豊の邑の住民は、最近噂好きになっていた。
蕭何が郡の卒史に配転となる話は、彼が非番で郷里に戻って来る前にもう住民の間で広まっていた。
蕭何の叔父上あたりが、最も話を広めるのに熱心であった。
彼は最近、鄒家の阿瑾の婿取りの相手として、急に甥と並んで劉家の三男が浮上してきたことに、腹を立てていた。
(なんで、うちの何と、あののらくら者の劉季とが、比べられなければならんのだ、、、!)
蕭何と劉邦とが住民たちに比べられていることが、この叔父には不快であった。まるで自分のことのように、誇りを傷つけられたように思えてきた。それで、甥が上層部に見込まれて郡に配転となることとなったという話が伝わると、彼は大いに喜んだ。直ちに、住民にも宣伝した。劉家の三男坊への、反撃であった。彼は、甥が上層部に見込まれたという点を、話をする際にはいちばん強調したのであった。
「最近邑の門の近くに住むようになった巫女は、沛で劉季と近づいているそうではないか。、不気味な老女だ。正体が知れない。全く、得体の知れない奴には、得体のしれない仲間ばかりが集まって来るというもんだ、、、」
叔父上は、帰郷してきた甥の蕭何に、ぶつぶつとこぼしていた。
蕭何は、叔父上に言った。
「叔父上、あまり先走らないでくださいよ。いつの間にか、豊では私と劉季とが争っているみたいな話になっているではありませんか。今の私は、それどころではないんです。」
「郡役所に移る用意などは、我らに任せておけばよい、、、銭が、必要なのか?」
「いや、銭のことなどは、、、」
「向こうの城市で、少しは立派な家でも持てばよい。この際、少しは貫禄を付けるがよいさ。お前はだいたいが真面目すぎて、自分で目立とうとしない。だから、劉季ごときと比べられるのだ。お前は蕭家の出世頭なのだから、もっと自信を持つがよいさ、、、」
叔父上はこのように張り切っているが、蕭何は気が重かった。この秋には、またこの豊にも徴発を告げなければならない。それを、案じていた。
(まだこの豊は沛県の中でも、比較的余力がある。しかし、県内にはもっと窮迫している郷里もある。彼らは、聞いてくれるだろうか、、、)
その日は、蕭何が帰って来たと言うので、蕭家の主だった者が蕭何の家に集まって、食事をした。叔父上たちの夫婦や、いとこたちもやって来てにぎやかであった。
嫂(ばあ)さまも、相変わらず健康であった。彼女は、いつものように一番の上座に座って、悠然と食事を取っていた。
食事が終わると、嫂さまは、孫に手招きをした。
蕭何は、拝礼して彼女の前に進み出た。
彼女は、言った。
「― 何よ。お前は、己と劉季と、どちらが立派な男だと、思っておる?」
孫は、言った。
「嫂さまも、最近の豊の噂のことを聞いておられるのですか?― 私は、自分と人とを比べたいなどとは、少しも思いたくはありません。」
孫の言葉に、嫂さまは微笑した。
「それが、お前のよい所だ。その心を、これからも決して忘れるでないぞ。」
それから、彼女は孫に言った。
「最近、お前と劉季とを比べる話が、豊でしきりに流れておる。面白いものだ。お前ら二人は、全然比べようもない道を進んでおるではないか。お前には、お前のよい所がある。それは、この嫂がよう分かっておる。しかし、劉季は劉季で、あれは実に大した男だわい。豊で立派な男と言えば、お前と劉季、この二人だけだ。それ以外は、取るに足らぬわ。できれば、お前ら二人は仲違いするよりかは、力を合わせた方がよい。お前には、足りないものがある。劉季にも、足りないものがある。丁度ええ組み合わせだわい。同じ郷里の者ではないか。互いが困ったときには、助け合った方が後々のためになるというものだぞ。長年生きてきた嫂の言葉には、間違いは少ない。」
蕭何は、嫂さまの言葉に拝礼した。
「もとより、私は劉季と争おうなどとは、全く考えておりませんので―」
「いやいや、女が絡むとどうしても争いになるからな。だが残念ながら、お前はこの面では劉季に遠く及ばん。向こうが押してきたら、もうあきらめた方がええぞ。これが、差し迫ったお前への忠告だわい!」
そう言って、嫂さまは呵呵大笑した。
蕭何は、嫂さまの調子には全く敵わずに、返す言葉もなくして平伏するばかりであった。
鄒家では、いまだに家長は娘の相手を蕭家の何にするか、劉家の三男にするかを決めかねていた。
蕭何が郡の卒史になるという話は、とうに彼も聞いていた。尾ひれが付いた噂では、中央に召されるのも時間の問題であると言う。中央の命官がどれだけ威勢が良いかは、命官の中でも大した階級ではない県令以下の県の上層部ですらこの沛県で絶大な権勢を持っていることからも、見て取ることができた。
だから、家長の心は傾いた。
しかし、以前昔の仲間から聞いた評判もまた、気に掛かっていた。彼は、最近以前よりもう少し豊の外の話にも耳を傾けるようになっていた。だが豊の外では、圧倒的に劉邦の評価ばかりが聞こえてきた。仲間たちの言ったことは、正しかった。
(あと一押し、何か決め手が欲しいものだが、、、)
家長は、まだ迷っていた。
阿瑾は、当人であるのに相手を選ぶことができなかった。
それで、ますます心中が揺れて不安となっていた。
誰でもよいから、自分に聞いて欲しかった。どちらがよいのだ、と。
聞かれたら、はっきりと言いたかった。
なのに、家の女たちは、誰も自分の意向を聞かなかった。女が嫁ぎ先に対して口を挟むのは家の中で不遜である、という圧力がのし掛かっているかのようであった。阿瑾は、それがあまりに鬱であった。最近は、劉邦も豊に帰ってこない。彼の顔を、見たかった。
(気が変になってしまいそうだよ、、、劉兄。お願い、何とかして!)
阿瑾は、心の中で叫んでは、ふさぎ込むばかりであった。
蕭何が沛に戻ってからすぐの日に、県庁では呂公を迎える宴会が盛大に行なわれた。
蕭何は、進行係として朝から忙しく立ち回った。
県内の各地から、続々と客が詰め掛けた。呂公のことを知っている者もいれば、知らない者もいた。単父の呂公など聞いたことのない者の方が、多数であった。しかし、県令が号令して就任以来の盛大な宴会が行なわれるという話が伝わって、皆が物珍しさに駆け付けて来た。
「これは、予想外に多いな、、、入り切れそうもない。」
蕭何の手元には、事前に届けられた名刺が山のように積み重なっていた。早くも昼前には、会場が手狭であることに気付いた。それで、何とか席順を工夫する必要を感じた。
だが劉邦は、宴会に呼ばれていない。
彼は、この頃王媼(ばあ)さんの店で朝寝していた。昨日少し、飲みすぎたようだ。
彼は、眠たそうな低い声で、言った。
「咽が渇いた、、、熱いものが欲しいところだな。」
横には、樊噲がやって来ていた。劉邦は、寝たままで彼に言った。
「狗の羹(あつもの)でも作ってくれないか、、、樊噲?」



