討伐軍は、桓楚に率いられて川を渡り始めた。
山上に陣取る賊たちの眼下に、渡河を始めた兵の姿がはっきりと見えた。
「渡り始めたぞ。早くも攻め寄せてきやがった。」
「どうする?先日は、悪鬼のような将一人にしてやられたが、、、」
「う、、、あいつか、、、」
「あんな奴は、始めて見た。我らの必死隊すら、破るとは、、、」
すでに賊たちは、項羽の予想どおりに戦闘での自信を失い始めていた。
それで、判断に迷った。
このまま、山の中に逼塞するか。
それとも、地形の利を利用して、敵が半ば渡河した時点で駆け下って決戦するか。
眼下を見ると、敵兵は徒歩で川を渡っている。
そして、あの川を徒歩で渡れる地点は、一箇所しかない。その道を、やはり兵どもは苦労しながら進んでいた。
「敵が川を渡っている間は、こちらが圧倒的に有利だ。この機会を利用するしか、ないのではないか?」
「― それしか、勝てぬか、、、」
今、渡河している兵の中には、先日の将の姿は見えなかった。
「― 奴の姿は、見えないな。」
「― この兵の指揮は、取っていないようだ。ならば、勝てる。」
項羽が渡河する兵の中にいないことを、彼らは有利な条件として見てしまった。心理的に追い詰められると、人は自分にとって有利な点だけを見ようとする傾向が出てくるものである。項羽の速戦速決の直感は、その意味で正しかった。
敵は、予想もしなかった超人的な将の出現によって、一時的に計算を誤っていたのであった。冷静な軍師などいない、山越の野軍の悲しさであった。もし軍師がいたならば、「わざわざ見えるように白昼堂々と川を渡るのは、おかしい?」と、見抜くべきものであった。
丁度その頃、項羽と呂馬童は、密かに裏手の道を回って、山の裏手に出ていた。
「奴らが、山を降り始めた、、、迎え撃ちに行くつもりだ。」
呂馬童は、枚(ばい)を含ませた馬の上から、賊の動きを観察していた。
「思う壺だ。頃合を見計らって、一気に駆け下りて斬り散らす。、、、呂馬童、遅れるなよ。」
項羽は、山を騎馬で駆け下りることなど、困難なこととも思えなかった。しかし言われた呂馬童もまた馬術には絶対の自信を持っている男であった。彼は横で自信満々に構える項羽に、
「何を、、、お前こそ、遅れるなよ。」
と言って、にやりと笑った。
渡河の中途で兵の態勢がまだ整っていない中、率いる桓楚の心中は全く穏やかでなかった。今一気に駆け下りて攻められれば、兵は壊乱して水に溺れるだけだ。桓楚は、祈るように山の方角を見た。あの山の中に、項羽たちはいるはずだ。彼らの奇襲に、この策は全て懸かっていた。
(本当に、大丈夫であろうか、、、?)
彼は兵法を学んでいたが、常識人であった。
常識は、隙を作らず負けないためには、必要なものである。
しかし、勝つためには、将は常識を超えなければならない。なぜならば、常識は相手もまた同様に学んでいるからである。それでは相手を出し抜くことには、ならない。
ゆえに、孫子はこの言葉を残した。
― 兵は、詭道なり(始計篇)―
敵の備えなきを攻め、敵の不意に出ること。これを知る者だけが、勝つ技術を知ることができる。それは、桓楚にはできないことであった。そして項羽は、その天性を持っていた。
「今だ!駆けよ!」
項羽は、時はよしと見て、馬の腹を思い切り蹴った。同時に、馬に含ませていた枚の紐を、腕で引きちぎった。たちまち馬は枚を外していななき、山上から駆け下りていった。
「おおっ!置いて行くな!」
呂馬童もまた、項羽の後に続いた。
山上から、猛虎の雄叫びが響き渡った。木々に木霊して、まるで爆発音のように反響した。それと同時に、前の河原に向けて戦闘しようとしていた賊の背後から、燃えさかる薪を背負った火牛が駆け下りてきたかのような突進が起った。
「あ、、、あいつだっ!」
「ど、どうして、こんなところに?」
何もかもが、不意であった。
項羽と呂馬童は、山麓の地形などものともせずに馬を操り、剣戟を振るった。賊は総計千人もいたが、山麓に混乱してなすすべもなく、相手がたった二人でしかないことすらも認識できずに斬り回された。
項羽の咆哮は、河原の桓楚たちの方にもはっきりと響いた。
(何という、声だ、、、!)
敵には恐ろしい項羽の怒号も、味方の兵たちにとっては、軍神の号令であった。兵たちは、大いに沸き立った。桓楚は、この兵の勢を受けて、軍に突撃を命じた。
「項籍よ、見事であった。賊は文字どおり、お主の働きによって壊滅した。今回の戦役で、秦の威光は山越にまで響き渡ったであろう。これほどの戦果は、滅多にあるものではないぞ!」
郡守の殷通は、戦勝報告をした項羽に賞賛の言葉を惜しまなかった。彼の武勇は、郡の認めるところとなった。そして呉の城市の者たちの間にも、広く知れ渡った。
「何かあったら、あいつに付いていけば勝てる。俺が言うのだから、まちがいない。」
呉に戻った呂馬童もまた、今は年若たちに対してこのように言っていた。項羽の名声は、ますます呉で不動のものとなった。
しかし、叔父の項梁だけは、甥の戦果に対して複雑な思いであった。
彼は、項羽の武勇が並大抵のものではないことを知って、まずは喜んだ。
しかし、その後の彼が、あまりにも周囲の賞賛に乗せられて無邪気に上機嫌でいたことに、危惧を覚えた。
(― あいつは、純粋すぎる。裏がないと、簡単に敵に手玉に取られる。)
現に、郡守に取り込まれようとしている。
項梁は、すでに郡役所の官吏から聞いていた。郡守は、項羽を中央に推薦しようと考えているという。武勇を立てると、このように政府は見逃しては置かない。
(人間の奥の深さは、才能だけでは決して手に入らない、、、そういうものだ。)
しばらくして、項梁は項羽を呼びつけた。
「何でございましょうか、叔父上?」
項梁は、甥に言った。
「籍。お前は、嫁を取れ。この呉中から、これまでにも山ほどお前を婿に欲しいという要望を受け取っている。ちょうどよい時期だ。」
「え?」
「お前は、血の気が多すぎるのだ。この際、妻妾を何人か持て。そうすれば、落ち着くというものだ。」



