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四 治水問答(2)

(カテゴリ:101兵法の章

「自分をそぎ落とした?天下と一体?― どういう意味です?わからないなあ。」

韓信の問いに、韓簫子は答えた。
「わからないのは、致し方ない。私はね、若い頃にずっと自分の全てを賭けて、一つのことを成そうとしていた。そのために、自分の青春をすべて抛(なげう)った。十二年もの間、私は寝ても覚めてもそのことだけに生きたんです。」
「それは、成し遂げられたんですか?」
「いいや。もう少しのところまで追い付いたが、わずかに外してしまった。本当にわずかの差だった。外れたのは― もはや天の意思とでもいうものだった。それで、私の目論見は、終わりました。」
「そう、、、ですか。」
韓信は、目の前の男の意外な一面に、少し驚いた。君子は続けた。
「でもそれで、私は失望したと思いますか?― なんの!全てが終わった後の私の心境は、不思議なものでした。私の心は、その後嘘のように澄み切ってしまいました。」
「ははあ。」
「よく言うでしょう。弓の達人は、弓矢が正しい礼法に従って正しい姿勢で撃たれたかどうかだけが心に案ずることであって、正しく射られたならば、競争相手に勝った負けたなどはどうでもよいのだ、ということを。それが、私の心境となったのです。青春を抛(なげう)って求めた目的が終わった以降、私はこの五体を自らの弓矢とすることを学びました。天から与えられたこのちっぽけな体を、与えられたその本性に基づいて、逆らうことなく、誤ることなく用いる。もはや、私の五体は一つの道具となっています。それを心得てからは、私は天下のことが素晴らしく見通せるようになりました。そして自らの進退にも、迷いがなくなったのです。私は、以前の自分ならば決して近づくことも思いもよらなかったような人々の輪の中に入り込んで交わることもできるようになったのです。自らの本性を知れば、自らができることとできないことが見通せるようになります。その結果、多くのことができるようになるのですよ。今の私は、自在に進退できます。」
(不思議な人だな。神仙みたいなことを言う―)
韓信は、思った。
(だが、本当にそんなことができるのか?自分の五体を道具にするなんて―)
韓信は、まだうさん臭さを感じていた。
目の前の飄然としてにこやかな美男子が、かつて自分の青春を賭けたほどの大きなことをやってきたというのは、どうも印象と違いすぎる。一体それが何だったのかはさっぱりわからないが、この男は相当に複雑な背景のある人間であるようだ。はったりを人に見せるような気配など、この人物からはかけらも感じ取られなかった。
韓簫子は、さらに続けた。
「自らの五体を道具にするためには、五体の欲求を適正に調節しなければならない。心と体は一体です。五体の欲求を不自然な状態に置くと、心も乱れ、結果心身は能力を最大限に発揮できなくなります。」
「そういうものですか。」
「そうです。人間が天から与えられた生命には、けものと同様の欲求が植えつけられています。人間の偉大なところは、そのようなけもの同様の欲求を持ちながらも、それを土台に組み敷いてその上により高い活動を打ち立てることができるところにあります。しかし、欲求を軽蔑して無視するならば、あるものをないと考えるのと一緒で、かえって欲求に足をすくわれることになるのです。だから、一部の道家たちが勧めるように、いたずらに欲求を軽蔑して断つような修行は、かえって有害です。五体の本性が求める、最小限の欲求に留めることが、最適な道です。このことがわかりますか?」
「はあ、そんなものですか。」
言っていることはもっともだが、話の要点がまだ韓信にはつかめなかった。
韓簫子は続けた。
「だから、私は自分の五体の本性を見通して、それに従って欲求を満たします。私は元来が虚弱な体質で、過食は私を損ねます。それゆえ、必要以上の食事は摂りません。酒は気を飲むようなものだから、勧められればいくらでも飲めますが、しかし気を吐き出す術を心得ているので、酔うことはありません。このように食欲を本性に従って満たし、睡眠欲を本性に逆らわず満たせば、後は性欲さえ調節できれば、五体を支配することができます。」
「― 最後の欲も、満たしているのですか?そのようにはとても見えませんが?」
韓簫子は少し笑って、しかし事も無げに答えた。
「ふ、ふ。私の五体は、どうやら人並みより少しばかり性欲が強いようなのです。それで、その相手を― この隣の麗花で最小限満たしています。」
「えっ!」
韓信は、それを聞いて飛び上がった。そして思わず反射的に、横の麗花を見てしまった。この二人、関係がある?
しかし韓簫子は相変わらず平静で、横の麗花もまるで当たり前のことを言われた風に、少しも変わらなかった。むしろ韓信が、赤くなって麗花から目をそらした。こんなことを語って平然としているこの主従は、いったい何者なんだ?
麗花が、そこで口を挟んだ。
「公子は、五体を道具にして天下に浮かべております。それは、大きな使命のなせる業なのです。私は、そのお手伝いをしているのです。やましいことではありませんよ。」
「そ、、、そうなのですか、、、」
韓信は、このように答えるしかなかった。彼女は十代の女児とはいえ、その裏はこの淮水並みの深淵があるのかもしれない。
(とにかく、この二人はただの商人とその従者じゃない―)
韓信は思った。それで、もう一度、同じ問いを韓簫子に問うた。
「韓簫子、あなたはどうやら大変な人物でいらっしゃるようだ。しかしどうして、無位無官の素浪人の私などに興味を持たれたのですか?今の私は、何ほどの人間でもないのに?」
韓簫子は、再び同じ答えで答えた。
「だから申しているでしょう。私は、知者と交遊を深めたく思い、かつその必要があるのですよ。あなたは、やはり私の見立てどおり、市井の小人にはない気概と知性を持っている。変わりようによっては、大きくなる可能性を秘めている。できれば一歩を踏み出しなさい。自らの天から与えられた本性を拓くのです。それこそが、天命に生きるというものなのですよ。」
「天命に生きる、ですか、、、」
「そうです。自分を活かす道は、以外なところから開けるものなのですよ。自らの力を信じて、活かしなさい、、、ああ、もう日がすっかり傾きましたね。そろそろ戻らなければならない。」

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章