「もう、私は行かなければなりません。叔父に下相に戻るように言われておりますので―」
項羽は、虞美人に言った。彼女は言った。
「叔父上と今はいっしょにいるんだったね。じゃあ、しようがないね。」
だが項羽は、即座に付け加えた。
「でも、、、でも、また来ます!」
しかし項羽のこの言葉に、虞美人は頭(かぶり)を振った
「― いい男になって戻ってくるなら、いいよ。」
こうやって、一応は男の甘えを封じた彼女であった。これも、女の計算であった。しかし、項羽は素直に受け止めた。
「― 必ず、なります!、、、じゃあ、、、じゃあ、、、私は、、、これで。」
と言って、項羽は馬に飛び乗った。相変わらず、巨体に似合わぬ驚くべき身軽さであった。項羽は、もう一度振り返って彼女を見た後、馬を門に向けた。門番が、門を開けた。その向こうに、城門からたどり着いた兵がたむろしていた。兵たちは、あっと声を挙げた。項羽は、悠然と彼らの方に突進して行き、ひらりと馬を一旋させて兵を躱(かわ)し、そのまま駆けて行った。そして、あっという間に城外に消えた。
「まるで虎豹のようだな、、、」
韓信は、去っていった少年の素晴らしい動作に感心して、言った。
虞美人は、彼に向き直って、聞いた。
「ところで、あなたはここで何してたの?」
彼は、彼女の方を向かずに、ぶっきらぼうに答えた。
「― 待っていたんです!」
虞美人は、ケタケタと笑った。
だが、彼の名誉のために擁護しておくと、未遂であった。結局、何だかんだと自分に理屈を付けながら妓女といるうちに、酒だけ飲んで夜が明けてしまったのであった。虞美人は、上機嫌で彼に言った。
「ここに来た分は、全部ただにしてあげるよ。昨日の分と笄の分を合わせて、そのぐらいはしてあげなけりゃね!」
項羽は、駒の足を速めて、下相に向った。空は曇って低くなり、途中で雨が降り出した。しかし、雨などはものともせず、夕刻時にはもう長躯して下相の城市に着いていた。
「叔父上!籍、只今帰りました!」
項羽は、濡れた衣服のままで、叔父の屋敷に飛び込んだ。彼は、十歳の頃からこの屋敷に叔父の項梁と共に住んでいる。生まれた土地は少し違うところであったが、彼にとってはこの下相の屋敷が、自分の故郷のようなものであった。
だがどういうわけか、屋敷の中は空っぽであった。すでにがらんとしていた奥の部屋に、叔父が一人で座っていた。
「遅かったではないか― 何をしておった。」
美丈夫の甥とは、似ても似付かぬ貧相な男である。しかし老獪な知恵者であり、家の中の序列では下の方なのに、一族の総指揮者であった。
甥は、言った。
「― 素晴らしいものを、見てきました!」
叔父は、無表情に言った。
「彭城でか?それで、遅れたか?」
項羽は、叔父に問い質されて、少し照れ笑いをした。
「ふん、大方―」
項梁は、そう言いかけて彼を詰問しようと思ったが、途中でやめた。彼は思った。
(そうか、この子も、もう十九になったんだな― いつまでも子供扱いしてはいかん。)
これから、働いてもらわなければならない子である。重要な用件を、先に言った。
「そんなことより、この下相にはもういられない。すぐに出発するぞ。」
項羽は、驚いて叔父に問うた。
「、、、どうしてですか!」
叔父は答えた。
「ここに出入りしていた、楊氏を知っているだろう。」
「あの、楊氏ですか?」
「あれが、私を売った。この私に以前もみ消しにした前科があることを、県に密告したのだ。今日、奴を消した。もはやここにはいられない。」
「ど、、、どこに、、、」
「南に行く。行く先は、江東だ。江東には、我々を受け入れてくれる場所がある。」
突然の宣告であった。項羽は、この叔父と一味同心であった。結局は彼の行くところに付いていくより他に道はなかったのである。
その頃、彭城から逃げた張耳と陳餘の一味は、とある場所に潜んでいた。すでに魏の外黄の本拠地は、官憲によって襲撃されていた。そこにもいないことを確かめた当局は、張耳と陳餘の首に賞金を賭けて、中国全土で捜索させた。
張耳は、今後のことについて配下の者に指示を下していた。
「この俺は、これから陳餘と共に、某所に潜伏する。場所は、お前らにも明かさぬ。ただ、俺からお前たちに指示が届くようにしておく。お前らは、適宜俺の指示を待て。」
「承知いたしました!」
「息子たちは、お前たちが付いて全員潜伏させろ。各地の実力者の庇護を受けて、時期を待て。娘たちは―」
そう言って、わずかに考えた後に、指令した。
「娼館にでも放り込め。」
彼は、非情であった。自分が生き延びるためには。子供たちは手駒でしかなった。なまじ女たちを庇護などして、秘密をばらされたりする方が厄介であった。
(女は口が軽い。この場に及んでは、切り捨てるに尽きる―)
そのように思った後、横にいる幼女の方を向いた。趙からとある事情で引き取った、燕であった。張耳は、この燕を彭城に連れて行っていた。それで、この隠れ家にもそのまま連れて来ていたのであった。
「燕、お前は―」
そう言って、初老の男は、幼女を見た。まだいとけない子である。利発な子だと言っても、今養父が陥っている事情が理解できているはずがない。彼女は、目をくりくりさせながら、養父の方を見ていた。
張耳は、今度はもう少しだけ長く考えた後に、彼女に言った。
「お前は― 俺についてこい。」
このとき、彼の頭の中にはかすかな計算が、働いていた。ほとんど実現不可能な投資であったが、この小児を捨てないでおいた。張耳は、全く衰えぬ精力を体にみなぎらせて、目をぎらぎらとぎらつかせながら、心中で復讐を誓った。
(今に見ておれ、秦め。思い知らせてくれるわ、秦王め!)



