって― その大切なものが何かは、残念ながら私は言葉にできない。でも美人、君はそれを持っている。持っているのが、わかる。だから、私は君の姿を見ているだけで、生きた心地がするんだよ!」
虞美人は、言った。
「それは、縛られて生きてるってこと?この世の掟に、がんじがらめにされて身動きも取れず、しまいには縛られていることすら忘れてしまうこと?」
「ああ― そうなのか。じゃあ美人、君は縛られていないんだね。それは、裏の世界に生きているから?君はそこに身を置いてるから、私たちのように縛られていないのか― 時に、裏の世界がうらやましくなるよ!素晴らしいのかもしれないって、思うときがあるよ、、、!」
だが、この厩司御の言葉を聞いた彼女の声は、一変した。
「― うらやましい?」
そして、責めるように男の言葉を繰り返した。
「― 素晴らしい、だって?」
それから、厳しい声に変わって、男を罵った。
「笨蛋(ばか)!何てこと言うの!何にもわかってないくせに!」
いくら重苦しい秩序の裂け目にあるとはいえ、裏の世界が素晴らしいわけがない。
結局は日陰者の世界である。むき出しの暴力が幅を効かせる世界であり、落伍したらどこにも行き場のない恐ろしい世界である。
虞美人じしんは今勝者として自由であることができているが、多くの女たちは、裏の世界でひどい目に会っている。その悲惨さは、表の世界の陰鬱な婦徳の世界すらましに思われるようなものであった。勝者でありかつ勝者であらんとしている虞美人が底辺の女たちに情けをかけるのは、偽善というものだ。しかしながら、彼女は裏の世界そのものに対しては、吐き捨てたくなるような嫌悪感をずっと持ち続けていた。感受性の強い彼女の心に、それは耐えられないほど醜い世界であった。
(私は、表の世界も裏の世界も、とことんまで嫌い。こんな世界しか作り出せない、人間たちが嫌い。― これはしようがないことなの? もっと美しい世界はないの?)
厩司御に罵りの言葉をかけた後、虞美人はしばし沈黙した。男は、女の急な怒りに狼狽したが、その直後の沈黙には寒気を覚えた。
やがて、女は静かに、『離騒』の句を吟じ始めた。
「忳鬱邑余佗傺兮、吾獨窮困乎此時也、
悲しや!私は憂いに沈み、立ちつくし、一人この時代に苦しむ。「寧溘死以流亡兮、余不忍爲此態也、
いっそ今死に、五体が消え去ったとしても、私はこの世俗のような生き方をするに忍びない。「鷙鳥之不群兮、自前世而固然、、、
猛禽が群れることないのは、昔からそうだったではないか、、、?
(―この世界ぜんぶを底からひっくり返すような、強い力を見てみたい。どこかにあるはず。どこかにいるはず。私は決して、死ぬまであきらめないよ、、、)
そうして、詩の別の一節を口に出した。厩司御は、彼女が歌う声のこの世ならぬ響きを後ろに聴いて、戦慄を覚えた。そのときの彼女の目は、どきりとする程に澄み渡っていた。この世界の向こうを見通そうという目であった。
「曰遠逝而無狐疑兮、孰求美而釋女、
遠くまで行け。疑うでない。美を求める者が、なんでお前を捨てようか?「何所獨無芳草兮、爾何懷乎故宇、
かんばしい草がない所がありえようか、お前は故郷の家などに未練を持つべきでない。「世幽昧以昡曜兮、孰云察余之善惡、、、
世は暗黒ゆえに、日の光に目がくらむのだ。これでは、誰も善悪など分かるはずもない、、、
馬車が、突然停車して、にわかに辻を曲がって停車した。厩司御は、虞美人を振り返って言った。
「いけない、、、向こうで兵が道を封鎖している。ここから先の通行者を検問しているようだ。」
「この馬車で行くと、まずい?」
厩司御は、苦笑いしながら答えた。
「― まずい。いつものようには、ごまかせない。」
「突っ切ったら?」
「怖いことを!そうしたら―」
「そうしたら?」
「私も、その後は江湖の世界に生きるしか、ありません。」
「飛び出してみなよ、いっそ―」
虞美人は、少し冷ややかに、しかしかなり真剣に言った。
だが厩司御は、虞美人の言葉を聞いて、しばし考えた後に、かぶりを振った。
「― どうやら、私はあなたに付いていく資格がある男ではないようです、、、申し訳ない。」
虞美人は、道を踏み外せない男に怒るような女ではなかった。むしろ、彼もまたこの世の秩序の世界に生きていることに、悲しさを感じた。そしてそれ以上に追求するのをやめた。
「わかったよ、、、ありがとう。ここまででいいよ。ちょうど、遊郭の前だし。」



