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十二 納采・納徴(1)

(カテゴリ:102伏龍の章

「妻妾?、、、」
項羽にとっては、このような言葉は全くの不意打ちであった。

内容を理解するのに、少し時間がかかった。
それから、躍起になって否定した。
「そ、そんなものは、要りません!」
「なぜだ?」
「い、、、要らないと言ったら、いらないんです!まだ、、、まだそんなのは、早いです!」
「阿呆なことを言うな。お前は、もう結婚してもよい歳だ。」
叔父の意見の方が、常識であった。
彼は、もう子供ではないのだ。項氏の成人として、外戚を作るのは重要な努めであった。この時代、立派な士が妻を娶って、その上余裕があれば妾を囲うなどは、何一つ非難されるべき筋合いのことではない。
当時、夫一人妻一人の家庭は、「匹夫匹婦」と呼ばれた。『論語』にも出てくる言葉であった。だがこれは、蔑称である。一人しか妻を持てないなどは、つまらぬ甲斐性なしの生き方とみなされた。むしろ人の上に立つべき大人(たいじん)たるもの、太太(おくさま)を二人三人と持つのが、当たり前であった。人間― 具体的には、男性だが― の欲望を正直に肯定しながら、その上で社会を善に指導すべき人物を目指す。これが、神とか解脱とかのために無理な禁欲をする理由をこしらえない、伝統的な中国社会の倫理の要諦だったのである。
項梁は、全く困った奴だと言いたげな調子で、甥に言った。
「この呉中の者たちに根を広げるためには、土地の家とのつながりも大事にしなくてはならない。今や、お前はどこの家でも大した人気だ。どの家に行っても『うちの娘を、項籍どのの箕帚(きそう)の妾に、、、』の話ばかりだ。うらやましい限りよ。」
「箕帚の妾」とは、掃除をする下女の意味である。要は、妻に貰ってほしいという娘の親からの言い回しであった。
項梁は、甥にさらに追い討ちをかけた。
「別に、一人とは言わんぞ。この際何人か家に置いても、かまわん。その方が、各方面との繋がりができるとも言えようぞ。― あまり置き過ぎるのも、どうかと思うがな?」
「や、やめてください!そんな話は!」
甥は、ますます顔を赤らめた。彼の視線は、もはやしどろもどろだった。山越討伐の猛将の姿は、今の彼にはどこにもない。ただの、体が少し大きいだけの、まるきりの少年であった。
項梁は、甥に家庭を持たせて家の責任感を持たせることを願っていた。その上で、郡守あたりから嫁の話が持ち出される前に、早々に呉の者たちと結ばせておかなければならないとも、計算していた。
(それに、若い男というものは―)
項梁は、予想通りの反応を示す甥を見ながら、診断した。
(適度に体内の精気を抜いておかないと、頭に血が昇って判断を誤る。ただ戦うだけの武人ならそれでもよいが、籍は項氏の将来を担う男だ。大人(たいじん)となってもらなければ、ならんよ、、、)
こんな医術的な効果まで考えていた、叔父の企みであった。

(項氏にとっても外戚となる家を、選ぶのだからな。万事、この私に任せるがよい。)
項梁から、決定済みのことのように、申し渡されてしまった。
「ああ、、、こんなことに、なってしまうとは―」
項羽は、従弟の項荘にこぼした。
項荘は、項氏一族の一人である。項梁たちを頼って、この呉に合流してきた。項荘は、従兄の項羽のことを深く敬愛していた。それで、最近は項羽を取り巻く呉中の年若たちが作る、近衛隊の一人のようになっていた。
「表兄(にいさん)、よいことじゃありませんか。叔父上に万事お任せすれば、間違いありませんよ。」
項荘は、気軽に項羽の悩みに返した。
「そのような問題では、ないのだ!」
項羽は、従弟に怒鳴り付けた。
「、、、ど、どのような、問題なのですか?」
とつぜんの項羽の剣幕に、従弟はあわてて聞き返した。
しかし、言った項羽自身も、何が問題なのかが、分かっていなかったのであった。それで、口ごもるばかりであった。
「い、、、いや、、、だが私は、、、」
「― 表兄、、、ひょっとして、下相に想い人でも残して来たとか?」
「え?」
「い、いや。ただの推測なんですが、、、だ、だからと思いまして、、、」
「荘、勝手に推測するな!そんな奴なんかは―」
その時、しばらくの間忘れていた面影を、項羽は思い出した。
(― そうだ、虞美人、、、!)
項荘は、項羽の表情の変化を見て取った。敬愛する従兄であったが、世間への慣れの度合では、彼の方が数歩上回っていた。それで、従兄のことを、少しからかいを込めて、けしかけた。
「― 表兄。だったら、、、呼び寄せればどうですか?それで、叔父上に申せばよいでしょう!」

それから、何日も経たない日のこと。
項羽は、馬を駆って、北に向った。
彼は、意を決して彭城に行くことにした。郡役所には、「視察に行く」とだけ言い残して出て行った。
(これで、彼女と会うのは最後になるかもしれない―)
項羽は、馬を疾駆させながら、思った。
(― もし、、、他の男のものになってしまっていたら、、、)
そのときは、どうするだろうか。
少し、考えた。
もう少し、考えた。
だが、答えが出ない。
答えが出そうにない― そう思って、項羽はそれ以上考えるのを止めた。虞美人を思い出してから、心は錯乱するばかりであった。
(― いっそ、奪って戻るか?)
項羽は、そのようなことまで考えてしまった。
彼女のことを考えると、自分はどこかに踏み出してしまいそうな、そのような暗い予感を感じた。それほどに、一旦彼女のことを思い出してからの項羽は、一つの思いにしばられるばかりであった。
馬は、江水(長江)の渡しに出た。ここで、わびしい川舟に乗った。
長い川道を進んで、ようやく向こう岸の渡しに着いた。
烏江(うこう)という名の、渡し場であった。
それから、夜も気にせずに北へ駆けていった。実はそのとき、彼は人生の最後に駆けていく道を、反対方向に進んでいたのであった。ずっと、後のことであった。しかしこの時の項羽はあまりにも虞美人の想念に捉われていて、進んだ道の経路などは少しも頭に入らなかった。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章