蕭何は、県令からの厳命なので致し方なく、来庁してきた劉邦に言った。
「何とも、面目ない。」
しかし、劉邦は激怒するかと思ったら、ずいぶんあっさりとした反応であった。
「まあ、しようがないな。俺は県令に嫌われている、ということか、、、ふん。」
それだけ言って、ぷいと県庁を去ってしまった。
後ろから、夏候嬰が追いかけてきた。
「県令はずいぶんなめた真似を、するじゃないですか。このまま、引き下がるんですか?」
劉邦は、夏候嬰を横目で見ながら言った。
「県令も、蕭何も、まだ俺のことがわかっていない。場を盛り上げるのが、俺のやり方というものだ。」
そう言って、ひひひと笑った。
県庁を出た後に、彼が行くのはやはりなじみの酒店であった。武おばさんの店と王媼(ばあ)さんの店を、一同を連れて回る。金は、払わない。それが、いつもの彼の経路であった。
劉邦は、武おばさんの店に入った。
ところが、今日の店の中には、以外な顔がいた。
「久しぶりでござりまするな、、、七十二の黒子を持つ男よ。」
店内にいたのは、孔巫女であった。劉邦は、飛び上がった。
「ばばあ、、、お前、なんでこの店にいる!」
「どうして、豊に帰って来ぬ。さっぱり会えぬから、こうしてそれがしが自ら参ったのじゃわい。お前は、沛に来ると必ずここに寄るのであろうが。それで、待っていたのじゃわい。」
孔巫女の横には、樊噲がいた。どういうわけか、孔巫女と親しんでいる様子であった。孔巫女は、劉邦に言った。
「この男子は、まことに異相だわい。お前もまた、まれな異相の持ち主。お前らは、主従として、まことにふさわしい。いずれ、お前が頼りにすべき男になろうぞ、、、どうやって、拾って来た?」
「拾って来たも何も、こいつは沛で仲間もいないからな。そういう奴だから、俺の一味に加えているのだ。」
沛の者たちは、この樊噲がいつこの城市にやって来たのか、誰も覚えていない。
ずいぶん昔から、いたような気もする。
しかし、彼の少年時代などを覚えている者は、誰もいない。だから、新参者であるに違いない。
とにかく、気付いたときには市場で目立つ存在となっていた。浅黒い肌に、筋骨隆々の巨体。そして、無口であった。時々市場に現れては、黙々と狗(いぬ)の肉を捌いて売りに出した。一日で売りに出す肉の量は、狗の皮が積み重なって山となる程であった。しかし、驚くほど値段が安かった。儲けというものを、考えていないようであった。正体が知れずしかも巨漢であったので、市場の者は誰も恐れて近づこうとしなかった。
それが、いつの間にか劉邦に従い、禦侮(ぎょぶ。ボディガード)の役を担っている。この辺が、人の心を盗む盗賊である劉邦の、不思議なところであった。
孔巫女は、この店で待っていたものの、酒などは飲まない。それで、すでに店にいた樊噲を相手に何か話をしていたようであった。樊噲の話し相手となれる人物など、沛では滅多にいなかった。この巫女もまた、不可解さでは劉邦主従に決して劣っていなかった。
孔巫女は、劉邦に言った。
「ところで、呂氏が沛に来たであろう。もう会ったか?」
劉邦は答えた。
「まだだ。」
「お前らしくも、ないことでござりまするな。殴り込みに行かんか。」
彼女の言葉に対して、劉邦はとぼけた声で答えた。
「行くよ。もうすぐ、な。」
孔巫女は、そうであろうと言いたげな、満足した顔をした。それから、話を続けた。
「呂氏の当主は、沛でしかるべき人材と近づくことを求めておる。沛の人材と言えば、お前以外にはおらぬ。蛟龍の子よ、お前には人脈が必要なのだわい。呂氏の当主は、各国の事情をよく知っておる。近づけば、お前の力となろうて― そうそう、呂氏の当主と会うときに、これを土産として渡すがよい。」
そう言って、彼女は懐から小さな光る塊を出した。
彼女は、それを劉邦の手に落した。劉邦は、それを手に取って眺めた。
「― 半両銭じゃ、ないか?」
円形で、中央に四角い穴が開いている。重量の単位である、「半両」の文字が表面に刻印されていた。それで、半両銭と言われる。昔から、秦で使われてきた通貨であった。だが、孔巫女が劉邦に渡した銭は、きらきらと光ってずいぶん新しい。ごく最近に、鋳られたもののようであった。
劉邦は、聞いた。
「これが、どうかしたのか?」
孔巫女は、答えた。
「これを渡せば、呂氏の当主ならばわかる。そういう品じゃわい。」
一方、劉邦が酒店に入っている時間には、まだ蕭何は県庁で勤めていた。その蕭何に、県令からまた呼び付けがあった。
蕭何は、県令の官邸に入った。
「お呼びで、ございますか?」
県令は、蕭何に言った。
「蕭主吏。君は、郡の卒史となることが決まった。秋の終わりと共に、郡役所に勤める運びとなろう。郡役所はこの沛からいささか遠くにあるので、身辺をよく整理しておけ。」
馮監御史が、蕭何を手元に置きたいために、県庁から引き抜いたのであった。
「ありがたき幸せに、ございます―」
蕭何は、かしこまって命をうけたまわった。
だが県令は、さらに蕭何に言った。
「それで、秋までの最後の仕事となるだろうが、郡から再び徴発の命が下達されてきている。秋に実施されることとなるであろう。官吏はよく各地の郷里に言い聞かせて、必ず所定の員数を揃えるよう、努めるように。」
やはり、恐れていた徴発が今年も来てしまった。郷里の余力が、果たして残っているのかどうか蕭何には心配であった。郡への配転の喜びも、これから郷里への負担を強いなければならない仕事の重荷によって、彼の心中ではほとんど掻き消されてしまった。



