彼女は、変わっていなかった。
あの艶やかな黒髪も、昔のままであった。
今日、彼女の服は、前に項羽が見たような錦繍ではなかった。ごく普通の、衫(ひとえ)を着ているにすぎなかった。だがそれがかえって、清楚であった。どうしてこのような朽ち果てた路地にこんな女がいるのか、それはあまりに不思議な光景であった。
「あれから、呉にいたんでしょ?何だか昔よりも、一層大きくなったんじゃない?」
彼女は、軽く声を掛けた。
項羽は、がばと跳ね起きた。
「― そうだ!私は、、、私は、、、」
立ち上がった項羽は、虞美人を見下ろした。
「私は、、、」
だが項羽は、その後の言葉を考えていなかった。
ここに来るまでは、彼女を引っつかんでも連れて帰ることまで夢想した彼であった。今の自分ならば、できると思った。しかし、いざ彼女を目の前にすると、彼女にそのようなことができるはずもない項羽であった。
虞美人は、男を見上げた。そして真面目な顔になって、項羽に言った。
「― ずいぶん、いきなり戻ってきたんだね。でも世の中は、あれから何一つ変わっていないよ。」
彼女は、以前項羽から呉に来てほしいという便りを受け取ったとき、放っておいた。
まだ何もしていない子が自分を呼び寄せようとしたのが、彼女の気に入らなかった。
そうして放っておいて、年月が経ってしまった。
彼女の周りも、彭城の城市も、何も変わることがなかった。
彼女は、内心深く悲しんでいた。そんな彼女にとって、あの項羽は希望であるかもしれなかった。暗黒の世界の中でかき消されてしまうかもしれない、かすかな希望であった。
その彼が、今こうしてやって来た。
彼が何をしに自分のもとに来たかなどは、経験深い彼女にはとうに分かっていた。しかし、彼女はこの男にまで凡庸に陥ちてほしくなかった。できれば、彼を燃え上がらせたい。希望の火を、熱く掻き立てたい。そのために、虞美人は項羽を挑発した。
「さあ、あなたは、何をしに私のところに来たの?」
虞美人は、きっと目を向けて項羽に質問した。すでに万軍を叱咤する才があることを証明したこの猛将に、彼女の気迫は決して負けていなかった。まれな男とまれな女の、火花であった。
「私は、、、」
項羽は、彼女の真剣な眼差しを見た。その真剣さこそが、彼が心の奥底で求めてやまなかった眼差しであった。
(あなたと私は、おんなじ魂を持っているみたい。とてもこの世界の仕組みの中で、おとなしくしてはいられない、魂を―)
項羽は、彼女の昔の言葉を思い出した。
(私は、あなたが変える世界を見てみたい。私は、私と同じ魂を持った人の作る世界の中でならば、生きていけるような気がするんだ。もしそうなったら、ね― 私はあなたのものになってもいいよ。そして私は、一生あなたを止めさせない!)
この言葉を、項羽は思い出した。
彼は、ついに彼女に言った。
「― 虞美人!私と、一緒になってくれ!そうして、私と共に、世界を変える道を進んでくれ!」
「物騒な所に住んでいると、思ったでしょ?」
虞美人は、馬上で項羽の腕から彼に言った。
二人は、以前と同じように、馬を駆って城市の外に出ていた。虞美人が提案した。彼とこれ以上会話を続けるのにはふさわしくない路地であったと思ったからであった。
「どうして、あんなひどい所に?あなたには、ぜんぜん似合わない。」
「じゃあ、どんな所が私には似合う?皇帝の後宮だと言うの?それとも、崑崙山の神仙の住む縣圃(けんぽ)の園だと言うわけ?それともあなたは、呉王夫差が西施にやったように、呉の湖水のほとりに宮殿を作って私を住まわせたい?」
どんなに美しく飾った宮殿であっても、しょせんは全て彼女にとって同じであった。それは、見かけだけ華麗なだけの、死んだ巨龍の腹の中に過ぎなかった。
「冗談じゃないわよ。私はそのどれも嫌だね。だから、あそこでいいんだよ。」
前と同じように、川のほとりに腰を降ろした。今日は秋の空が、心地よく高かった。
「― さっきのことは、あなたの嫁になれって言いたかったわけ?」
虞美人は、改めて彼に聞いた。
「― そ、それは、、、その、、、」
「私は、結婚はできないよ。結婚は、家と家とをつなげるもの。私にはね、もう家族がないのよ。だから私は結婚をする資格がないの。」
「そんなのは、関係ない!私は、あなたと一緒になりたいだけなんです!」
「― まるで禽獣だね。あなたの言っていることは。人と人とが結び合うのは、一番大事なことなんだよ。だから、結婚には儀式があるんだ。一番大事なことを、祝うために―」
虞美人は、しばし黙考した。
それから、彼に言った。
「結婚には― 六礼(りくれい)があるわ。」
古来より、中国社会での結婚は、六段階の儀式を通じて行なわれてきた。
すなわち、納采(のうさい)。問名(もんめい)。納吉(のうきつ)。納徴(のうちょう)。請期(せいき)。親迎(しんげい)。これを、周代の礼書である『儀礼』では六礼と呼んでいる。
まず男家が媒酌人を通じて女家に結婚の意向を申し込む、納采から儀式は始まる。
それから問名・納吉の儀式で、結婚する予定の男女の吉凶を占う。
さらに納徴の儀式で、男家の者が女家を訪問する。このとき、男家は礼物を女家に持参する。その返礼として、女家からも回礼が行なわれる。
そうして請期の儀式で婚礼の吉日を決め、最後に親迎が行なわれる。親迎では、新郎が媒酌人や近しい男たちと共に女家を訪問し、女家の宗廟に拝礼して新婦を連れて帰ることを報告する。そうして一同は新婦を男家に連れて帰り、こうして晴れて新婦は男家の一員となるのである。
中国社会では、この六礼を古代からずっと伝統的に守ってきた。現代でも少なくとも媒酌人の選定と、納徴の儀式は残っている。日本の、仲人と結納に当るものである。
この複雑な儀式は、男家と女家とを結びつけるために、定められていた。
だから、家のない虞美人にはできないのである。しかし、彼女は項羽に言った。
「礼なしで女を奪うのは、野蛮人のすることよ。それは、私は許さない。礼というのは、人と人とをつなげる、形のようなものだよ― 形を示しなさい、項羽。あなたは、私に納徴をしなさい。」
「納徴?」
「そう。あなたが私を迎えに来るからには、礼のための品を贈らなくては、だめよ。何を贈ってくれる?ありきたりのものでは、私は受け取れないよ。」
虞美人の、謎掛けであった。それは答えの決まっていない、謎掛けであった。



