蕭何は、豊の実家に戻っていた。
東南の郷里での一件は、彼の人物に対する見方に大きな衝撃を与えた。
彼は、呂公が劉邦を一目で買ったときの言葉を、思い出した。
― 人の心は、頼りとなる人物に引き寄せられていくのです、、、
(劉季には、、、何かがある。私たち官吏には、とてもできない何かだ。)
蕭何は、自分が劉邦と張り合うこと自体が、何かとてつもなく愚かしいことであるように思えた。
(この豊の者たちの目は、間違っている。私は、彼に到底かなわない。)
蕭何は、ようやくにしてこの豊の邑の者たちや、県庁の者たちが劉邦という人物の真価を見落としていることを、思い知った。今や、嫂(ばあ)さまの言ったことが思い起こされた。自分と劉邦は、同じ郷里の者ではないか。ならば、互いに補い合うべく努力するべきなのではないか?
そう考えると、鄒家の阿瑾の取り合いの件などは、ますます愚かしいように思えてきた。もとより、自分が動いているわけではない。叔父上あたりが、邑の中で躍起になっているだけだ。女を巡って、自分が劉邦に勝てる見込みは、まずもってありえなかった。
(こんな件などは一切断っていただくように、我が父や家の皆様にも言おう。私が言えば、皆様もあきらめるだろう― そうするべきだ。)
蕭何は、そのように決心した。
「ごめん!― 兄上は、いるか?」
叔父上の声であった。
あいにく、蕭何の父は不在であった。蕭何は、門の方に出向いて行った。
「叔父上。あいにく父上は、父老のところに行っております。」
「おお、帰って来ていたのか― もうすぐお前は、郡役所に移るのだろう。お前は、せいぜいその準備をしておけ。家の仕事は、我らに任せておくがよい。」
「ご配慮、いたみ入ります―」
蕭何は、頭を下げた。
「前も言ったことだが、向こうの新居は粗末にしてはならんぞ、、、なにせ、妻を呼ぶことになるのだからな?」
叔父上は、笑って言った。結局、彼はこの話題を絡めずにはおられないのであった。
蕭何は苦笑して、言った。
「叔父上、、、!それがしは、もう妻がどうしたといった話は、結構でございます。」
叔父上は、言った。
「ははは。さすがに、聞きすぎたか。なにせこのぐらい言っておかないと、最近ずっと雲行きが怪しかったのでな。」
蕭何は、言った。
「まずは、この話はもうここまでということで、それがしはお願いしたいと存じます。」
叔父上は、言った。
「そうであるな。さすがに、少々はしたなかった。許せ。しかし、もう行なわない。」
「そうですか!やっと、この話も終わりということで―」
「終わったな― あの劉季も、とうとう自分で嫁にする相手を実家の親に言い出しおったわ。」
蕭何は、今日豊に帰って来たばかりであったので、叔父上が言った話をまだ耳にしていなかった。
「― ああ、そうだったのですか。彼が、自分で言い出して、、、」
彼のやりそうなことだと、蕭何は思った。しかし、叔父上は続けた。
「あやつは、突然実家に帰って来て、親御どのに告げた。そのうち、嫁の父親もこの豊にやって来るらしい。」
「え?― 鄒家ならば、豊にいるのではありませんか?」
「鄒家は、お前の嫁ではないか!― 劉季は、呂家という新参者から、嫁を取ると言うのだ。いきなりの話であったわい。」
ちょうどその頃、沛の城市の近く。
若い娘が、泗水のほとりを歩いていた。
鄒家の、阿瑾であった。
彼女は、少女の頃この城市に初めて来たときのことを、思い出した。
そこで、劉邦に会った。
彼とは、その時以来の付き合いであった。
(劉兄、、、ひどいよ。)
阿瑾は、劉邦が実家に帰ってきて、嫁を取ることを告げたと突然に聞いた。
慌てて劉家のところに行ってみたが、すでに彼は豊を出てしまっていた。
いつの間にか、彼女は少女の頃に歩いた道を、駆け出していた。
豊から、沛の城市に続く道であった。あの後、何度も劉邦に馬車に乗せてもらってこの道を通った。しかし、今日は昔と同じように、素足のままであった。
一日を掛けて、彼女は沛の城市に着いた。昔と、まるで同じようであった。
沛の城市に着いたら、県庁に行った。
彼は、普段この県庁にいない。だが、初めてこの沛に来て劉邦に馬車で各地を連れて行ってもらったときに、最後にこの県庁に帰って来た。そのときの記憶が甦って、彼女はふらふらとこの大きな建物に入っていった。
中には、夏候嬰がいた。蕭何は、入れ違いで豊に戻っていたので、いなかった。
夏候嬰は彼女の姿を見て、あわてて仕事場を離れて、彼女のところに走り寄った。
「君は、、、豊の阿瑾だな。」
阿瑾は、昔馬車に乗せてもらった男を見て、言った。
「劉兄は、、、劉兄は、どこ?」
夏候嬰は、彼女が何をしにここに来たのか、すぐに分かった。
彼は、首を横に振った。
劉邦は、最近呂公の屋敷に入り浸っている。呂公が、劉邦のことを今や下にも置かせない扱いをしているのであった。彼は、呂公と強い盟約関係に入ろうとしていた。もはや、余人が口を差し挟む余地は、なかった。
阿瑾は、うつむいた。
涙が出る前に、体がわなわなと震え出した。
それから、夏候嬰に背を向けて、だっ、と走り出した。
「あ!どこに行くんだ!」
見る間に、彼女は県庁前の通りを駆け抜けていった。
夏候嬰は、あわてて後を追った。しかし、彼女はどこをどう通ったのか、見失ってしまった。



