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十二 納采・納徴(2)

(カテゴリ:102伏龍の章

項羽は、何年かぶりに彭城の門を見た。

烏江の渡しを出てから、ほとんど不眠不休で馬を駆った。着いたのは、乳色の霧のかかった、秋の早朝であった。
今、南の江東からこの彭城のある徐州にかけて、海岸方面で馳道の建設が急がれている。
始皇帝が、五年ぶりに巡幸に出向こうとしていたのであった。
彼はこの数年のところ咸陽にこもって真人(しんじん)となることを目指し、人間のぶんざいで人間を超えるという神仙ごっこの愚劣を演じていた。その彼が、ついに再び巡幸に乗り出した理由は、いずれ書くことにする。しかしそのために、かつて張良を助けた倉海君たちの居住する東海の辺地にもまた、今は秦の徴発が容赦なく及んでいた。もはや、天下に始皇帝の支配を免れる土地は、どこにも無いかのようであった。
今朝項羽が着いた霧かすむ彭城の城市は、そのような前が見えない息苦しい土地の状況を、まるで象徴しているかのようであった。
以前と同じ酉門(いもん)を通り抜けて、辻を曲がった。その突き当たりに運河があって、曲がれば遊郭の門となる。沿道の珍しい柳の並木も、変わっていなかった。江東よりずっと北にある彭城は、夏が終わって急に冷え込む朝となっていた。
門に急行して、馬を下りるやいなや、門番に聞いた。
「― 虞美人は、どこだ!」
こんな不躾けな問いかけをする、普段の項羽ではなかった。
「、、、な、中にはおりません。」
「じゃあ、どこにいるのだ?」
「― さあ?」
遊郭の門番たる者、こういったのぼせ上がった変な客から妓女たちを守るのも、役目である。だから知っていても話すことはないのだが、このときは本当に知らなかった。
(運河の向こうに、屋敷があるんだったな、、、)
項羽は、昔の記憶を呼び覚ました。
項羽は、再び馬に飛び乗った。
そして、運河にかかった橋の前まで引き返した。以前に虞美人を送った厩司御の馬車では、通ることができない狭い小橋であった。項羽は、馬腹を蹴った。馬は、一気に運河を飛び越えて、向こう岸に渡った。
その向こうの城市の北西の一角は、彭城で最もみすぼらしい地区であった。
虞美人は、彭城に初めて来た時、この地区に住んだ。
たちまちのうちに成功して、遊郭の世話で邸宅を持たせてくれることが決まったとき、彼女はあえてこの地区に屋敷を建てた。
「なんであんな所に、、、」
と、関係の者たちは、彼女の酔狂に眉をひそめた。
だが、彼女は高級官吏や大商人のような大人(たいじん)が集まるような小奇麗な地区を、最も嫌っていた。そういった街は、柱の一本、瓦当の一枚にまで、偽善が染み付いているような心地がした。
しょせんこの世界に容れられるところがない自分ならば、いっそ居づらい所にいた方が、心も紛れるというものだ― 彼女はそう思って、元と同じ最も忌まわしい地区に住むことを選んだのであった。誰も彭城一の妓女が、この地区に住んでいるなどとは思いもよらなかった。それで、身を隠すという別の効果もまた、あったのである。
「なんという、汚らしい所だ、、、ここの、どこに?」
項羽は、馬で路地に入り込んだ。曲がりくねった路脇の建物は、ほとんど朽ちた陋屋であった。雇いで耕す貧農、薪を拾って鉄工房に納める細民、裏の者に使われて騒動を起こすことしかやることがない遊民たち、それに不具の者、行き場のない女たち、乞食、、、最底辺の者どもが集まる地区であった。もう少しましな工人たちの住む地区ならば、街娼たちが辻の奥に立っていたりもする。しかし、この地区の辻の陰には、褐寛博(かつかんはく)を着た乞食どもが重なって眠っていた。褐寛博とは、荒い毛布を張り合わせただけのだぶだぶの服である。住所不定の者どもは、これを着て歩き、これを着て眠る。折り重なった彼らから発する臭気は、遠くからでも耐えられないほどのものであった。
霧は晴れず、視界は悪かった。
手がかりを持てない項羽は、叫びたい衝動に駆られた。
(ここで虞美人の名前を叫べば、彼女に聞こえるかもしれない―)
そう思った。本気で、やろうと思った。
息を、大きく注いだ。
だが、声を出そうと思った瞬間に、我に返って止めた。
(ああ、、、下品すぎる。)
下品があの虞美人に喜ばれるとは、とても思えなかった。この最も下品な地区にはまるで似つかわしくない高雅な情感を持つ、男であった。そして、彼が求める女の面影も、また彼と同じ魂の持ち主であるはずだった。
しばらく歩き回っているうちに、塼(せん。焼き煉瓦)の塀で囲まれた建物があった。黒く焼いて積み上げられた塀は、この地区には不釣合いに立派なものであった。門は固く閉じられていて中を見ることはできないが、門前に馬車の轍(わだち)の跡が残っていた。馬車を横付けするような人間が、この屋敷の持ち主であるに違いない。
(ここだ、、、きっとこれが、虞美人の屋敷だ。)
そのように、項羽は確信した。この辺で、彼女ほどの女が住んでいそうな家は、ここしかない。
項羽は、待つことにした。
それしか、彼にできることはなかった。
彼は馬から降りて、家を遠巻きに見張った。
やがて朝が過ぎ、昼となった。霧は晴れたが、空は晴れることがなかった。
周囲の細民は、恐れて彼に誰も近寄らなかった。
午後になった。暗くなり始めた。しかし、彼女は戻ってこなかった。
(こうなったら、何日でもここで待つぞ、、、)
彼はもう、何日もほとんど眠っていなかった。しかし、彼はいっこうに眠気を覚えなかった。
日が暮れた。真っ暗な夜は、冷え始めた。乾いた秋の夜は、江東とは違う北の空気であった。
(何日でも、、、待つぞ。)
見上げた空は、澄み始めていた。彼は、北の方角を向いた。そこで確かめようとしたのは、あの時の夜と同じ北辰星であった。
しかし、今日は見えなかった。この地区のすぐ横にかぶさるように走る彭城の高い城壁が、視界を遮ってしまっていた。
(どうして私は、こんなところにいるのだろう、、、)
再び、朝となった。
「何やってるの?こんなところで、、、?」
項羽は、女の呼び声で目を覚ました。どうやらいつの間にか、眠っていたようだ。
彼が目を覚ました向こうに、朝日がまぶしかった。
その陽光の陰となって、彼に声を掛けた人の姿がよく見えなかった。
やがて、項羽の目はまぶしい朝の光に、慣れ始めた。
「虞、、、美人!」
彼女は、にこにこしながら項羽に言った。
「あらら、久しぶりだね?項羽。」

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章