しばらく考えた後、劉邦は言った。
「― 俺は亭長だ。亭長は、徴発の人員を引率するのが仕事だ。今回の徴発も、俺が引率することになるだろう。」
蕭何は、黙って劉邦の言葉を聞いていた。
「上からの命令どおり、割り当ての人夫を引率しようではないか。そうしなければ、県庁が困るだろう。」
「では、引き受けてくれるか、、、?」
「まあ待て。引率は、する。だが― 咸陽には、たどり着けないだろう。」
「なに?」
何を考えているのか?
蕭何は、不審に思った。
劉邦は、言った。
「誰が好きこのんで、今の咸陽になど行くものか。郷里では、耕す手すら足りないのだ。その上最近の咸陽は、昔に比べて労役の監視がますます苛酷となっている。逃亡者の数が多すぎて、工事がはかどらないんだよ。それで現場では業を煮やして、通常の人夫ですら奴隷並みに拘束している。少しでも不審な動きが監督の官吏に咎められれば、死刑だ。そのような地獄に、郷里の者を連れて行けるかよ。」
「じゃあ、、、どうするつもりなのか?」
「引率は、する。しかし、いつの間にか、人夫どもはいなくなるだろう。どうせ大人数だ。県庁も、奴らがどこに行ったかなどは、掴めはしない。それが、郷里の者たちの命を守る、唯一の道だ。」
劉邦は、まるで事もなげに言った。
蕭何は、劉邦を厳しい目で見据えた。
(亭長の役職を使って、逃がすというのか、、、)
だがそれは、明らかな法令違反であった。官吏にとって法令に違反することは、死罪を意味する。このとき劉邦は、国家への反逆を蕭何の前で表明したのであった。
「劉季、、、この私の前で、それを言うのか、、、?」
蕭何は、つぶやくように聞いた。
劉邦は、言った。
「言うさ。お前は、ただの官吏ではない。俺の味方だ。」
蕭何は、答えに詰まった。
劉邦。
この男は、確かにただ者ではない。
自分などの官吏とは違う世界を、見ている。
この男は、一見無計画なように見えて、実は恐ろしく計算高い。
(生きる自信があるというのか、この男は、、、?しかし、彼でなければ、郷里の者の命は守れないであろう、、、)
長い沈黙の後に、蕭何は劉邦に聞いた。
「劉季、、、それであなたは、どうするつもりなのですか?」
劉邦は、まるで世間話のように答えた。
「行くさ、、、闇の中へ。そろそろ、その時期だ。」
闇の、中へ。
いつかはその時が来るとは、劉邦は思っていた。それは、彼が本来生きていくべき世界だと直感していた。しょせん劉邦は、日常の世界では本当の生を掴むことが、できない人間であった。
(闇の中を、泳ぐ。そのとき、俺は最も強くなるだろう。)
以前に夏候嬰の事件で県庁に捕まったときには、逃げなかった。まだ、その時には彼は何ものでもなかった。それで、まだ闇に消える時期ではないと思った。
(今ならば、闇を泳げる。その上、天下全体が闇に近づいている、、、俺には、わかるのだ。)
それは、彼の五体から来る感覚であった。
「― まだ、疑っている。」
劉邦は、蕭何の顔を見て、言った。
「無理もない。お前は、天下の表面しか見る力がないからだ。ならば、教えてやろう。」
劉邦は、表の世界からは隠されている情報を、語り出した。
「― 淮水の南に、六(りく)という城市がある。この城市の出身で、英布という男がいる。今、この男は南で群盗を組織している。その下には、驪山の刑徒の主だった奴らが、続々と集まり始めている。」
「北の鉅野には、彭越という奴がいる。これは、湖賊だ。鉅野の周辺は、秦の政府の手が届かずに、もはや無法地帯と化している。こいつは、一たび事が起これば魏の大梁を食うことを密かに画策している。」
「呉には、項梁という男がいる。実質、会稽郡はこの男の手中にある。こいつは、楚の項燕の実子だ。あの楚の英雄の項燕の子が何を考えているか、だいたいわかるだろう。」
「さらに、楚の某所には、張耳という親父が潜伏している、、、へへへ。周辺の悪少年どもを煽動して、秦の政府への造反を用意している、、、」
蕭何は、目を険しくして聞いていた。
いずれも、彼の聞いたことのない話であった。
劉邦は、言った。
「― こんなのは、ほんの一部だ。楚は、今や全域でほとんど一触即発だよ。」
「それは、、、何かの間違いであろう。」
「間違いであるかどうかは、見える者にしか見えない、、、だから、俺は行くのさ。いずれ、俺が沛を手に入れるために。」
劉邦には、裏の世界からの情報があった。
その上、呂家と関係を持ったために、彼の情報網はさらに拡がっていた。
「― もう一度、聞く。私が、あなたの造反を見逃すと、思っているのか?」
言って、蕭何は劉邦を見据えた。
そのとき彼は、最も厳しい目をしていた。
劉邦は、しかしいつもの目で答えるだけであった。
「当然だ。お前は、沛の人間だ。そして、お前の行き先を教えることができるのは、秦の政府ではなくてこの俺だよ、蕭先生、、、」
劉邦はそう言って、にこりと笑った。
蕭何は、それから一言も言わずに、劉家を後にした。
数日後。
再び何日か留守にしていた劉邦が、自宅に戻って来た。
呂雉が、夫に告げた。
「― 蕭先生が、先日またいらっしゃっいました。」
「またか。何か言っていたか?」
「いえ。ただ、これを置いていかれました。」
妻が見せたのは、紐に通した銭の束、五本であった。
「五百銭、、、」
劉邦は、手に取った。
「以前、咸陽に俺が刑徒を引率に行ったときと、同じ額だ。あのときも、奴は金もないくせに、俺に五百銭を餞別に寄越してきた、、、は、は、は。やはり奴は、俺の味方だ!」
呂雉は、夫に聞いた。
「― 何を、お考えなのですか?」
だが夫は、答えた。
「これからの、俺の仕事のことさ。」
妻は、夫の不審に直ちに気付いた。



