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十六 叛旗の伏線(1)

(カテゴリ:101兵法の章

あの時、項羽は金縛りのようであった。虞美人はあのことをした後、しかし体までは彼に与えなかった。そのまま、寝入ってしまった。項羽は、仰向けになって鼓動を高まらせながら、横で静かに寝息を立てる彼女の方角を見ることもできず、そのままの姿勢であり続けた。そうして、朝となった。

朝になると、もう西の空には曇がかかり始めていた。やがて、雨が来るだろう。
二人は、再び馬を走らせて、彭城への道を戻っていた。
「北辰の星に、なりたい― あなたはそう言ったね?」
虞美人が、再び項羽の腕に抱かれて言った。
昨日のことは何もなかったかのように、気軽な口調であった。
(昨日のことは― 何と言うこともないことなんだろうか?)
項羽は、彼女の声を聞いて、そう思った。
彼は、彼女の顔をちらりと眺めた。
「― 答えてよ、項羽。」
彼女は、美顔をにっこりとさせていた。親密さが、表情からあふれ出ていた。
「は、、、はい。でも、聞き逃してください。ただの戯言です。」
項羽は、またもしどろもどろになって、答えた。虞美人が、返した。
「なってみなよ。あなたなら、できるかもしれないよ。あなたと私は、おんなじ魂を持っているみたい。とてもこの世界の仕組みの中で、おとなしくしてはいられない、魂を。」
「同じ魂、、、そうでしょうか?」
「そうだよ。同じ魂の子と会えて、私はうれしい。だから、私も夢を言っちゃうよ。あなたは、北辰になると言う。でももしあなたが北辰になったら、世界を変えてほしい。絶対、変えてほしい。私は、あなたが変える世界を見てみたい。私は、私と同じ魂を持った人の作る世界の中でならば、生きていけるような気がするんだ。今のあなたの魂は、決して間違っていない。そのままで、大きくなるんだよ!」
彼女に肯定されて、項羽はうれしくなった。心の底から、喜んだ。
「ああ、、、そう言われて、とても嬉しいです!あなたは最高の人だ!」
だが虞美人は、その後更に決定的な言葉を続けた。
「で、もしそうなったら、ね―」
それから、彼女は秘密を打ち明けるように、項羽に言った。
「私はあなたのものになってもいいよ。そして私は、一生あなたを止めさせない!」
それは、妓女が少し惚れた元気な男の子に対して、試しに言った軽口のたぐいであったのかもしれない。実際こう言われた項羽も、この後時が経つと彼女のこの言葉をほとんど忘れてしまっていた。しかし、やがて彼が立ち上がるとき、彼はこの時の言葉を熱く胸に思い出すこととなるのであった。。
しかしこの時は、思わぬことを女から言われてしまって、項羽はどう答えてよいのか戸惑う一個の少年であった。その少年に虞美人は、もう一度励ましの言葉を投げ掛けた。
「項羽!― いい男に、なれよ!」
この少年にとって、初めて知った女がこの虞美人であったことは、天がなさしめたことであった。見ての通り純真な彼であったから、もっと地上的な、厳しい見方を取れば退屈でつまらぬ女性にでも、易々と心奪われていたかもしれない。もしそうなっていたならば彼は普通の良将で終わっていただろう。しかし、秦が滅びることもまた、なかったであろう。

朝のうちに、彭城の城門に着いた。今日になると、城門は再びいつもの通り開放されていた。二人を乗せた馬は、昨日と同じ城門から城内に入ろうとした。
だが、城門近くには、兵が昨日と同じく駐在していて、出入りの者を見張っていた。結局昨日は賊を見つけることができず、人民の便を考えるとこれ以上城門を封鎖し続けることはできなかった。それで、兵を城門に置きつづけて警戒する態勢に切り替えていたのである。
その兵たちが、昨日門から脱出した黒色の馬がこちらに再びやって来るのを、見た。
「あ!」
「あいつは!」
「昨日の?」
慌てて止めようとしたら、もう城門を駆け抜けていた。全速力で奥の辻を曲がって、運河の方角に馬は回り込んだ。項羽は虞美人に問うた。
「この奥に屋敷があるのですね?そこまで行きましょうか?」
項羽にここまで案内させたが、後ろで城門の兵が騒ぎ立てていた声が聞こえたので、彼女は少し考えてから言った。
「うーん、、、家の周りが騒がれるのは、嫌だな、、、いっそ、遊郭の中に入って。この中では、私はどこにでも行くことができるから。」
そういうわけで、遊郭の門まで進んだ。まだ朝の時間なのに、市場で早くも商品を売りさばいた商人たちなどが、結構出入りを始めていた。項羽と虞美人は、馬に乗ったまま門をくぐった。
たちまち、周囲の客たちから声が起こった。彭城一の妓女の虞美人が、不思議な美少年に抱えられて、馬で参上したのであった。わずかの間に、門の内は人だかりとなった。その中で項羽は、虞美人を抱えてひらりと飛び降りた。
「門番、少しの間だけ門を閉めておいてくれない?うるさいのが追って来ているのよ。」
虞美人は、門番に言った。門番は承知して、一時的に門を閉めた。
美男と美女が連れでやってきて浮かれ立つ群集の中に、見たことのある背の高い男がいた。男は、虞美人を見つけて、押し分けて前の方にやってきた。彼の顔を見て、虞美人は声を上げた。
「あ!昨日の―」
「いや、会えてよかった。県庁にこれを、落として行ったでしょう?」
韓信が、ここにいたのであった。彼は、虞美人が去っていった後に、光るものが床に落ちているのを見つけた。白玉の、見事な笄(かんざし)であった。どうしようか?と思ったが、とりあえずは彼女に渡しに行こうと考えた。だが、どこにいるのかわからない。確かなことは、彼女は妓女でこの遊郭と関係がある。それで、彼は昨日この遊郭に来た。しかし、聞くと不在だという。では言付けておくしかないか、、、などと思っている頃には、客引きの手練手管に取り囲まれていた。気がついたら、あれよあれよと館の一室に案内されていたのである。それで、別に今夜泊まるところもないために、そのまま遊郭内で一夜を過ごしてしまったのであった。そうして一夜明けて朝になったが、外がにわかに騒がしい。二階から門の方を見下ろすと、馬に乗った二人連れが見えた。その一人は、確かに昨日の美女であった。あの錦繍は、見間違えようがない。そこで、急いで門前に駆けつけてきたのであった。
韓信から笄を差し出されて、虞美人は歓声を挙げた。
「あ―!届けてくれたのか。」
韓信は、答えた。
「こんなところで会えるとは、思いませんでしたよ。」
「ははは、でも見て見て、他の笄まで、吹っ飛んじゃった!でもまあ、ありがとうね。」
そういって、彼女はくるりと回った。やはり美しかった。韓信は、一瞬見とれてしまった。しかし、その横にいた少年は、少々ムッとした。韓信は、その男の子の方を見た。自分よりも更に大きな巨体に、神秘的な瞳の色をしている。何者だろう、、、?と韓信はいぶかった。
「ああ、この人はね、昨日県庁でちょっと私を助けてくれた人だよ。そのうえ、この笄を届けてくれたんだ。あっ、、、そう言えば、もう一本道端に落としたままだったね。忘れちゃってたよ。」
虞美人は、男の子に言った。男の子は目の前の男に対抗心を持って、言い返した。
「じゃあ、これから私が取りに戻って、、、」
しかし、虞美人は彼を制した。
「いいのよ。忘れ物を捜してうろつき回るなんて、あなたのすることじゃないよ。誰かに探させるさ。」
彼女に言われて項羽は、見るからに明るい顔になった。ずいぶん親密だな、、、と、男女の事情については得手でない韓信は、横で思った。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章