「戻るんだね?」
虞美人は、聞いた。二人は、夜を明かして彭城に戻っていた。
「ええ。呉に戻らなればなりません。」
項羽は、答えた。
「天下を取りに、だね?」
彼女は、にこりとして問い掛けた。
「― はい。」
項羽も、にこりとした。
項羽は、彼女を呉に連れて帰る思いを、振り切った。それでは、自分は幸福になってしまう。ここで、自分は幸福になってはならない。項羽は、そう思った。そして、虞美人もそれを言わずとも理解した。
(次に彭城に戻ってくるときには、私は全てを手に入れに来ます。あなたも、そして、天下も―)
これが、項羽が虞美人にささやいた言葉であった。
(早く、戻って来てよ― 私は、もうせっかちなんだから。そんなに長く、待てないよ。)
これが、虞美人がささやき返した言葉であった。
「それでは!」
項羽は、虞美人に言い残して、馬を蹴った。
彼は、今度こそすぐにでも戻って来るべき思いを固めていた。
虞美人の屋敷の前には、以前の厩司御がいた。彼女は、この路地で崇拝者たちに守られていたので、あやしげな地区であっても安全なのであった。
彼は、今日久しぶりに顔を見た少年と虞美人とが、抜き差しならない親密さとなっていたのを見た。
項羽が去った後に、彼は虞美人のところに近寄って、言った。
「また、あなたは男を破滅させようとする―」
虞美人は振り返って、厩司御に言った。
「破滅?― 違うよ。期待しているのよ。大きな魂を持った、男に。あの子は、誰とも違うわよ。」
振り返った虞美人の顔は、あまりにも明るかった。それを見て、厩司御は深く嘆息した。
(― ああ、何という人だ!)
厩司御は、彼女の恐ろしさに嘆息すると共に、彼女たちの世界に行くことができない自分に対して嘆きを漏らした。
「― 今の私には、妻など要りません。どうか、お断りを願います。」
項羽は、呉に戻って叔父の項梁に拝礼して、言った。
「、、、お前と、いう奴は!」
叔父が何度言い聞かせても、甥は決意を改めなかった。甥がこれほどまでに自分に反抗したのは、少年時代に習い事をさせていた時以来のことであった。
叔父と甥との仲は、ついに険悪となった。
それから何日も、叔父と甥は口も利かなかった。
二人が仲違いしているという噂を聞いて、ほくそえんだのは、郡守の殷通だった。
(項梁は、どうも私の手から逃れようとしている。だが、そうはいかん。甥の項羽と、引き離してやろう― あやつの評判は、最近とみに高い。今やあいつの評判あっての、項梁だ。甥がいなくなれば、あいつも大きな顔はできないだろうよ。)
殷郡守は、項羽を自分の屋敷に呼び出した。
郡守は、項羽に言った。
「項籍よ。私はお前を、咸陽に推薦することにした― お前の働きは、武官としてまことに素晴らしい。今、国はかつての歴戦の将軍たちの多くが物故して、目ぼしい人材は蒙恬将軍ぐらいだ。お前の武勇と機略は、国が真に必要としているものだ。今ならば、お前は大いに栄達が望めるであろう。」
郡守は、にこにこと長者顔をしながら、下座で平伏する青年に言った。
(これまでも、この男を推薦しようとして項梁に打診してみた。だが奴め、言を左右にして聞こうとしなかった。こうなれば、直接引き抜いてくれるわい―)
だが今の項羽は、そんな底の浅い郡守の下心などで、動く男ではなかった。
項羽は、やおら顔を上げた。
そうして、郡守を睨み付けた。灰色の瞳は、狼のように冷ややかであった。
郡守は、その異形の目にいきなり見透かされて、心底で戦慄を覚えた。これほど恐ろしい目は、郡守の初めて見るものであった。彼は思わず座から飛び上がって、後じさった。
すくみ上がる郡守を前に、項羽は口を開いた。
「― 私は、官を辞すことにします。これ以上、秦の政府と働きたくありません。」
「な、、、なんだと!」
「申し上げた通りです。私は、秦の政府と関係を切らせていただきます。それ以上申すことはございません― 御免!」
そう言って、項羽は席を立ち、郡守の屋敷を後にした。
門の方角から、馬のいななき声が聞こえた。あっという間に、項羽は帰っていった。
残された郡守の心は、先程の瞬間の恐怖が次第に引いて、やがて怒りに変わっていった。
「おのれ、、、叔父も甥も、よもや逆心があるか?」
だが、郡守は激しい怒りを長続きさせることを、あえてしなかった。
郡守は元の座に座ったままで、しばらく黙っていた。
その後、もそもそと独りでつぶやいた。
「― 奴らを捕縛することなどは、たやすい。」
そうして彼は、方針を出した。
「ゆえに、、、置いておくべきだ。咸陽は、ますます混沌としている。混沌を乗り切るためには、手元に色々な道を残しておくべきだ、、、」
項羽は、馬を駆って家に戻った。
その勢いに驚いた従弟の項荘が、声を掛けた。
「表兄、郡守に呼びつけられたとか。叔父上が怒っていま、、、」
しかし項羽は、従弟のことなど気にもかけずに、叔父の項梁がいる部屋に直行した。
簾をじゃっ、と開けて、中に入った。
中には、貧相な叔父がいつものように座っていた。
項羽は、入るや否や座りもせずに、外にも聞こえるほどの大声で叔父に言った。
「叔父上!私は、秦を倒しに行きます!」
そう言って、叔父の前にどっかと座った。
後ろで見ていた項荘は、彼の言葉に震え上がって、あわてて周囲を見回した。
しかし項梁は、目の前に座った甥の言葉に少しも動じることがなかった。
彼は、久しぶりの言葉を、甥に向って言った。
「― 彭城に、行きたいのか?」



