女には、女の目がある。
老妻から見た劉邦という男は、とても娘と釣り合うはずもない、異端児であった。
彼女は、阿瑾が劉邦という男にのぼせ上がっていることを、どうやら気付いていたようであった。その上で、この際家長に進言した。
「最後は、お前さまがお決めになることです。ですが、娘はあの男に付いて行くことは、とてもできないでしょう。あの男は、この豊での悪評とは違って、たぶん人物なのでしょう。それが、お前さまの目にもちらついている。ですが、あれはお前さますら、踏み付けることができる男です。とても、鄒家には合いません。あの娘にも、手に負える男ではないと私は思います。」
家長は、老妻の言葉を、ただ聞くばかりであった。
豊では説得に成功した蕭何であったが、他郷ではそうもいかなかった。
いっぱんに、県庁の評判はどの郷里でも年を追うごとに、低まっていた。
蕭何たち属吏は、それを実感していた。
県の東南の郷里が、非常に険悪な雰囲気となっていることを、彼は同僚から聞いた。
(東南の郷里は、去年の騒擾事件で多数の若衆が咸陽送りとなった。それで、人手が足りないのだ、、、)
彼は、自ら東南の郷里に出向くことを決意した。
数日後、蕭何は朝から公用馬車に乗って、県庁を出た。
馬車は、途中で泗水の亭を通る道を取った。
(寄るか、、、?いや、今日はやめておこう。)
劉邦がここの亭長となってから、彼も同郷人のよしみで馬車で通過するときに、しばしば挨拶がてらに立ち寄ることがあった。
亭の本来の役割は、官吏たちが街道を通行する際に、宿泊のために置かれている施設である。
だがら蕭何のような県の官吏が立ち寄る場合には、丁重に出迎えて歓待する義務がある。
しかし、この亭の亭長どのは、この小さな宿駅を遊び場か何かのように思っているようであった。
まず第一に、立ち寄っても多くの場合亭長がいない。配下の者どもを引き連れて、巡回である。しかし、巡回する先は沛の酒店であったり、あるいは亭の近くを流れる泗水に入っていたりしていた。川で夕食のための魚釣りに興じている亭長どの一行の姿は、地元の者たちがしばしば目撃する光景であった。
また、彼が亭にいた時であっても、そのときには蕭何の見知った顔が必ず二、三人いた。周勃がいて雑談していたり、樊噲が狗肉を差し入れに来ていたり、廬綰が飯を食っていたりした。彼らが来ているときには、劉亭長は少なくとも仕事よりも仲間との付き合いを優先させた。
時々、官吏の夏候嬰や任敖までがいて、蕭何と出くわすこともあった。
「― 君ら、なんでここにいるんだ?」
「― いやあ、非番日なんで。」
そう言って、夏候嬰たちはハ!ハ!と笑うのであった。劉邦も、一緒にうはははと大笑いした。
(これじゃ、亭の役目なんか果たしていないな、、、)
蕭何は、困ってしまった。実際、山のように亭を通行する官吏たちから、苦情が舞い込んできた。蕭何は、結局厩司御たちに、こう言ったのであった。
「馬車を走らせるさい、泗水の亭は可能な限り使うな。別の亭を、使え。」
このような状況であったので、急いでいる今日は泗水の亭を通過するつもりであった。ところが、泗水の亭の近くの川そばを通ったとき、彼は道の向こう側から、釣竿を持った男の姿が現れてきたのを見た。
「、、、劉季か。」
劉亭長であった。今日ものんきに、川で魚釣りをして帰ってきたところであった。
亭長は、公用馬車を見かけて、近寄ってきた。馬車に乗っている官吏の顔を、見分けたからであった。
「蕭何!、、、どこへ行く?」
劉邦は、近づいてくる馬車に向って、大声で話掛けた。
蕭何は、やむなく馬車を止めた。
劉邦は、車上の彼にのしりと近づいた。轅(ながえ)に手を掛けて、飛び乗りそうな気配であった。
蕭何は、彼に言った。
「― 東南の郷里が、険悪な雰囲気にある。私は、説得に行く最中なのだ。悪いが、今日は付き合っている暇はない。」
劉邦は、返した。
「徴発のためだろう?そりゃあ、父老たちも怒るだろうよ。」
「そうだ。しかし、これでもずいぶんかの地への割り当てを減らしているのだ。これ以上減らしたら、他の郷里が持たない。だから、私が父老たちを説き伏せようと思う。」
蕭何は、真剣そのものであった。魚釣りなどを楽しんでいる劉邦などとは、話す言葉を持ちたくなかった。
しかし、劉邦は言った。
「― 俺を、連れて行け。」
「なに?」
劉邦は、そう言うや否や、有無を言わせず蕭何の隣の席に飛び乗った。
「劉季、、、なにを!」
「東南の郷里を助けられるのは、俺だけだ、、、行け!」
そう言って、目の前の厩司御の背を、蹴り込んだ。
「劉季、、、なにを!」
「東南の郷里を助けられるのは、俺だけだ、、、行け!」
そう言って、目の前の厩司御の背を、蹴り込んだ。
結局蕭何は劉邦と共に、東南の郷里の父老たちと会合することとなった。
蕭何の馬車を迎える住民の目は、差すように厳しいものであった。
「これは、ほとんど蜂起でもしそうな雰囲気ではないか、、、」
蕭何は、去年の騒擾事件のことを、思い出した。この郷里は、特に県の統治に不満の大きな土地であった。騒擾事件の処罰で多数の者が徒刑となり、今年また徴発が下達されたことによって、彼らの怒りは一挙に高まっていた。この郷里に下達に行った官吏がほうほうの体で逃げ帰ってきたのも、当然の険悪な空気であった。
「― 確かに、これは殺されるかもしれんな。」
劉邦は、平然と隣を歩く蕭何に言った。二人は、父老たちが待つ郷里の社に向っていた。
「それでも、何とか説得しなければならない。」
蕭何は、決然と言った。
だが、劉邦は彼に言った。
「蕭主吏。お前は、黙って見ていろ。お前では、ここから後は無理だ。」
「黙って、、、だと?」
「そうだ。実は俺は、彼らへの進物を持って来た。俺に任せるんだな。」
「進物?」
劉邦は、不敵に笑って返すだけであった。



