韓信もまた、ほどなくして彭城を出た。
彼は、彭城を出た後― 再び淮陰に戻っていた。
韓簫子に誘われ、黄生に示され、彭城で見聞したこと。それらは、この天下には確実に裏側があり、その裏側は今何かの方向に進みつつある、ということであった。全てのことは、自分にその方向に進め、と言っていた。自分を韓簫子のもとに送り出した父老も、腹の底ではおそらくそう思っているに違いなかった。
(韓簫子は、彼の仕事のために知者を求めているという。そして、俺を黄生に紹介した。黄生が示したのは、兵法家の道だった。兵法家。戦争の学。それが意味していることは―)
今、彼は、淮陰の郊外にある、母親と兄弟姉妹の墓に来ていた。ここは、淮陰の近くで、いちばん小高い土地である。淮陰は、平地の真っ只中にある。こういった土地にある城市を攻略する際には、わずかな高地を先に占領することが必須の条件となる。だから、いざ戦争があれば、この土地は淮陰を攻略しようとする敵軍が真っ先に目を付けるであろう。しかし、普段は水の出が悪くて、耕作に適さない。だから、ほとんど原野のままで放置されているのである。
墓は、盛り土をしただけのものであった。大身の家が墓前にこしらえる廟や祭壇など、もちろんない。その周りは原野で、視界を遮るものはほとんど何もなかった。春になるとこの丘にも一面の青草が伸びるが、百姓が田畑に鋤(す)き込むために夏までの季節にどんどん刈り取られていく。そのため、夏の季節なのに草すら丈低かった。
丘の上は広々としていて、下の淮水からの風が吹き抜ける。韓信は、これまでも時たまここに来て、家族を奪った大河の流れを眺めることがあった。今日ここに来たのは、これからの自分のことを思うためであった。家族のいない彼には、自分が行く道を引き止めるものは何もない。だが、そのままではどこに行ってしまうかどうかわからない気がした。彼は、下に流れる川を見た。水が流れて来る先も、それが下っていく向こうも、ここからではかすんで全く見えない。どこまで続いていくのか、わからない流れであった。
(大きな流れだ。人の生活など超越している。たぶん俺が死んだ後も、ずっとこの川は流れ続けるのだろう。)
これから、この天下には何が起こるというのであろうか。
この広大な天下の流れの中で、自分一人ができることなどは、何ほどのことでもない。
もし何かが起こったならば、このままではひとたまりもなく溺れてしまうだろう。この淮水が洪水となった時のように。
(泳ぐ力を、学ぶしかないというわけか。迷って溺れてしまわないように。自分が今できることは、それだけなのかもしれない、、、)
彼は改めて、丘の下の平野を眺めた。
広い。
山すら、視界に見えない。
北の泰山は、どの辺りにあるのだろう。函谷関は、どの方角だろう。河水(黄河)の渡しは、どこにあるのだろうか。江水(長江)は、今日も流れているのであろうか。海岸には、どれだけ行ったらたどり着くのだろうか。
その全てに、人が住んでいる。天下が鳴動すれば、その全ての土地が動き出すのである。韓信は、空恐ろしい気分がした。人が直感で理解するには、この天下はあまりにも広すぎる。自らの知を使わないと、わけのわからないままに死んでしまいそうな予感がした。
(まずは、、、知を得なければならない。そうしなければ、俺はどこにも行けそうにない。)
それから韓信は、母親たちの墓の前にしゃがみ込んで、盛り土の固め直しを始めた。ここに来た時には、彼はいつもこれを行なっていた。ここは風が強いので、何か墓前に供えてもすぐに吹き飛ばされてしまう。だから、土を固め直すのが、一番墓にとってよい。
(この丘の上の土地ならば、再び洪水で墓が溺れることもないだろう、、、父よ。母よ。家族の皆よ。この俺は、生き残った。これからも進んでいくよ。)
ただ一人残された自分という命は、何としてでも生きて進んで行かなければならない。彼は、盛り土をしながら、そのように思った。
彼は、再び淮陰の城市に戻った。家長や父老に一通りの挨拶をした後、下邳に行くつもりであった。黄生の門下となり、兵法家を目指すために。この城市にしばらく戻ってこないことも、覚悟していた。
父老に挨拶に行ったときには、彼は言われた。
「この淮陰を、忘れるなよ。お前は、常にこの城市を守ることを思え。ここはお前の、父祖の土地だ。」
すでに、彭城での会合が秦の政府の茶番であったことは、つとに知れ渡っていた。表面上は、誰もそのことに対して批評などしなかった。だが何も表立って聞こえてこないということが、すでに別の意味を持っていた。父老も、会合のことについては一言も触れなかった。しかし、彼は謎めいた言葉を、一言漏らした。
「楚は、もう後に引くことはできぬ。」
それは、目の前の韓信に向けて言っているのかどうかすら、はっきりとしなかった。
だが、林媼さんの家にだけは、寄っておかないわけにはいかなかった。韓信は、見慣れた門番に挨拶をして、林家のある里に入っていった。彼は、門を叩いた。
「韓信です!挨拶に来ました。」
中から、若い声が聞こえた。
「韓さん?」
阿梅の声であった。
「あっ、、、阿梅か。ひょっとして、媼さん今日もいないのかい?」
「残念ながら、、、夕方には帰ってくるはずなんですけれど。」
「そうか。中で待たせてもらうか、、、なんて言うと、また媼さんに怒られるしなあ。何せ阿梅、お前は傷ものにはできない娘だからな!」
「韓さん!からかわないでくださいよ、、、」
「どうするかな、、、媼さんにも会わなきゃならないが、お前にも一言言っておきたいとは思うんだが?まさか、閉めた戸越しに言うわけにもいかないしなあ、、、」
そこまで彼が言ったとき、戸が開いた。阿梅の顔が、見えた。
「外は、雨が降ってるんじゃないですか?」
韓信は言った。
「本降りには遠いな。濡れるまでもない。」
「でも、結構降ってますよ、、、とりあえず、屋根の中に入ってくださいよ。」
外は、確かに韓信が言うのとは違って、十分に濡れるほどに降っていた。韓信は言った。
「いい言い訳になる、雨だ。」
「もう、韓さん!」
「大丈夫だって、俺は媼さんの顔をつぶすような真似を、お前にはしないよ。それより―」
しばらくまた淮陰を離れるかもしれないと言っておこうと思って、韓信は阿梅の方を向いた。



