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二十 巫祝の歌(3)

(カテゴリ:102伏龍の章

古来、天地の神々と感応して人間の業を超えた言葉を語る者を、巫(ふ)あるいは覡(げき)と称した。巫は女性であって、覡は男性である。神を祝(まつ)る職業であるので、巫祝(ふしゅく)とも言われる。巫祝とは、ふだん日常生活に捉われている人間たちに、天地神明の真意を伝える存在であった。いにしえの人たちは、神々を畏れて敬虔であった。巫祝は、人々の宗教観が求めた神聖な職業であった。

しかし時代が下るとともに、人々は神聖なものに対する感覚を失っていった。巫祝もまた、畏れられる存在から蔑視される存在へと次第に凋落していった。
この時代において、すでに巫女などはよほど胡散臭い目で見られるようになってしまっていた。特に、若い世代はそうであった。今日の宴会に集まった年若の者たちは、奇妙な服装をした老巫女が突然満座の前に踊り出て、しかも主催者から一曲歌うことを許されたことに、戸惑いを禁じえなかった。
父老たちぐらいの世代ならば、まだ神がかりの習俗が色濃く残っていた時代の記憶がある。昔は、確かに祭りで神に祈る際には、恐ろしいまでの物狂いの空気があったような気がする。しかし、いつしかそれは失われていた。巫祝の者などは、近年は祭りの席ですら呼ぶことが絶えてしまっていた。それで、ここでの孔巫女の登場は、失われたいにしえの空気を呼び覚ますかのようなものであった。
巫女は、腰鼓(ようこ)を脇に抱え、立った。
瞑想しているかのように、静止していた。
かと思うと、おもむろに腰鼓を柳の枝で叩きながら、節を取った。
「アイヤー!」
とか何とか、聞くに堪えない奇声を発しながら、歌い踊る。その姿は、まさしく巫女であった。
やがて孔巫女の口から出た歌は、長大な賦であった。
内容は、中国の始祖伝説を語ったものであった。
盤古(ばんこ)が、混沌の卵より天地を分かち開いた。
伏羲(ふくき)が、天下を治めた。この人面蛇身の王は、易の八卦を作った。
女媧(じょか)の後を、神農(しんのう)が継いだ。女媧は伏羲と同じく人面蛇身であり、神農は牛面人身であった。これらの人に非ざる三代の王は、三皇と呼ばれた。彼らは、人間たちに農業、漁撈、商業を教え、家族の制を定めて楽器を発明したという。こうして、文明が始まった。
軒轅(けんえん)が、荒ぶる諸侯の蚩尤(しゆう)を討伐して、混乱した天下を再び治めた。軒轅は即位して、黄帝(こうてい)と号した。人間の君主の歴史は、この黄帝より始まる。いっぽう黄帝に敗れた蚩尤は、後々まで軍神として祀られることとなった。
黄帝から続く高徳の五人の君主は、五帝と呼ばれた。五帝が治める時代は、人類の黄金時代であった。
五帝の最後に数えられる舜が、禹に位を禅譲した。禹の子孫は、ついに世襲王朝を開いた。夏王朝である。
夏は滅び、殷が興った。その殷もまた滅び、周が代わった。周は古公亶父(ここうたんぽ)に始まり、文王によってその名天下に轟き、その子武王がついに殷の紂王を亡ぼした。それは、天命のなせる業であるかな。だがその周もまた、いつか天命が去り往く。天は公明にして、非情なるかな。子々孫々まで繁栄が永遠(とこしえ)に続かんと願うのが、人の心。しかし、人の心を越えて、世界は変わり行き、陰陽は回転する。人よ、畏れるがよい。天命を、畏れるがよい、、、
賦は、長々と続いた。
初めは驚き怪しんだ聴衆も、ようやく飽きかけてきた。
確かに奇矯であったが、慣れればずいぶんと退屈な歌であった。昔の孔巫女ならば美的でもありえただろうが、今となっては美しさなどはどこにもない。聴衆は、さっさと終わってほしいと、思い始めていた。
だが、賦の最後を締める句は、このような語句であった。

祖龍亢兮 已在咎   祖龍亢(のぼ)りて、すでに咎あり
始皇死兮 秦地分   始皇死して、秦地分かる

「!」
居合わせた蕭何と曹参は、背筋が寒くなった。
孔巫女は、この最後の句を、まるで婿の劉邦に聞かせでもするかのように、繰り返し繰り返し吟じた。

祖龍亢兮 已在咎   祖龍亢りて、すでに咎あり
始皇死兮 秦地分   始皇死して、秦地分かる
始皇死兮 秦地分   始皇死して、秦地分かる
始―皇―死―兮    始―皇―死し―て
秦―地―分      秦―地―分かる―!
・・・

「では、さらばじゃ!」
賦を歌い終えた孔巫女は、そう言い残して座を離れると、脱兎のごとく駆け去っていった。
居合わせた者たちの中に、異様な空気が残された。
曹参は、いっぺんに酒が覚めた。
蕭何は、沈黙していた。
呂公は、厳しい目に変わっていた。
劉邦は、孔巫女の去った後の座の中心を、じっと見据えていた。
呂雉は、どういうわけか、微笑んでいた。今日の座に、興趣を感じたのであろうか。

この時から、二年ほど後のことである。
沛の北西にある東郡に、隕石が落下したという情報が、咸陽に入ってきた。
隕石そのものが、問題なのではない。
その隕石の表面には、始皇帝を呪う大逆の言葉が彫り付けられていた。
誰がその大逆の言葉を隕石に書いたのか、全くわからなかった。
しかし、誰かが書いたに違いないかった。始皇帝は、天の意思などを全く信じなかった。
ゆえに、直ちに東郡全域に詔を出した。

住民は三日以内に下手人を役所に差し出せ。さもなければ、大逆の罪人をかくまった罪として、全員死罪とする。

しかし、罪人は出てこなかった。実は、この東郡にはすでにいなかったのである。いない者を差し出しようがなかった。
始皇帝は、法の通りのことをした。
隕石の落ちた近辺の住民を、ことごとく連座の罪で死罪としたのである。大逆の罪は、必ず罰しなければならない。そうしなければ、皇帝の権力がゆらぐこととなる。法を厳しく適用することだけが、「勢」すなわち皇帝の持つ国家権力を用いて人民を統治するための、最高の方法なのである。法家思想が教える通りの、措置であった。
隕石に書かれてあった文字はもちろん極秘とされたが、一週間のうちには巷中に広がっていた。そこには、このように書かれてあったという。

― 始皇死して、秦地分かる

沛や豊の人々は、互いに言い合った。
「どこかで、聞いたことがないか?」
「さあ―?」
これは、おそらく人民の反秦感情を増すために、誰かがあえて仕組んだことであるに、違いなかった。しかし、それが誰かを、秦の政府はつかむことができなかった。

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第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



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