項梁は、最近の項羽が何をしているのかなどを、とっくに知っていた。
彼が、彭城の妓女に心を奪われ、それで嫁取りの話を断ったことも、叔父にとってはあまりに分かりやすい行動であった。
叔父は、甥に言った。
「激情に任せて、走って、すぐに転ぶだけだ。お前が、これほどまでに愚かだとは思わなかった。結局、お前は黄口の孺子(こぞう)だ。大なる事業が、できるはずもない。」
彼は、ますます偉丈夫となった甥に、視線をやった。
少年の頃から、世話をし続けてきた叔父であった。これまでに何度も叱ったが、甥は叱るたびに知力も気力も大きくなった。それで、これまで見逃してきた。しかしながら― 大きくなった末の甥は、項梁の目から見ていまだにくちばしの黄色い子供のままであった。
「どうして、待つことができない?今はまだ、動くべき時期ではないのだ。お前には、なぜそれが判断できない?」
項梁は、項羽に問い掛けた。
だが、項羽は叔父に答えた。
「― 叔父上は、待っているだけです。なすべきことがあるのに、待っているなどはしょせんその志が嘘だからです。すぐにでも何かを始めなければ、何も起りません。天下は、動くことを待っているのです。私は― 秦を倒して、天下を取るつもりです。この世界を、変えてみせようと思います。これは、最も大なる事業です。最も大なる事業は、他の誰かが行なってはくれません。」
項羽は、灰色の瞳で叔父を見た。項梁が感想を持ったとおり、少年の頃から何一つ変わらない魂の子供が、そこにいた。しかしその子供は、力も気も項梁の予想を上回るほどに、大きく育っていた。そこだけが、叔父の目算の外れていたところであった。
項羽は、さらに叔父に向けて言った。
「大人ぶってだらだらと事を進めるなどは、明日がこのまま続けばよいと思っている、百姓の知恵です。叔父上は、復讐などと言っておきながら、結局自分の身が可愛いのですか?このまま何もなく続けばよいと、心の底で思っているのでは、ないのですか!」
ここまでの不遜を叔父に対して言ったのは、長年連れ添っていてこれが初めてであった。項羽は、叔父を正面から見据えた。思えば、叔父の顔を対等の視線で見据えたのは、少年のときに叔父に口答えをした時以来であった。
項梁は、項羽のこれまでにない鋭い視線から、今は目をそらすこともなかった。やがて、叔父の表情から少しずつ厳しさが消えていった。叔父は、口を開いた。
「― そのようなはずが、あろうか。」
項梁は、目を閉じた。
それから、おもむろに両手を鼻の下に持っていった。
項羽は、あっと驚きの声を挙げた。
項梁は、口の髭(ひげ)を取った。彼の髭は、付け髭であった。
それから、頬の髯(ひげ)に手を伸ばした。巧妙にごまかしているが、これも偽の髯であった。項羽は、長年彼と共に居ながら、彼が付けひげをしていることなど、全く知らなかった。彼は、昔の自分のことを、これまで甥に一切語らなかったのである。
ひげを取った項梁の顔は、老婆のようであった。彼は、甥に言った。
「― もはや、私の五体は損なわれている。」
「ど、、どうして?」
「古来から、国が敗れると勝った国は滅ぼした国の子弟を奴婢とするのが、常である。秦の繆公(ぼくこう)に仕えて国のいしずえを築いた百里奚(ひゃくりけい)もまた、もとは虞の大夫であったのが、亡国によって捕らえられて奴婢とされた。そして、秦公に売られて見出された。亡国の歴史には、いつもこのような敗者の悲哀が隠されている。」
項梁は、初めて甥に自分の過去を話し始めた。
「最後まで秦に抵抗して死んだ項燕の子弟もまた、そうであった。彼の子の一人が父に付き従っていて、秦に捕らえられた。秦の官は、彼が聡明なことに目を付けて、秦王の宦官として仕えさせることを思い付いた。それで、その男は去勢され、咸陽に送られようとした。しかし、隙を狙って逃亡した。」
秦は、六国を滅ぼすたびに、各国の王の後宮をことごとく接収した。楚王の後宮は、さすがに大国だけあって、とりわけ大きかった。楚に進駐した秦の官吏は、女どもを咸陽に送ると共に、附属の閹官(えんかん)も手配しなければならなかった。数を合わせるために、戦役で捕えた捕虜に目を付けた。それで、何人かの者が選抜されて、陽物を断たれることとなった。
「その去勢された項燕の子が、この私だ― 私がおまえの前に現れたのは、秦から私が逃亡した後のことであったのだ。このように、もう私には、子ができない。だから、私はお前を後継ぎであると思っている。」
どうして、今まで気付かなかったのか。
項梁はもう年配なのに、妻も子もいない。下相にいたときも、この呉に移ってきてからも、女を近づけている気配すらなかった。それで、少年の頃から近くにいた項羽は、いつしか男というものはそのようなものだと思い込むようになっていた。項羽がこれまで異性に対して極めて奥手であったのは、叔父と共に過ごしていたことが原因であったに違いない。
項梁にとっては、どんなに考えが未熟であっても、この甥しか期待できる男はいなかった。やはり、彼は甥に甘かった。少年時代と同じ甥の真剣な瞳を再び見たとき、彼はこの甥を守ってやるのが自分の使命であると感じたのであった。それで、彼は甥に言った。
「この私とて、心中はずっと憂悶している。お前以上にな。だがな、籍よ。私は、父と共に秦と戦って敗れたから、知っているのだ。秦は、強い。お前が今飛び出して行って勝てる相手では、ない。あの秦王― 始皇帝を、あなどってはならない。たとえお前にどれほどの力があろうとも、お前は始皇帝に決して勝てない。始皇帝は、天下全てを動かすことができる。彼は、支配の天才なのだ。彼が頂点にいる限り、秦の官人武人は威圧されて思いのままに操られる。その天才が支配している以上、正面から戦っては誰も勝つことができない。秦に隙ができるとすれば、始皇帝がいなくなった後でしかない。私は、それを待っているのだ。憂悶しながら、待っているのだ、、、籍よ!」
今や項梁は、項羽がごく小さい頃にしか見せなかったような、優しい語り方に変わっていた。項羽は、急に昔の叔父を思い出した。彼から、今までどれだけの恩を受けたかを、思い出した。彼は、多感な心の男であった。いつしか項羽は、胸ふさがれてうつむいて叔父の言葉を聞いていた。
「天下を、取るか。よいだろう。この私が、お前の道を拓いてやろう。お前には、あふれる才能がある。きっと、天下と渡り合うに十分な才だ。だが、お前は純粋すぎる。世界は、そう単純ではないのだ。お前一人だけでは、お前自身の火によって、いつか焼け死ぬだろう。お前には、分別ある者の支えが必要なのだ。まずは、分別臭いこの叔父の言うことを、聞くがよい。私を踏み台にして、天下を取るがよいさ―」
「叔父上!」
項羽は、涙をあふれさせた。叔父は、優しく微笑んだ。項羽のこれからの道は、項梁がまずは拓くことになるであろう。



