その後、沛県では命ぜられた通りに、徴発が行なわれた。
これまでにない程の、人数であった。
引率を行なうのは、亭長の劉邦と決まった。
「以前にも俺は、咸陽に行った。途中の道も詳しい。俺しかいないだろう。」
劉邦は、現在県庁で一番有力な属吏となっていた、曹参に言った。曹参は、彼に使命を預けざるをえなかった。
出発の日は、明日に迫っていた。
劉邦は、つとめて平常どおりの生活をしていた。
呂雉は、蕭何が夫を訪れて来て以来、彼に対して本当は何を考えているのかと、幾度となく聞いた。彼女は、すでに夫が何かを企んでいることを、勘付いていた。だがそれに対して劉邦は、ただの徴発の引率にすぎないと、答えただけであった。
しかし、前日に閨(ねや)の中で、劉邦は彼女に言った。
「― 俺は、必ず帰ってくる。」
彼は、横にいる妻の視線を、あえて受けなかった。それから、付け加えた。
「、、、お前のもとに。」
呂雉は、夫の言葉を聞いて、大抵のことを悟った。
(、、、厳しいことを、お命じになる、、、)
劉邦は、それ以上の言葉を、妻に言わなかった。
(― どうすればよいかは、お前ほどの女ならば、自分でわかるだろう。)
彼は、そのように思ったのであろうか。
出発の日。
徴発の人員が、沛の県庁前に続々と集まってきた。
曹参と夏候嬰が、見送りのために出て来た。
曹参は言った。
「大人数だな、、、県内各地から集まっているからな、、、ん?」
彼は、群集の中に見覚えのある顔を見た。
廬綰と、樊噲であった。
「あいつら、、、徴発に行くのか?」
曹参は、横の夏候嬰に聞いた。
「そうです。志願したんですよ。」
曹参は、つい本音を言った。
「なぜ止めない、、、咸陽などに行ったら、帰って来れないかもしれないぞ。」
夏候嬰は、答えた。
「帰ってきますよ、、、絶対。」
そう言って、にやりと笑った。
曹参は、思った。
(こいつら何かを、考えている、、、)
だが、彼はそれ以上を聞くことを、敢えてしなかった。
しばらくして、泗水郡の郡役所は困惑し始めた。
今回の徴発の人員は、まず郡役所に集合することになっていた。だが、沛県からの人員がいつまで経っても来ない。
所定の日からは、もう五日も経っている。郡役所では、不審に思って途中に通過するはずの亭や城市に問い合わせをした。調べてみると、なんと沛県から向こうに行った形跡が、見て取れなかった。
「脱走か、、、!」
郡役所は、慌てた。
その後、蕭何は馮監御史に呼び出された。
馮監御史は、蕭何に言った。
「― お主は、沛県に行っただろう。何か、知っているのか、、、」
蕭何は、答えた。
「― 存じません。」
馮監御史の顔は、強張っていた。彼は、拳を固く握り締めて、部下に問いただした。
「― 今回引率した官吏は、亭長の劉邦という者だ。この者は、お主の同郷人であろう、、、何か、聞いていないのか!」
蕭何は、答えた。
「― 聞いておりません。」
馮監御史は、息を荒くしていた。劉邦は、当然死罪に当る。自ら沛県の担当を買って出た蕭何もまた、責任が問われかねない。
「― だが、私はお主を守る。お主を、獄吏になど渡しはしない。蕭何よ、、、」
それから、監御史は天を仰いで、無言となった。
蕭何は、こう言うしかなかった。
「― ご配慮、まことに感謝いたします、、、」
結局、それ以降に馮監御史から御史への推薦の話は、一切聞かれなくなった。
監御史は、疑惑のある彼を推薦するわけには、いかなかったのである。
蕭何は、郡役所から戻って、妻の阿瑾に言った。
「咸陽には― もう行けなくなった。」
「ああ、、、」
妻は、がっかりした顔を見せた。
蕭何は、言った。
「私は、劉邦をかばったのだ。」
「劉邦を、、、?」
「そうだ。お前を捨てた、劉邦だ。あの男は、人を率いて守ることができる。だから、かばった。私は、その方が自分が咸陽に行くよりも良いことなのだと、思ったのだ。お前は、納得できないであろう。だが、私は後悔していない。どうか、愚かな夫を許してくれ。」
二人の間には、しばらくの沈黙が流れた。
それから、阿瑾が言った。
「あなたは、、、それでいいのね。」
蕭何は、言った。
「それで、いい。」
彼女は、答えた。
「じゃあ、それでいいです。」
それから、彼女は付け加えた。
「あなたは、、、決して間違ったことをするお方ではありません。これまで共に暮らし来て、分かっていますよ。」
蕭何は、妻に頭を下げた。



