「沛は、四通八達の土地。楚の入り口ともいえる。私は、昔からここに目を付けていたのだ。」
呂公は、沛の新居で息子たちと対座していた。呂氏一族の新居は、沛の城市の一等地にあった。
「しかし、にわかに移る必要も、なかったのでは?我々は、楚に入るのは始めてです。」
次兄の呂釋之(りょせきし)が、父に言った。
「父上は、斉や魏では飽き足らず、今度新たに楚に赴かれた。父上は、あくまでも人脈を広げようとなさる。しかし、それよりかはもっと国の庇護を得る策を考えたほうが、良くはありませんか?」
長兄の呂澤もまた、父に言った。
「澤よ。たとえば、どのような策があると言うのか?」
父からの問いに、長兄は答えた。
「いっそ、我々のうちどちらかが、あえて官吏になってもよいのでは?商人の身分のままでは、いつまでたっても政府に付け狙われるばかりです。」
「官吏、、、官吏か―」
呂公は、ふっと笑った。
それから、目の前の息子たちを見渡して、思った。
(この二人は、まずはそこそこの器だ。並の世ならば、渡ってもいけるだろう。)
呂公には、四人の子供がいる。この長兄と次兄、それからその下に娘が二人である。父は、この二人の息子の出来はそれほど悪くないと思っていた。しかし、それでも彼の内心には不満があった。
(― だが、並ではない時代を乗り切っていくためには、力不足だ。これから先、何が起こるか全く見えない。秦王の体制は、無理がありすぎる。必ず、揺り返しが起こる。そうなった時に頼るべき人物こそ、私の求めるところなのだが、、、)
「― 父上!」
物思いをしていた呂公の耳に、女の声が聞こえた。
「― 阿雉か。どうした?」
声の主は、彼の長女の呂雉であった。
「県令が、やってきましたよ!、、、追い返しますか?」
彼女の声は、部屋の向こうからでも、よく通った。
「阿呆なことを、言うな、、、お通ししなさい。」
呂公は、長女のいつもの悪い冗談に、苦笑した。
「こちらから出向くべきところを、わざわざ県令から、、、恐懼の限りです。」
呂公は、県令を奥の上座に丁重にお通しした。
「なんの、なんの。頼って来た良民を庇護するのは、県令たるものの務めです。官吏どもには、ご一同の安全を図るようによくよく言いつけております。どうか安心して、沛にご滞在ください。」
呂公が、単父で仇に巻き込まれて居辛くなったのは、事実のことであった。彼はそれを潮時と見て、沛に移って来たのであった。この県令とは、就任してきた時から接触を図ってきた。しかし、今回ここまで丁重に迎えられるとは、呂公も予想外であった。
県令は、言った。
「今度、県庁で貴公を歓迎する、宴席を設けようと思っております。沛の者との顔つなぎに、ちょうどよい機会となりましょうぞ?」
「わざわざ、そこまでしていただくとは―」
「いえいえ。向こうの県からも、貴公のことは何とぞよしなに、と言われておりますので― そちらは、ご子息でございますか?」
「長男の澤と、次男の釋之です。」
二人は、父に紹介されて、県令に平伏して挨拶した。
「よいご子息を、お持ちで― で、それがしをここまで案内された方は、貴公の娘御ですか?」
「長女です。名は、雉と申します。」
「― よいお年頃で、ございますな。」
「見てのとおり、あまり器量良しとは言えず― 貰い手が、付くかどうか、、、」
呂公は、わざと嘆いて見せるような素振りを見せた。
彼は、本当は長女のことを子供たちの中で一番気に掛けていた。ちょっと世間にいない娘だと、思っていた。しかし、彼女に釣り合いそうな男が、なかなか見つからなかった。父の嘆きは、それであった。
一通りの対面を終えて、呂公の一族は家の門まで出て、県令を手厚く送った。
県令の馬車が去った後で、後ろに控えていた呂雉が、父にささやいた。
「― つまらない人ね。」
呂公は、娘の言葉に何も答えなかった。
(阿雉に言われずとも、骨相で分かるわい。小人の相だ。まあ、向こうが丁重に迎えてくれるのだから、乗ってやるさ―)
呂公は、昔から観相術に凝っていた。長年の経験を経て、今では名人の域に達していた。だから顔を見れば、相手のだいたいの器は分かるのである。
県庁で、県令は蕭何を呼んで指示した。
「今度の宴会は、君が取り仕切れ。君の、得意とするところだろう?」
蕭何が宴会などの進行係で欠かせない人物であることは、皆の知っているところであった。
蕭何は、会場の段取りについて言った。
「こういった新参者を歓迎する宴席では、参加者から進物を納めてもらうのが、通常です。新参の者は、何かと出費がかさみますので。来場者からの進物を納めるように、会場内で手配するようにします。」
「それは、そうだな。だが、招待するのは、県内のしかるべき士大夫だけに限定しろよ。あまり下賎の者は、入り込ませてはならん。」
数日後、蕭何は県令に招待する沛の名士の名簿を持ってきた。
「県の上層部の官吏に、各郷里の父老、それと城市の代表的な大人(たいじん)です。」
蕭何は、顔ぶれについて説明した。
「ふん、順当なところであるな、、、ん?」
名簿を見ていた県令の目は、一人の人物の名前のところで止まった。
「― 何だ、この劉邦っていうのは。」
蕭何は、答えた。
「亭長の、劉邦です。以前にも、沛の城市の代表として彭城にも行った者です。」
実は、蕭何はすでに劉邦から、自分を招待するようにと口を出されていたのであった。それで、まあいいかと名簿の末端に置いておいたのであった。
しかし、県令はこの亭長のことが、前々から大嫌いであった。たかが亭長のぶんざいで、県庁で大きな顔をしているのが彼の気に障っていた。それで、彼が自分の主催する宴会に招待されるなど、もっての他であると思った。彼は、直ちに蕭何に怒り散らした。
「劉邦とは、何者だ!たかが亭長ではないか!それが、県の上層部や大人たちと同じ席に立てるとでも、思っているのか!」
「いえ、彼はまず沛の有名人ですし、顔つなぎのためには招いてもよかったかと、、、」
「許さん!あいつは、呼ぶな!よいか、劉邦は、絶対に招待するな!わかったか!」



