蕭何は、郷里に戻っていた時期に、こう決意したのであった。
(― やはり、私は心を枉げてはならない。嫂さまも、私にただのつまらぬ官吏になどなるなとおっしゃられた。私は、人のためになすべきことを、まずは為さなければならない、、、阿瑾よ。私は世渡りが下手な男だ、、、許しておくれ。)
蕭何は、自ら沛県にやって来た。
真っ先に向ったのは、自分の同郷人である、劉邦のところであった。
彼は、豊の劉邦の家を訪問した。彼が結婚してから構えた、新居である。
呂雉が、出迎えた。
「― 蕭先生ですか。また豊にお戻りに?」
蕭何は、この劉家の太太(おくさま)に告げた。
「本日は公務で参りました。ご主人どのは、おられますか?」
「劉邦なら、、、いませんよ。」
家の中には、二人の子がいた。上の娘と、生まれたばかりの男の子であった。
呂雉は、この三年で農家の女になっていた。
夫は相変わらず遊び回ってばかりであったが、妻はこの豊にすっかり根を下していた。彼女はいつの間にか、劉家一族の中で一番影響力のある太太になっていた。父の太公や兄弟たちまでが、今やほとんど彼女の支配下に置かれているかのようであった。
婚礼の時には見事な美しさを披露して周囲にため息を付かせた彼女であったが、三年の経った今では美しいというよりもすっかり女傑であった。しかしこれも彼女にとっては、心中の有り余る気概の出し方が、別の方向に変わっただけのことであった。
蕭何は、彼女に聞いた。
「で、彼は今どこに?」
呂雉は、くすりと笑って答えた。
「― 妾のところに、行ってますよ!」
「め、妾?」
蕭何は、あきれてしまった。
呂雉は、夫の行動を全て読み取っていた。彼女は、付け加えた。
「でも、そのうち戻ってきますよ、、、私に会いに。だからしばらく、この豊でお待ちください、蕭先生。」
劉邦は、翌日帰ってきた。
彼は、今も相変わらず泗水の亭長であった。官吏の秩序の中で出世することなど、鼻にもひっかけようとしない彼であった。そのくせ、彼の存在感が沛県の県令などよりもすでに大きいことは、もはや誰もが知っていることであった。そういった中で、結婚後も劉邦は悠々と遊んでいた。結婚したからといって何一つ変わらないのは、すでに婚礼の晩に妻に申し渡した通りであった。
「― 帰ってきたぞ!」
「― お早いお帰りで。」
「早いも何も、今日が非番日だ。非番日だから、帰宅して来たのだ、」
呂雉は、何食わぬ顔をしてふふんと笑った。
「― 何がおかしい?」
劉邦は、聞いた。人の心の盗賊を自任する彼ではあったが、この妻の前では大きな子供以上の何ものでもなかった。
「いえ。それよりも、先日野良に出ていて、嬉しいことを聞かされました。」
「ほう。どんな?」
「私が子供たちを連れて草取りをしていると、見知らぬ老父が寄って来て、水を欲しいと申しました。それで、水を与えて、ついでに飯も分けて与えたのです。老父はいたく感謝して、私たちを見ました。すると、『私は観相術が得意でしてな、、、ご夫人の人相は、天下の貴人です』などと、申すのです。」
「― お前の父上と、一緒の趣味であるな。」
「― しかし、我が父は生前私にそのようなことを申したことは、ありませんでした。」
呂雉の父の呂公もまた、この三年の間にすでに他界していた。
彼女は、続けた。
「その老父は、さらに言いました。『この嬰児(ややこ)の人相が、あまりに貴い。それで、面影を残す母君までが、貴くなっておられるのです。おそらくご主人こそが、あなた方の貴さの源でありましょう、、、それでは。』と申して、立ち去りました。」
呂雉は、明るい顔をして夫に言った。
父と同じ言葉を聞いたことが、彼女にとってはとりわけ嬉しかったのであった。
劉邦は、言った。
「― 観相術も、あてにならんな、、、」
呂雉は、答えた。
「そんなことは、ありませんよ!」
彼女は、夫の言葉に怒った。彼女は、夫に対して真剣であった。真剣であるゆえに、これまで夫の細かい悪さは気にしないでいるのであった。
彼女は、怒りのあまりにもう少しで夫に言うべき用件を、忘れてしまうところであった。
「あっ、、、そうだそうだ。あなた、お客が待ちかねておりますよ。」
「客?、、、誰が?」
「郡役所の蕭先生ですよ。昨日から、あなたにご用があると申して豊に戻られております。」
「あいつか。嫂(ばあ)さまの葬儀があったのに、また戻って来たのか、、、」
蕭何が、劉邦の家に再びやって来た。蕭何が配転してからは、顔を合わせることも少なくなった彼らであった。先日葬儀のために蕭何が戻って来たときに、久しぶりに顔を合わせたくらいであった。
「蕭何、、、俺に用とは、どうした?」
劉邦は、聞いた。
「― 劉亭長。あなたが、沛県で最も実力がある男だということを見込んで、話に来たのです。」
蕭何は、腰を低くして劉邦に言った。
彼は、本題を言った。
「実は― 今度、泗水郡にまた咸陽への徴発の命令が来ています。これだけの、員数です。」
蕭何は、郡内の各県への割り当て人数を、語り始めた。
劉邦は、その数を聞き終わって、言った。
「― それは、無理だよ。」
蕭何は、言った。
「無理だと思ったから、私はあなたのところに来たのです。沛県を鎮めることができるのは、あなただけです― どうか、無謀な蜂起などにならぬように、郷里を抑えていただけないでしょうか、、、!」
蕭何は、劉邦に平伏した。
劉邦は、無言で蕭何に向き合っていた。



