項梁と項羽は、呉の城市の有力な士大夫たちの訪問を始めた。まずは、顔をつなぐためである。
「下相の、項梁でございます。故あって、この呉中の皆様に庇護を受けに、参りました―」
鷹揚な、土地柄であった。窮鳥は懐に入れば、必ず救うのが彼ら呉の民の気概であった。まず項梁は、受け入れられるために腰を低く低く据えて、有力者たちと対面した。
しばらく各家の門を叩いて回るうちに、項梁は彼の予想どおりの印象を感じた。
この呉では、項燕の名前に対する感動が、今一つ小さい。
やはりしょせん、項燕は楚の英雄なのだ。江東人の心をゆさぶっていない。
それを確認したので、彼は予定していた術を使うことにした。
彼は、すでに項羽を連れて各家を回っているときに、家の者たちが後ろに控える甥の異相に並々ならぬ驚きを示していることに、気付いていた。項梁は、最初わざと甥のことを何も紹介せず、甥にも一言も語らせなかった。呉の士大夫たちの間で噂になって、向こうから素性を聞いて来るのを、待った。
ついに、ある家の者が、訪問してきた項梁に対して、聞いた。
「先生の後ろに控えている青年は、先生とどのようなご関係なのでしょうか―?」
項梁は、主人の問いに答えた。
「― 我が甥の、籍でございます。それがしと同心して、共に行動しております。」
とりあえず、一時それで話を切った。しかし、しばらくしてから項梁はおもむろに話題を蒸し返した。
「実は、この甥には隠れた事情が、ございまして―」
そういって、項梁は主人のそばで、耳打ちした。主人は、ぎょっと驚いた。
「本当ですか?」
「表には出せませんが、本当です。それで、楚国再興のために、それがしと同心して連れているのです。」
どの家に行っても、項梁は同じことを各家の主人に耳打ちした。今はまだ信じずともよい。相手に「まさか?」と思わせることなのだ。これから、実績を作る。そうすれば、注目はやがて信仰に変わる。
郡から、大きな徴発の下達があった。項梁が訪問していた家の主が、世間話の中で項梁に嘆きの愚痴を言った。
「北と南は、農繁期が違うのです。この江東は米を作るので、これからが農繁期です。なのに、郡は北と同じ要領で、労役の徴発を下達して来ます。何とか陳情しようにも、我らは口下手ですので、思うように郡に伝えることができません。困ったものだ、、、」
項梁は、家の主に労役の内容を聞いた。馳道の整備であった。
(秦王め、次はこの江東に来るつもりだな、、、)
項梁は、内心思った。しかし馳道の整備などは、北では日常的に行なわれている徴発であった。だがこの土地の者どもは、分業というものを知らない。年長者や士大夫までが、簣(もっこ)を担いで石を取り除く作業を行なう。人の上に立つ者は、人一倍汗をかかなければならないという強迫観念の、成せる業であった。心掛けはまあ殊勝であるが、おかげで指揮する役割の者がいない。そのため労力が多くして、能率が非常に悪かった。
項梁はすでにこの土地の者どもの性質をよく観察していたので、自信をもって家の主に提案した。
「それがしに、労役の手配をお任せください。農繁期が始まるまでに、労役を終わらせてみせましょう。」
項梁は、近在の郷里の代表者を全て集めた。彼らの前で、自らが計画した労役の段取りを説明した。
「整備する馳道を、区画ごとに細分化します。各里の代表者は、指揮者の私から分担する区画の指定を受け取ります。代表者は責任を持って、分担された区画の馳道を整備しなければなりません。整備が終了したら、私のところに報告を持ってきてください。新たに整備する区画を、指定します。そうして、最終的に最も多くの区画を整備した、里の者は―」
「里の者は?」
「呉の城市に廟を建て、全員の名前を奉納し、その功業を末永く顕彰することにいたします。」
まさしく、元手いらずの褒賞であった。素朴で名誉を重んじる江東の人民であったからこそ、この褒賞は喜ばれた。郷里の者たちは、勇躍して労役に取り掛かった。
「籍よ、お前は本当に完成したかどうか、監察する役目をしろ。」
項羽は、叔父の指示によって完成の報告があった区画に出向いて、出来具合いを確認する役目を担った。
彼らは元々が誠実な人民であったので、大方は綺麗に整備していた。しかし、時に功をあせって手を抜いている里が存在した。そのような箇所には、項梁はやり直しを命じた。不正を許さぬ峻厳な態度こそが、組織立った事業には必要であった。項梁は、各里の仕事の出来を、細かく記録していた。後に、役立てるためであった。
項羽が監察する区画に行こうとした途中で、彼は労役の者どもが非常に苦労していたのを見かけた。道を走らせる予定の野の途中に、大きな岩が転がっていたのであった。四人がかりで持ち上げようとしたが、びくとも動かなかった。
項羽は、馬から降りて、彼らのところに行った。
者どもは、彼の姿を見て色めき立った。
この江東では見かけることもない、八尺余りの偉丈夫であった。その上、目の色が尋常ではない。人間離れした怪物として、すでに人々は畏怖の視線を彼に送っていた。
しかし、彼は言った。
「これを動かさないと、後の仕事ができないだろう?少し、待っていなさい。」
そう言って、者どもににこと微笑んだ。
項羽は、岩を両手で抱えた。
「む!」
一声を出した後、彼はわすかの間静止した。
それから、岩は次第に持ち上がっていった。
項羽は、持ち上げた大きな岩を、抱えて脇に持っていき、ひょいと放り投げた。岩は、奥の窪地に音を立てて転がり落ちていった。
労役の者どもは、後ろで彼の超人ぶりに、あっけに取られていた。
項羽は、彼らの方を向いた。そして、もう一度初々しく微笑んだ。
東洋の民とはおよそ異質の美を湛えた、均斉な笑顔であった。
ある者などは、性的な予感まで感じた。それで、顔を赤らめてしまう始末であった。
「では、後はよろしく頼むよ!」
そう言い残して、項羽は予定地に向けて馬で駆けていった。
男たちは、この美しい男に魅せられた。それからしばらくして、彼が春申君の末裔であるという噂は、急速に呉の年若どもの間に広がっていった。



