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十七 心を生かす(2)

(カテゴリ:102伏龍の章

呂公は、長女に対して吝嗇(けち)になれとは、決して言っていない。

彼女が年頃の娘らしく多少服装や化粧に凝ったとしても、とがめ立てなどはしないつもりであった。
だが、彼の長女は、どうも世間一般の女たちが好むはずの方向に、少しも関心がないようであった。
(女というものは、着飾ったり宝玉を集めたりすることを喜ぶものなのだが、、、この娘は、どうもよくわからん。)
観相術に長けている父も、娘のことをつかみかねていた。彼の人間観察術は、人間の半分を占める女に対しては、残念ながら通用しなかったのであった。
そのくせ、父はこの長女のことを、大変可愛がっていた。
彼女は、時々父の客などに対して、ずばりと厳しい評論を下すことがあった。その人物鑑定は、父の見立てと常に合致していた。むしろ、彼女の言葉の方が直感的で簡潔であって、より本質をえぐり出しているように父に聞こえた。
一家が単父からこの沛に移るときには、呂公の妻がずいぶん反対した。
見知らぬ楚の土地に向うことに、妻はしきりに抵抗したのであった。
「子は、育った土地の風俗に染まってしまうと言います。下の娘は、まだ小さいではありませんか。斉や魯のような良俗の土地に移るならばいざ知らず、野卑な楚などに居を移せば、娘に悪い影響が出るに違いありません。」
妻は、娘たちが可愛かった。長女の呂雉ももちろんであったが、次女の呂須(りょしゅ)もまた大切であった。次女は、まだ少女の年齢であった。母親の抵抗に押されて、二人の息子たちまで居を移すことを渋るようになる有様であった。
そんなとき、長女が兄たちがいる前で、父親に進言した。
「家庭の小事のために、父上がためらう必要などありません。決められたことは、絶対やるべきです。そうしないと、きっと後悔します。」
娘の言葉を聞いて、父親は大いに喜んだ。
「そうだ!阿雉、お前だけが、私のことを分かってくれる、、、」
呂公は、いつしか長女の意見を、男兄弟たち以上に買うようになっていた。
それで、今日門前で見送った劉邦についても、彼女の意見をあえて聞いてみた。
「― どうだ、阿雉よ。あの男は、どう思う?」
しかし、彼女がようやく出した言葉は、父にとって期待はずれのものであった。
「― 父上の、お見立てどおりでしょう。私は、よく分かりません。」

県令主催の宴会が茶番で終わった後、沛県ではいよいよ今年の徴発が行なわれようとしていた。
県令は、相変わらず郡からの下達を命令するだけであった。呂公を歓待しようなどと似合わぬことを行なってみたものの、結局熱が冷めれば彼は元通りの態度に引き込んでしまった。郷里への説得は、下の属吏たちが行なうのであった。
蕭何も、郷里の豊の父老たちを集めて、今回の割り当てを申し付ける役となった。
彼は、邑の裏手の社に父老たちを集めて、県からの下達を申し渡した。たとえこの邑の出身であると言っても、今の彼は県令の代理として振舞わなければならない。
「― 以上です。厳しい割り当てとは思いますが、何とかよろしくお願いします。」
父老たちは、平伏して蕭主吏どのの言葉を、聞いていた。
彼の言葉が終わって、顔を上げた。父老の一人が、口を開いた。
「蕭主吏よ、どうしてこんなに徴発が多い?我々は、もう手一杯ですぞ。」
蕭何は、彼の顔を見るのが辛かった。
(この沛県は刑徒の員数が少ないからだ、などと言っても、言い訳にはならない、、、)
沛県は、どういうわけか比較的刑に服する人数が少なかった。去年騒擾事件があって多数が咸陽に送られたがそれは例外として、年を通じて見たならば、刑徒の數が郡内の他県に比べてずいぶん下回っていた。
おそらくこれは、裁判を担当する獄掾の曹参が、配下の者を使って気を利かせていた結果であったに違いない。しかし郡は、そして咸陽の政府は、刑徒の数を一定見込んだ上で、徴発を下達してきた。すでに秦の政府は、刑徒の強制労働を国家運営の不可欠の要素に組み込んでしまっていた。だから、結局沛県では刑徒の代わりに良民を徴発することになってしまうのであった。
蕭何は、県の官吏であった。彼は、きっぱりと言った。
「国家のためです。致し方ありません。この豊の現況ならば、今回の徴発は何とか持ちこたえられる数だと思います。しかし―」
それから、彼は強い決意を持って言った。
「しかし― 本当に限界ならば、必ず私のところに申し出てください。私は一命を賭してでも、郡県の上層部を動かします。私も、この邑の出身です。沛県の出身です。郷里を守ることが、官吏たる私の役目であります。私の使命は、この郷里のためにあります。」
蕭何の顔は、真剣にして誠実であった。誠実こそが、彼の最大の美徳であった。
その凛とした姿を見た父老たちは、一様に感銘した。
(あの蕭家の息子が、このような男になったとは―)
父老たちは、改めて蕭主吏に平伏した。

鄒家の家長は、邑の裏手の社から、自宅に戻ってきた。彼もまた、今日の父老の集団の中の一人であった。
家の前では、老妻と娘の阿瑾が出迎えた。彼の息子たちはすでに結婚していて、別宅を構えていた。
彼は、家の奥の間に入った。奥の間には、使わない瑟(しつ)が大事に飾られてあった。まさかこれを劉邦が弾いたことがあるなどとは、家長の知るところではない。
彼は、老妻に言った。
「蕭主吏は、大した男になりおったわ。あれは、立派な役人となるだろうよ。」
彼の老妻が、聞いた。
「蕭主吏どのと申せば、この豊の蕭家の?」
「そうだ。蕭家の何だ。若いが、能がある上に実直だ。」
老妻は、かねてから懸念していた問題を、夫に切り出した。
「では、お前さまは蕭家のあのお方を、この娘の婿としたいと思っておられるのですか?」
老妻としても、最近とみに邑の話題となっている娘の相手について、気にせずにはおられなかった。いったい夫は、どちらにしたいのであろうか?老妻は、夫のいつもながらの優柔不断がかえって娘を下卑た話の種にしていることが、心苦しくてならなかった。
その老妻の問いに対して、しかし鄒家の家長はまたも答えを濁らせた。
「、、、それは、もっと熟慮してから決めることだ!まだだ、まだ早い。」
彼は、すぐ直前にあった県庁での宴会の強烈な印象に、昨日まで引きずられていた最中であった。それが、今日の蕭何を見て、またぐらついてしまった。蕭何か、劉邦か。彼の判断は、今日ますます迷いを深めていた。
その家長の態度を見て、娘の阿瑾はついに口を出した。
「― 蕭何が何だというの。官吏なんか、人間の屑よ。劉邦のほうが、ずっと上の男だわ。」
家長も老妻も、娘の急な意見に、一瞬驚いた。
家長は、娘に言った。
「お前に、男の何が分かる。」
娘は言った。
「分かります!劉邦の方が、上です!、、、私は、私は、、、」
(― 劉兄の嫁に、なりたいのです!)
ついに、そこまで言おうとした娘を、老妻は止めた。ここから以上は、家長の決めるべきことに口を挟むことになると、彼女は思った。それは、大人の掟であった。
阿瑾は、しかし我慢ならなかった。わなわなと震え出して、ついに飛び上がって奥の間を駆け出していった。
奥の間には、家長と老妻だけが残された。
老妻は、家長に言った。
「― お前さま。もはや、私の意見も申し上げるべきときが、来たと思います。」
それから、少し間を置いて、言葉を継いだ。
「劉邦は、いけません。あの男は、女食いです。あの娘に合う男では、ありません。ご一考を、、、」

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章