城市の西郭前にある、遊郭街である。その向こうに城の酉門(いもん。西門)がある。虞美人の邸宅には、遊郭街を抜けて酉門前を北に曲がらなくてはならない。だがその前で、郡兵とおぼしき一団が見張りをしていた、厩司御が進めないのは、無理もない。
虞美人は、厩司御に言った。
「もう少し辻の奥まで、行ける?その方が近いよ。」
厩司御は言った。
「ほんの少し行けば、運河になる。そこから向こうは、馬車はもう進めない。」
彭城の城市の中には、外から引いた運河が通っていた。虞美人がそれでいいと言ったので、馬車は少し進んで、運河の側まで寄せることにした。ここに架けられている橋は小さくて、馬車が通れない。
突き当たった運河に沿った道を奥に進んだ果てに、遊郭の門があった。遊郭の周りには、運河の水を引いた堀が巡らされていた。堀の一角にだけ門があって、遊郭の中にはそこからしか入ることができないようになっていた。
運河沿いの遊郭の門に続く通路の脇には、柳の木が列をなして植えられていた。今は春の芽吹く季節を過ぎて、爽やかな空気にますます青い緑が、ゆらりゆらりとわずかに揺れていた。今は慌しい城中であったが、この水辺は静かだった。
だがその水面の上で静かに揺れる柳の木の合い間に、人影が見えた。
人影は、すぐに男性と知れた。とても若い男性だ。彼は何やら思案する仕草を見せたりして、遊郭の門に続く並木の道を、行ったり来たりしていた。時折、決意したかのようにかすかに「うん!」と咽を鳴らす、、、だが、しばらく立ち止まった後、今度はわずかに首を横に振っては、また小路を行ったり来たりするのだ。門は、もっと向こうにある。もっと門に近づくと、あの客引きたちに捕えられて逃げられなくなるだろう。だから、この辺りでうろうろしている。たぶん、いやきっとそうに違いない。
一見して、少年の若さであることがわかった。
だが、遠目から見ても体格はすばらしく良い。背丈はおそらく八尺を越えている。このときの彼は、絝褶(こしゅう)という服装をしていた。短衣に筒のズボンであり、騎馬の際の服装である。農民や商人の子弟は、決してこのような服装をしない。青年の年になる直前の年頃の少年が、こんな場所で所在なさそうにきょろきょろうろうろしている― それが何を意味しているかは、その道の虞美人でなくとも、ちょっと経験を摘んだ大人ならば分かりやすいほどに分かるものであった。
「どこかの貴人の坊ちゃんかな?― 初々しいな。」
馬を歩かせる厩司御は、低くつぶやいた。それでなるたけ彼の「思索」の邪魔をしないように、少年のいる地点からやや離れて、馬車を止めた。
しかし、止めたところで馬車の馬が、一声いなないた。その声を聞いて、少年は「わっ!」と言って振り返った。そして、泡を食って、目の前にある運河の小橋を渡って逃げようとした。ところが、その途中で思い出したように立ち止まった。そして、恥ずかしそうにこそこそと数歩戻ってきた。乗って来た馬を木につなげているのであった。これに乗って帰らなければいけない。
虞美人は、分かりやすすぎるその仕草を見て、何だかにやけてきた。遠目から見ると、いかにも朴訥な若い武人であった。突然いたずら心が湧いた。
彼女は、にわかに馬車を降りて、慌しく馬の綱を木から解(ほど)こうとしている彼のところに、走っていった。
「ねえ!お兄さん、何してるのー?」
女に声を掛けられた男は、飛び上がるほど驚いた。
女は、そばに駆けていった。近寄ると、まさしく十代後半の少年の雰囲気が、彼から漂っていた。
「ずいぶんいい馬に乗ってるんだね!あなたの持ち馬?」
虞美人は、今はわざと軽い女を演じてみた。少年は、大いに戸惑いながら、何とか答えた。
「あっ、、、いや、その、、、そうです。私のものです。」
少年は、彼女の方を向いた。
彼女は、彼の顔を見た。驚いて目を丸くしているが、その目が尋常でなかった。ほとんど灰色の瞳をしている。そのため、瞳の中に瞳孔がはっきり認識できて、まるで瞳が二重に重なっているような目であった。とても大きな体なのに、肌は女性のように柔らかそうであった。鼻筋が通って唇は薄く、全体として顔つきは女性的であった。しかし背は高くて体格は見事であり、体全体を通して見れば、この中国ではまず見かけることのないある種の美の姿であった。それは、いまだこの時代の彼らは知ることのない、西方のギリシャ人たちが追い求めた男性美の典型であったと言えよう。
その不思議な美しさを見た虞美人は、馬の代わりに男を誉めた。
「― 綺麗だね、、、あなた。」
少年は、女にじいっと見つめられてしまった。少年は、こんなに近くから女性に直視されたのは、始めてであった。彼には母親も姉妹もおらず、小さい頃から周囲には男性の親族ばかりだったのである。
「これまで綺麗だって、言われなかった?」
「い、、いや。ないです。この目の色が変だって言われたことは、ありますが―」
「― ひょっとして、異郷の人なの?」
「違いますよ― いいえ、たぶん、違うと思います。先祖まで全部調べたことが、ありませんので、、、とにかく、私は生粋の楚の人間です。」
最初不意打ちを食らって驚いた彼であったが、やや落ち着いた後の彼女への応対は、たいへん柔らかで礼儀正しい。十分に躾(しつけ)が為されている証拠だ。育ちは良いに違いない。
虞美人は、最初の質問に戻った。
「― で、何してるの?」
少年の前に、素晴らしい美人がいた。きらびやかで少し不思議な錦繍をまとい、白玉の笄を挿している。その髪は、柳の木からこぼれる午後の陽射しをまだらに受けて、ふくよかに輝いていた。舞に使った秋蘭の造花はもうどこかにいってしまっていたが、その残り香はいまだに彼女から匂っていた。少年は、もう言葉を出すのがやっとの思いで、女に答えた。
「― 散歩です。」
「城内を、馬で?」
「私は、馬でこの彭城に来たのです。実は今日急遽帰る予定でして、それでこのような服装で馬に乗っていたのですが、途中で―」
「途中で?」
「― 並木が美しかったので、、、」
それを聞いて、虞美人は吹き出して、きゃらきゃらと笑い出した。少年は真っ赤になって、自分の主張を証明しようとした。
「本当ですっ!こんな見事な柳の木の道は、珍しい。それが気に止まったんです!私とて武人です、これ以上の無礼は許しませんよ!」
少年の言ったことは、本当であった。
始皇帝は首都咸陽と地方を結ぶ馳道(ちどう)という公道網を建設し、そこには三丈ごとに青松を植えて並木としたと伝えられている。おそらくこの発想は、他のいくつかの始皇帝の事業と並んで、西洋の並木道の考えが伝聞されたものではないだろうか。後世に唐の長安城の大路が柳と楊(よう。ポプラの仲間の木)によって美しく飾られたように並木の発想は東洋にも普及していくが、この秦代においては、並木はまだ斬新なものであった。新しもの好きの彭城人が、いちはやく伝聞して導入していたのかもしれない。
しかし、そのような言葉が本当かどうかなどは虞美人にとってはどうでもよく、彼女はもう少しこの可愛い男の子と掛け合ってみたい気になった。そこで、ちょっと試してみた。
「武人さん― この服の腰には、何の花が挿されていたでしょう?答えられる?」
そういって、彼女は男の子の目の前で、ふわりと一回転してみせた。再び、香の残り香が舞った。彼の鼻腔に、その香りが届けられた。
彼はしばし考えて、
「― 秋蘭。」
と、答えた。



