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十五 北辰星(2)

(カテゴリ:101兵法の章

今夜は、よく晴れている。この初夏の季節は、変わりやすい。暖かい雨と爽やかな晴天とが、交互にやってくる時期だ。そしてまもなく、梅雨(ばいう)の季節となる。空は陰り、視界の全てを煙らせる、しのつく雨の季節がやってくるだろう。

馬をとある邑に寄せた項羽は、村人に金を出していささかの食糧を請うた。村人は、もう日も暮れているし中で泊まるべきだと彼に強く薦めた。彼は、後ろで水分と糧秣を補給させている馬の側にいる、虞美人を見た。彼女は、項羽の側まで前に進んで、まるで劇の台詞のように言った。
「風が、こんなに薫っているじゃないの― 空には、こんなに星が出ているじゃないの―! しばらくはまだ、外にいようよ。」
村人は、それはよくない、絶対やめたほうがいい、と主張した。世間知らずにもほどがある、とも言った。夜は、城壁の中におとなしくいるものなんだ。若いから分からないんだろう、どんなに外が恐ろしいか。こうして集まっていないと、盗賊に襲われるんだよ、、、
村人の言葉を聞いて、虞美人は言った。
「盗賊か― 怖いね。項羽、あなた負けそう?」
項羽は答えた。
「私は、誰にも負けたことがありません。」

邑の外では、夜が始まっていた。日が落ちた直後の空は紫色の残光を残し、ゆっくりと全てが暗くなっていく。やがて、星々が一斉に輝き始める。見渡す限りの四面に、地平線がある。その地平線に、天球が被さっている。こうして遮るものが何もない天空を見上げると、確かに空は球体であるという感覚が起こる。ふしぎなものだ。その天球に、今や億千の星がまたたいている。数えてみようという気が起こるが、とても数え切れない。
川のそばの喬木の一本に、馬を繋いだ。川面からそよぐ風は、土の匂いをたっぷりと含んでいる。そこに遠くからの麦の香りが混じって、香ばしく薫る。その風を受ける川岸に、二人は進んだ。
大胆な二人である。この時代、城市の外で夜を過ごすということが、どれだけ危険なことであったか。村人が言ったように、城壁の外は、夜になるとまるごと盗賊の世界である。ここから上流に行った鉅野(きょや)という沼沢地のあたりには、彭越という背筋も凍るような恐ろしい盗賊の頭がいる。冷酷にして卑劣、狡猾にして好色な、悪鬼のような男である。奴がこの近くにいたら、この虞美人など絶好のお宝として己のものにしていたであろう。ただし、彼女の横にいる項羽の強さは、盗賊ごときが百人束になっても敵うものではなかったのであるが。
「ここは、いい所です―」
項羽は、二人の下に流れる川の音を聞きながら、言った。
「そうかな?」
虞美人は、返した。
「いい所です。私は、小さい頃からこの辺りに住んでいます。いろいろ嫌なこともあったけれど、それでもやっぱりこの土地は、いい所です。」
「この風と空は、とてもいいわ― でも、人間は嫌い。」
そう言って、腰を降ろした。項羽はどう彼女に答えたらよいかわからなかったが、自分もまた彼女の斜め後ろに腰を下した。

項羽は、空を見上げた。天球の無数の星々があった。それから、少し物思いの後に北の方角を向いて、北辰(ほくしん)を探した。北辰とは、北極星のことである。
かつて孔子は、このように言った。

政(まつりごと)を為すに徳をもってすれば、譬(たと)えば北辰のその所に居て、衆星(もろほし)のこれを共(めぐ)るがごとし。

天球の星々が、北辰を中心として衆星がその周りを回る。それを、あるべき人間界の秩序のあり方になぞらえた。この数え切れないほどの星々にも、自ずから秩序がある。孔子の生きた時代は、混沌の渦中にある時代であった。その時代に生きて、自らが理想とする社会の類比を見出すために、彼は夜の天球を見上げたのであった。

しかし北天の半ばの高さに北辰の星を見つけた項羽は、この最近自分の心の中にふつふつと募らせていた思いを、口に出した。
「私は、あの北辰に、憧れます。」
虞美人は彼の方を向いて、聞いた。
「北辰?」
それから、彼は思っていたことを、堰を切ったように語り出した。
「そうです。少し私自身のこれまでについて言うのを、許してください。小さい頃から私の一族はいつも、逃げたり隠れたりしてばかりしていました。一族の大人たちは、いつも暗い顔をしていました。ときどき一族の者たちが集まることがあったのですが、そういうときには大人の誰かが、泣き始めました。そうしたらその誰かが泣いたのに釣られて、他の大人たちも次々に泣き始めました。まだ小さい私はどうして大人たちは泣くんだろうか、ひょっとして自分が悪いことをしたからなんじゃないかと思って、おろおろしながらどうしたらいいか分からずに、自分まで悲しくなって泣いていました。そういったときには、私の叔父の一人が、皆を叱ったものです。『泣いたって何にもならないだろうが、これからのことを考えろ』って。それは梁という私の叔父で、今日も今朝まで彼といっしょにいたのですが、私は父を亡くしてからずっと彼に連れられていました。それで、私は始終彼のそばにいたので、見たことがありました。彼もまた、至る所で頭を下げたり人の家に隠れて厄介になったりしながら、一人になると床を叩きつけながら悔しがっていました。私は叔父のことを尊敬していましたので、叔父に駆け寄って『どうすればいいの、僕は何をすればいいか教えて!』と、言ったものでした。叔父は、私に対して、『負けたのが悪いんだ、、、負けたからなのだ。今に見ておれ、今に見ておれ』と言っていました。私はそれ以降、彼や一族と心を共にして生きてきました。でも―」
「でも?」
「でも、最近私はそういった復讐に生きるみたいな生き方を続けるのが、自分で悲しくなってきたのです。私は、空が好きです。星と月が好きです。風もまた、大好きです。私は、自由に生きたい。」
そこまで言った後、少し彼は息を継いだ。それから、さきほどまでの調子よりも声を低めて、続けた。
「― いや、私は今、自由に生きられる立場にない。私には、一族があります。その一族は、自由に生きることが許されていません。しょせんは、あの北辰の周りを回らされているのです。世界とは、そのようなものです。結局、どこにいっても、この星々のように秩序があるのです。一見ばらばらに見えても、それに従わされているのです―」
「どこに、いっても?― そんな悲しいこと、言わないで!」
虞美人は、叫んだ。しかし項羽はにこりとして、それから壮大な言葉を続けた。
「だから、あの北辰に憧れるのです。変なことを言うと思われるかもしれないけれど、私は、私から秩序を作っていきたい。私から、世界を作っていきたい。いつか復讐などが終わったら、それを自分で始めたくてしようがないのです。私は、最近何が正義なのか何が善い事なのか、ますます頭の中で分からなくなってきました。これまで教えられたことが正しいことなのかが、だんだん分からなくなってきているのです。ただ、私の頭の中も、この私の五体も、今は力に満ち満ちているのです。何かを自分から始めてみたい。何かを始めなければ、やっていられない― そう思ってしまうのです。それは、あの北辰のように世界の中心に立つことを目指すべきなのかもしれない― そんなことを、時々考えたりするんです。途方もないことですが、でも悪くないかもしれないと、思ったりもするんです、、、とりとめのないことを言って、申し分けありません。叔父の前では決して言わないようなことまで、べらべらと口に出してしまいました、、、」

申しわけないと言っているが、表情は言いたいことを言ったために、爽やかなものであった。素直な男の子だった。その上、自分でも分かっているように、生きる力に満ち満ちている。虞美人は、好感を覚えた。振り向いて、そして彼の側に近寄った。
「今日はありがとう。こんなにいい日になったのは、あなたのおかげだよ。」
遅い月が、昇り始めていた。その光に、彼女の面影が照らされていた。再び髪を軽く結わえている。項羽は、先ほどの流れた髪の姿を思い出して、それが目の前の月の光を浴びた姿と二重写しになった。幻想的なまでの、女性の変容であった。
「― あっ、、、、、!」
「― 黙って、、、」
虞美人は、項羽の側ににじり寄り、座っている項羽の絝(こ。ズボン)に、手を当てた。
「さっき、馬に乗ってたとき、、、ここはすっかり―」
腕の中に抱かれてたときずっと、彼女は背中で気付いていたのであった。虞美人は、さらに顔を深く埋めた。髪に、月の光が玉のように濡れ落ちていた。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章