少年と虞美人とが乗った黒毛の駿馬は、辻を曲がって再び城の酉門を見通す通りに出た。向こうには兵の集団がいて、通りを封鎖していた。その向こうに、城門がある。
「たくさんいるよ。どうするつもり?」
虞美人が、聞いた。
少年は、冷静な口調で返した。
「― こうします。」
そう言って、馬を走らせた。通りの向こう、遊郭街の辻から突進してくる馬に、兵たちが一時に注目した。そのとき、少年はありったけの大声で、叫んだ。
「かいもーん!急使であるっ!開門っ―――!」
どこからこのような声が出てくるのかと思われたような大喝が、周辺全体にまで響き渡った。兵たちは、その声に全員がひきつった。声の主を乗せた馬は、速度をゆるめずにますますこちらに突進してくる。
「急使であるっ!開門っ―――!」
駄目押しの一声が、もう一度振り落とされた。後で聞いた話によれば、この声は彭城の城市の反対側の端にまで聞こえたという噂である。この声を直接浴びせ掛けられた城門前の兵たちは、浮き足立った。やがて馬は、検問の兵たちの直前でにわかに歩をゆるめ、かつかつと歩き始めた。馬上には、美女を乗せた巨体の異相の少年がいた。少年は、検問の兵の方など見向きもせずに、じっと前を見据えていた。
兵たちは、何か言おうとしたが、誰も声が出ない。馬上の少年が、城門脇の兵たちを一睨(にら)みした。二重の瞳が、銀色の太陽のように光った。そのとき、兵たちは反射的に、わずかに城門を開けた。
「それで、よし!」
少年は、馬の腹を思い切り蹴り上げ、片手で手綱をぐいっと引いた。馬は、二人を乗せて跳び上がった。検問の兵たちを跳び越え、開いた城門の隙間に飛び込んだ。着地地点は、もう城門の外だった。
「きゃはははは!すごい、すごいよ!」
虞美人は、もう大はしゃぎだった。馬は、そのまま全速力で城外に走り去っていった。
城外では、遅い夕暮れが、次第に深まっていた。地平線に、夕陽が間もなく沈もうとする。日の沈む方角を見渡しても、遮る山の陰すら見えない。ただ一面の平原である。何という風景であろうか。これが、中国なのだ。東海の島に住む大和の民は、海原の向こうに常世の国を夢見る。彼らは、南海の向こうの補陀落浄土に憧れて、死出の渡海をあえてした。しかしこの中国大陸に住む民にとって、悠久を思わせるものはこの大地なのである。日の沈む向こうは、もう人の目で見ることができない。ところが、驚くべきことに、その見えない向こうに行っても、変わらず人が住んでいるというではないか。いったいどこまで続くのだろう、この天下は。いったいいつになったら尽きるのだろう。人間の営みは。この大地に住む人々は、人間世界の途方もない広さに、神秘を見出す。天下はまことに茫漠として、誰にも捉えようがない。― しかし、天下とは人間の集団にすぎないのである。いったいこの広大な世界を、治めることなど誰ができるだろうか?― しかし、今現実に始皇帝が治めているのである。では始皇帝は、神なのか?そのように思うときがある。だがちょっと待てよ。奴は人間ではないか。父も母もいる、ただの人ではないか。つまり、人間のこの私でも、この天下を治めることができるということか。しかし、それはちょっと嘘くさい。この無限に続くかのような大地を私が治めるなど、実感からいってどうも信じられない。そこまで考えると、もはやわからなくなってくる。できそうだけど、できない。できそうにないのに、できている。― もう、今日は考えるのはよそう。ただこの大平原の夕陽に、身を任せようではないか、、、
二人を乗せた馬は、泗水に沿って駆けていた。そろそろ麦の収穫の季節である。この彭城の辺りでは、米作が中心の淮水以南とは違って、全体的に麦や黍(きび)の耕作が優勢である。同じ旧楚の領内とはいっても、北と南では少しく農村の風景が違う。今彼らが馬を走らせている辺りに点在する大小の邑(ゆう)では、麦の穂が夕陽に照らされて深い黄金色に輝いていた。豊かな土地であった。馬上で、虞美人はうきうきしながら、少年に話し掛けた。「速い!速い!こんなに気持ちのいい乗り物に乗ったのは、初めてよ!」
少年は言った。
「もう日が暮れる、、、次の城市には、まだ遠い。どうしようか?彭城には、戻れないし、、、」
「いいじゃない、天気もいいし、夜を川辺で過ごそうよ。近くの邑で、何か食べ物を分けてもらえばいいし―」
「わかりました、そうしましょう。」
「そういや名前、聞いてなかったね。なんていうの?」
「姓は項、名は籍、です。字を羽と言います。なので、皆からは項羽と呼ばれています。」
「私は― 虞美人だよ。」
「虞美人?」
自分で「美人」という女になどこの少年― 以降は、彼の通り名である項羽と言うことにする― は、初めて会った。
「昔からの呼び名だからね、自分でも受け入れてるのよ。『離騒』で詩人が追い求めるのも、美人でしょ?私は、追い求められる人になりたいのよ。」
「追い求められる、人ですか―」
そのとき、快調に速駆けていた項羽の馬が、突然脚を乱した。走っていたのは地方の街道であったが、前方に障害となる石があったようだ。馬はいきなり、右方に避けるように進んだ。片手で手綱を操っていた項羽は、危うく振り落とされそうになった。しかし、持ち前の反射神経を用いて、事なきをえた。
抱えていた項羽が一瞬鋭く揺れたのに応じて、抱えられていた虞美人も左右にゆさり!と揺さぶられた。そのとき、結わえてあった髪に挿していた白玉の笄(かんざし)が、跳ね飛んだ。実は今日は初め二本挿してあったのだが、一本は今日のどたばたで何処(どこ)かにいってしまっていたのだ。その残りの一本が、今跳び散った。同時に、結わえていた髪が衝撃で振りほどかれた。虞美人が、揺さぶられた顔を反射的に戻そうとしたとき、黒い髪が舞った。髪は項羽の腕を巻いて、馬の走る風になびかれて後方に流れた。
「あっ、、、!」
項羽は、一瞬叫んだ。
「あっ、、、しまった、、、」
虞美人は小さく叫んだ。
しかし、その後すぐに、投げるように言った。
「、、、まあ、いいさ。」
項羽は、跳んだ笄のために馬を止めようと思ったが、虞美人の「まあ、いいさ」という言葉があまりに自然だったので、そのまま走ることにした。もはや夕暮れは暗く、今から探したってたぶん見つからないだろう。明日探せばいい。
だが、この瞬間の虞美人の流れる髪の姿は、彼の目に生涯目に焼きついて、離れることがなかった。



