会稽郡の郡守の殷通のところに、郡の役人から苦情が届いた。
「今回の馳道の建設において、徴発の人民どもは郡からの指示を受けずに勝手に労役を進めています!これでは郡の威令が届きません。人民どもに、命令違反の罰を下すべきです!」
しかし、人民への処罰を検討するまでもなく、馳道の建設は終了してしまった。異例の速さであった。
殷通は、不思議がった。
「おかしい、、、?こんなに速く、仕事がはかどるはずがない。― ひょっとして誰かが、指導しているのか?」
数日後、郡守の屋敷で、殷通と会見する人物がいた。
「― 楚の産の王英でございます。呉中において、民に農法の教伝を行なっている者でございます。」
仮名を使っているが、項梁であった。
彼は、殷郡守の前に自ら出頭した。協力関係を、得るためであった。郡守は、地元の有力者との協力関係を必ず求めている。彼は、長年の経験とこの土地の者どもからの聞き取りによって、そのことを確信していた。それで、地元での郡の事業を円滑に進める手助けをすることを、殷郡守に申し出ることに決めたのであった。郡守の庇護を受けて、自らの勢力拡大の隠れ蓑にすることが、目的であった。
殷通は、平伏する男に向って、言った。
「王英とやら。困るではないか。郡の事業を勝手に進められては、郡の秩序が乱れる。秦の法の下では、法を外れた功績は法を外れた悪事と同様に処罰される。お前は、そのことを知らぬのか?」
王英こと項梁は、平伏したまま顔を上げずに、返した。
「万死に値する罪でありましたことは、重々承知の上でございました。しかしながら、民が農繁期を前にして苦しんでいるのを見るに見かねて、非才を用いて手助けをしたのでございます。」
殷通は、厳しい口調で言った。
「それが、いかんと申すのだ。民に恩恵を垂れるのは、正しく国家でなくてはならぬ。国家は法令をもって、民の行く先を指令しているのだ。その法令を枉げる害悪は、民を利する功績よりもはるかに上回るのだ。― 本来ならば獄吏の手に渡して処罰するところであるが、今回は差し置く。有り難く、寛大な措置を受け取るがよい!」
項梁は、かしこまって郡守の措置に感謝した。
しかし郡守は、それから急に声色を変えて、下座でかしこまる男に声を掛けた。
「顔を上げよ。まあ、しかしであるな、、、」
それから郡守は、郡の行政官としての本音を語り出した。
「王英よ。実際のところ、郡は現地の民との意思の疎通がうまく行かず、政策が円滑に進んでいないのが実情なのだ。それが、今回のように農繁期に徴発を命じるなどの不手際につながっている。私もこの郡に来てから、まだ年月が浅い。土地の実情がよくわからないのが、実際のところなのだ。お前は、今回の徴発で近在の郷里の民をよく指導している。さぞかし、顔が利くのであろう?」
「いささかながらの声望をもって、今回は出すぎた真似をしてしまいました。しかし、もし郡守閣下のご支援があれば、これから郡内の事業は合法的に行なうことができます。郡にとってもよし、民にとってもよしと、この非才は考えるのでございますが、、、」
「そして、お前はここにやって来た。― わかっておるわ。」
殷郡守としても、現地に顔の効く人物を子飼いとして持っておきたかった。郡守ともなれば、積極的な功績がなくてはこれ以上の昇進はおろか、処罰されるかもしれない。それが、李斯丞相のやり方であった。彼は郡の統治で功績を成すために、有能な現地人が咽から手が出るほど欲しかった。それゆえ、目の前の男を利用することは、この高級官僚にとって己のために是非とも行ないたいところであった。
「以降は、まず郡守の私を通じて、事前に協議せよ。窓口は、この私だ。配下の官吏どもや各地の県庁と勝手に事を進めることは、許さぬ。」
こうして、項梁は郡守の殷通と結びつくこととなった。
呉で、大きな葬儀があった。
すでに土地の者たちに声望を得ていた項梁は、今回も葬儀を取り仕切った。
現代もそうであるが、多くの人が集まる冠婚葬祭の仕切り役を果たすのは、なかなか大変な苦労である。限られた日数と限られた予算の範囲内で、集まった各方面の顔を上手に立てながらとどこおりなく行なわなければならない。無能な者が取り仕切ると、時に集まりが喧嘩沙汰となることさえあるのだ。そうなると、取り仕切った者は郷里の声望を失う。今回の葬儀は呉の城市はおろか他県にも影響力のあった人物だったので、多くの葬列者が殺到することが予想された。これほど大きな催し物を取り仕切る能力を持つ者は、もはや呉に項梁しかいなかった。
人の集まりを取り仕切るために肝要なことは、可能な限り裏方に徹して自分は前に出ず、しかも人の流れを法によって整然と制することである。項梁にとっては、黄生の下で学んだ兵法の応用であった。
「孫子いわく、
― 治乱は、数なり ―(兵勢篇)
人間の集団を整然と目的に向けて活用するために必要なのは、人徳などではない。数を計って、分業させることなのだ。組織が事前によく計画されていればいるほど、人間の集団の動きは確かなものとなる。智恵ある者だけが、理解できる道理だ。」
項梁はこの葬儀でも、呉の人物たちの仕事ぶりを細かく記録しておいた。いざ事が起って動くときには、巷で人気ある者が必ずしもよく働くとは限らない。項梁は、この土地の者どもをいずれ自分の号令一下に動員する腹づもりでいた。彼が取り仕切る徴発や葬儀の場は、彼にとって配下の下士官を選別する機会なのであった。
この葬儀の席には、郡守の殷通もまた、出席していた。
殷郡守は、遺族への弔問を済ませた後、葬儀の仕切り役の男の席の隣に座った。
彼は、しめやかな席の失礼にならないように、小声で話し掛けた。
「やはり、ここにもいらっしゃったか、、、これほどの葬儀は、あなたしか取り仕切ることができないでしょうよ。」
「最初私は、よそ者ですので辞退したのです。ですが、呉中の方々のたっての望みを受けましたので―」
「なるほど、すっかり声望がおありなようだ。これならば、今後の郡の仕事も、あなたと組めばとどこおりなく済むというものです。」
「おかげさまで。これも、郡守どののご声望あってのことです。」
「何をおっしゃる。ふ、ふ、ふ、今後ともよろしく頼みますよ、、、項梁どの!」
項梁は、郡守が自分の本名を言ったので、一瞬どきりとした。
しかし、殷郡守の顔は、にこにこと笑みを湛えていた。
それから、もっと小さい声で、耳打ちした。
(だいたいの事情はわかっていますよ― 心配なさらずとも、あなたのことを告訴したりはしません。あなたは、郡の政治に必要だからです。互いに利益あることを、成しましょうぞ!)
項梁は、郡守の微笑みを見ながら思った。
(取引だな― しかし、かえって都合がよい。)
郡守が自分に恩を売っていると思い込んでいるのは、項梁にとってかえって策謀がやりやすかった。郡守は、前科者の項梁が罪を逃れて隠れているのを、自分が見逃してやっているのだと考えている。項梁のもっと奥にある深謀遠慮までは、考えを巡らせることはないであろう。項梁は、そう考えた。それで、殷郡守に答えた。
「郡守どのの、よしなに― しかし、今は厳粛な葬儀の席。これ以上の私語は、礼儀に反するというものですぞ。静粛に、静粛に、、、」



