項羽の率いる討伐軍は、さらに数里の奥に入った、敵の拠点を目の前にした。
桓楚は、地形を見て言った。
「あの山が、敵の拠点だ。だが、丘の前に見てのとおり急流がある。渡河するのは、危ない。」
桓楚の言うとおり、拠点の小高い山の前に、かなり水量の多い急流があった。敵と遭遇するためには、川を渡って行かなくてはならない。
渡河は、兵の体力を大きく消耗させる。
その上に、渡河は兵を分断させる。『孫子』には、こうある。
― 客、水を絶ちて来たならば、これを水の内に迎うるなく、半ば済(わた)らしめてこれを撃つは、利なり(行軍篇)―
すなわち、渡河して来た敵は、川の中で迎撃するのではなくて、部隊の半分が渡り終えたところを撃ち取るのが有利である、という兵法の定石である。
ゆえに、川を前にした高地を攻めるなどは、兵法の定石から言えば決してしてはならないことであった。
桓楚は言った。
「あの山は、天然の城の地形を成している。孫子も城攻めは下策として、戒めているところだ。君が兵の勢を大事にしたいのは分かるが、これを今攻めるのは、無謀というものだ。もっと、腰を据えて対策を練ろう。」
項羽は、一笑に付した。
「敵の必死軍すら、粉砕したのだ。今、敵は狼狽しているはずだ。この時をおいて撃たなければ、やがて敵は勢いを盛り返すに決まっている。少々の困難は、あえて乗り越えなければならない。」
桓楚は、項羽の無謀に声を荒げた。
「兵法に言う、
― それ惟(た)だ慮(おもんぱか)りなくして敵を易(あなど)る者は、必ず人に擒(とりこ)にせらる(孫子、行軍篇)―
君の言っていることは、勇気ではない。無謀だ。君が将として素晴らしい統率力を持っているのは、十分に分かった。だが、戦いは法則をないがしろにしては、決して勝てないのだ。それを知りたまえ、項羽!」
二人の将の意見は、激しく対立して譲らなかった。
そのとき、行軍してきた跡の道を、追いついてきた一騎があった。
「おおいっ!― 無謀な奴らめ!」
一人の、若い男であった。彼は、項羽たちの陣に駆け付けてきて、ひらりと降りた。
「この兵を率いるのは、項羽であろう?― 目通り願いたい!」
陣に入ってきた男は、兵ではなくてただの年若な男であった。
しかし、見るからに屈強の壮士であった。項羽は、彼に聞いた。
「男よ、、、名前は?」
「呂馬童だ。呉中で一番の馬乗りよ。以降、お見知りおき願おう。」
彼は、馬を操れば呉中で一番の腕前であった。ゆえに、彼は「呂馬童」と呼ばれていた。これは、誰知らず呼んだ通り名であった。
「項羽よ!お前は本当に、人を率いる資格があるのか!」
「なに?」
「お前の戦い方は、勢いだけだ。この前の戦いでは、勝つことができたかもしれない。だが、お前は図に乗って、さらにここまで兵を連れて来た。その上に、無謀な戦いをしようとしている。兵は、使い捨てではないのだぞ。俺は、お前の戦い方を、とても見ておれん!」
そう言って、呂馬童は項羽を睨み付けた。
項羽は、すっくと立ち上がって、彼の視線に受けて立った。
彼は、本来教養のある人間であった。人の前で、粗暴な振舞いは決して行なわない。彼は、粗野な野人では決してなかった。
しかしながら、彼は今ここに生涯初めて戦場に立った。彼は戦場にいて、自分の中にある直感が終始ざわめき立つのを感じていた。それは、「勝て」という呼びかけであった。そして、「勝てる」という直感であった。彼は、戦っているうちにいつしかその直感の虜になってしまっていたのであった。
長い睨み合いが、続いたような気がした。
その果てに呂馬童は、ほっと肩を落した。そして、項羽に言った。
「― だから、お前には助けが要るのだ。この俺の言うことを、聞くがよい。」
呂馬童は、項羽が将として兵を起こすという話を聞いた。それで、その戦いぶりを見てやろうと、ひそかに後をつけていったのであった。
(血筋などは、俺にとっては信用できない。本当に、人を率いるべき男なのかどうか。俺が見たいのは、それだけだ。)
だが必死隊を破った項羽の戦いを見て、彼は目をみはった。項羽の戦う姿は、人間を超えて猛獣であった。恐るべき男だと、思った。
だが、項羽はその後で間髪を入れずに敵の本拠に攻め入る準備を始めた。彼が垣間見たその時の項羽の表情は、まるで野遊びで自軍の勝利を確信した少年のように、明るかった。それを見て、別の印象を持った。
(驚くべき、男だ。だが、少し足りない奴だ、、、)
だが呂馬童は、そのような項羽が逆に気に入ってしまった。項羽と同じく、獰猛さと稚気を持っている彼であった。自分と同質で、より大きな魂を持っている男だと、感じた。呂馬童は、項羽という存在に引き付けられた。それで、助けてやろうと彼の陣に現れたのであった。
呂馬童は、言った。
「この俺は、昔から越地方の山野を駆け回ってきた。俺は、野猪や狐を採るのを生業としているからな。それで、この辺りの地形もよく知っている。あの賊のこもる山は、正面から撃って掛かれば、必ず全滅する。」
地形を知る者の、託宣であった。土地の地の利を知る者のことを、郷導(きょうどう)という。郷導の言葉を無視する者には、死あるのみであった。
だが、呂馬童は付け加えた。
「だが、裏手から侵入する山道がある。裏手から回って山を占領することができれば、勝てる。」
桓楚は、口を出した。
「なるほど。だが山道を進んで戦うのは、特殊な訓練を積んだ兵でないとできないことだ。今ここにいる兵たちには、とてもできない。」
それは、道理であった。
山中では、兵がどうしても散開する。しかし徴募した兵には、一般に密集した集団戦法の訓練しかできない。しょせん、彼らには単純な動作以上のことを教え込むことができないからであった。山にこもる敵を兵で攻めることの不利は、その点にもある。
だが、項羽は勝てる方策を聞いたとき、すかさず呂馬童に言った。
「呂馬童。私と、お前の二人で山から攻める― それでどうだ?」
「えっ?」
呂馬童は、項羽の案を聞いて驚いた。
しかし項羽は、言葉を続けた。
「お前の乗馬術は、確かなのだろう?ならば、私と共に騎乗して山道を進め。それで、撃ちかかる。桓将軍、あなたは兵を率いて、川を渡って攻撃してください。敵が、組し易しと見て攻撃してくるように。それを、裏手からさらに攻める。そうして、山と平地から敵を挟み撃ちにしましょう。」
(二人で、別働隊の働きをしようというのか―?)
桓楚は、そのあまりの無謀に、眉をひそめた。常識を知る用兵家の考える、常識であった。
しかし、呂馬童はやがて、にこりとして言った。
「裏手から攻めるのは、敵を驚かせるのが一番効果がある。項羽、お前は一人で敵を驚かせるに、足る男だ―」



