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十六 一銭万金(3)

(カテゴリ:102伏龍の章

呂公は、言った。
「一万銭、、、これは、どのような方なのですか?」

横にいた県令は、その名刺の名前を見た。
見たとき、顔がひきつった。
県令は、あわてて呂公に言った。
「これは、、、狼藉者です!だまされてはいけません!、、、おい!なんで、この名刺を持って来た!、、、入れるな、絶対に、入れるな!」
県令は、蕭何の方を必死の形相でにらんで、怒鳴り散らした。
蕭何は、無言で県令の指示にうなずいた。
しかし、このとき呂公は県令の言うことを、聞いていなかった。
彼は、名刺の裏を見つめて、「うむ!」とうなった。
名刺には、たった一枚の半両銭が、くくりつけてあったのであった。
「これは、、、」
呂公は、その半両銭を取った。
鋳たばかりの銭は、きらきらと白銅色に輝いていた。
呂公は、銭を結わえ付けてあった紐を断ち切って、目の前でまじまじと見た。
彼は言った。
「― この客は、ただものではない。会いに行かなければならない。」
呂公は、横の県令に「失礼!」と言って、座を立った。
それから、横で棒立ちしていた蕭何に言った。
「この名刺の者のところまで、案内しなさい。直接、挨拶に行く。」
申し付けられた蕭何も、座に残された県令も、あっけに取られるばかりであった。
呂公は、自らの足で門にまで出向おうとした。
蕭何は、廊下を進む呂公に対して、進言した。
「一万銭なんて、とんでもない!劉季とは、言葉が大きいだけの男です! これは、乱入しようとしているのです!中に入れれば、何をしでかすか分かりません!」
このとき、主吏の蕭何は、常識人であった。
人としての常識を踏み外さないことが、彼の嫂(ばあ)さまが孫を評価する最も大きな点であった。しかし、このときの彼は、常識人であることが、職務を守る小役人の役どころを演じさせてしまった。
その主吏を、呂公はちらと一瞥しただけであった。
一言も主吏に言葉を返さず、彼の歩みは、何一つ変わらなかった。
結局呂公たちは、門のところまでも進む必要がなかった。
すでに劉邦が属吏たちの制止を押しのけて、堂内に入りかけていた。押しのけたのは、彼に付き従う樊噲であった。
呂公たちは、堂内の廊下で、彼らの一行に遭遇した。
劉邦は、劉氏冠に真紅の袍(うちかけ)の奇装であった。
王媼(ばあ)さんの店で寝転がっていた朝の時間とは打って変わって、いつもの人を驚かせる服装に着替えたのであった。
その横には、樊噲が控えていた。堂の天井に当るかという形容をしても構わないほどの、巨漢であった。
呂公は、目の前の異様な男たちを、じっと見つめた。
これまでの彼の温和な風貌とは一変した、鋭い目付きであった。
彼は、言った。
「― 何者だ、、、」
目の前の男は、答えた。
「― 沛の劉邦、字は季。天下の英雄だ。」
一瞬の間が、あった。
それから、呂公は深々と拝礼した。
「よくぞ、お出でくださいました。さあ、宴席に参りましょうぞ。」
そうして、自ら先導して劉邦を堂上に導いた。
劉邦は、樊噲を連れて堂上に入った。
座の者たちが、大いに驚いた。
「劉邦、、、!」
「あいつだったか、、、!あいつを、忘れていた、、、!」
堂上にいた者たちは、みな劉邦のことを知っていた。
だから大抵の者たちは、一本取られた、といった印象であった。一万銭とは、彼の言いそうなことだ。一同は、ようやく合点が入ったという顔であった。
しかし、劉邦が入るやいなや上座にどかりと座り込んだのは、彼を知っている者たちですら驚き怪しむことであった。もともと不遜な男であったが、ここで県令たちと並んで座ったのは、少々どころではなく度が過ぎているように思われた。
県令は、あまりの出来事に、声を出すこともできなかった。蕭何は、後ろでただただ成り行きを見ているだけであった。
やっと県令は、恐る恐る隣の呂公に声を掛けた。
「― あなたは、どうしてあのような下賎の者を、、、!あれは、ただの亭長ですぞ。」
しかし彼の問いに、呂公は顔を向けることすらしなかった。
ただ、一言しか答えなかった。
「― 龍顔だからです。」
「り、龍顔?」
呂公は、それ以上の言葉を県令に言わなかった。彼は、ふっと笑みを含ませて、杯をすすった。
堂上で騒ぎになっていることは、堂下の座の者にも伝わっていた。
「劉邦が、来たんだとよ、、、」
「あの、劉邦か!道理で、この騒ぎだ!」
「しかも、県令と同じ上座に座っている!」
「えっ?まさか?」
鄒家の家長の席からは、堂上の内部がよく見えなかった。しかし、彼は、劉邦が来て本日の主賓の呂公に手厚く迎えられたことを聞いて、印象に残らずにはいられなかった。

宴会は、終わった。
夕刻となって、堂上には西日が深く差し掛かっていた。
しかし、呂公は堂上にまだ残っていた。県令の送迎の誘いも、断ってしまった。
堂上には、劉邦もまた残っていた。彼は、そのまま座に残るように、呂公にひそかに誘われていたのであった。
呂公は、劉邦の座の前に出て座った。
劉邦は、彼に言った。
「私は、ただの泗水の亭長だ。一万銭など、持っていない。」
呂公は、彼に言った。
「そんなことは、どうでもよいのです。この一銭が、まず私を驚かせました。」
そう言って、劉邦の名刺にくくり付けられてあった半両銭を、取り出した。
呂公は、言った。
「これは、私がまだ見たこともない型です。半両銭には、鋳られた時代と場所で様々な型があります。私は商売上、それを全て知っている。しかしこの型はまだ、見たことがない。これは、どこかで鋳込んでいる― あなたは、どうしてこれを?」
「さるところから、貰ったんですよ― 私の手の内からね。」
劉邦は、孔巫女から貰ったことは、呂公に明かさなかった。
呂公は、半両銭を親指と人差し指に挟んで、弄(もてあそ)び始めた。彼はにやりとして言った。
「誠によく、出来ている― しかし、悪金を混ぜてあって、価値は低い。秦の政府が今何を考えているのかを知って、先回りしようとしている者がいる―」
そう言った後、彼は銭を右の手の平に置いて、その上に左の手のひらををパン!とかぶせた。
彼は、劉邦の顔をじっと見据えて、言った。
「しかし、これよりも驚いたのは、あなたの面相。」
それから、ゆっくりと言葉を継いだ。
「― 今日、龍顔の持ち主に、まさか会えることができたとは、、、この沛に来たのは、真に正解であった!」

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章