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十八 歸妹、征(ゆ)きて凶(2)

(カテゴリ:102伏龍の章

夕刻になっていた。

阿瑾は、沛の城市のそばにある泗水のほとりを、歩いていた。
(― 死のう。)
彼女は、思った。
思ったら、ふわりと足の向きが、変わった。
夕日が、顔に射して明るかった。
涙すら、出てこなかった。
、、、
気が付いたら、後ろから男に羽交い絞めにされていた。
「笨蛋(ばか)!死ぬ気か!、、、」
夏候嬰が、川そばの堤の上に立つ彼女の姿を見つけて、掛け付けて来たのであった。
阿瑾は、体をよじって叫んだ。
「死ぬの!死ぬの!」
ようやく、涙がとめどなくあふれて来た。彼女の頬に伝う涙の粒が、夕日を受けて光った。初秋の長い日の、終わりであった。

彼女を絶望に落としたのは、劉邦であった。
その劉邦にあった事を、これから書かなければならない。
彼は、東南の郷里の問題が解決したすぐ後の日に、呂公の屋敷に招待された。
呂公は、わざわざ彼の勤務地である泗水の亭にまで馬車を寄越してきた。
「お迎えに、参りました―」
呂公は、劉亭長に鄭重に拝礼した。
劉邦は、請われるままに車に陪乗した。例によってこの日も周勃たちが亭に押しかけていたが、彼らは後ろに残されて車を見送るばかりであった。
沛の呂公の屋敷に、着いた。
彼の二人の息子たちが、出迎えた。
「わが愚息です。長男の澤と、次男の釋之です。」
呂公は、劉邦に紹介した。兄弟は、劉邦に拝礼した。
「ほう。」
一方の劉邦は、素っ気なかった。
呂公は、気にせず客を奥に通した。
劉邦は、思った。
(相手が腰を低くして出て来るのは、俺に何かをさせようとしている魂胆だ。)
彼は、任侠の世界で相手が下にも置かせない態度で接してきたときに、どんな含意があるのかをよく知っていた。
たとえば政敵の暗殺など、命を投げ出して行なわなければならない仕事を壮士に依頼するときがある。そのときには、王侯貴族といえども無位無官の壮士に腰を低くして歓待し、相手が欲しいものであったら何でも与えなければならない。これが、人が人を釣る時の、大人(たいじん)の礼儀なのである。当時の礼儀としては、人が人に大きなことを依頼する場合には、このようでなければならないと考えられていた。
劉邦は、呂公がわざわざ車まで寄越して劉邦を歓待して来た態度を見て、必ず今日は何かを依頼するに違いないと、勘で分かった。
(ただ俺と付き合いたいだけならば、この親父はここまで腰を低くしたりはしない。さしずめ、俺に秦王の暗殺でも依頼するつもりか、、、?まさかな。)
劉邦は、呂公がそこまで大胆な飛躍を行なう人物ではないだろうと、見積もっていた。しかし、それでも彼は長年の経験から、警戒せざるをえなかった。それで、彼はわざとぞんざいに振舞っていた。もし呂公の歓待をいったん喜んで受けたならば、彼がどうせ出してくるであろう申し出を、受けないわけにはいかない。その内容を先に見極めなければならないと、彼は思った。
屋敷の奥には、広い庭があった。
呂公は、その庭の中にしつらえらた亭(あずまや)に、劉邦を誘(いざな)った。
やがて、屋敷の下人たちが、あわただしく酒肴を持って来た。
「妻です―」
呂公の妻が、二人の前にやって来た。
彼女は、どこか厭わしげであった。
「あ、どうも。」
劉邦は、適当に挨拶した。
彼女もまた、劉邦に言葉すらかけなかった。そのまま、ぷいと席を外してしまった。
呂公は、この座の無礼な応対を、一切無視した。無視して、劉邦に言った。
「劉先生には、まことに驚かされることばかりです―」
呂公は、注がれた酒を鷹揚に飲み干した。
「― まずは、これから始まりました。」
それから、懐から一枚の銅銭を出した。先日の宴席で劉邦が名刺にくくりつけておいた、半両銭であった。
呂公は、言った。
「秦は、いよいよ銭の世界まで法で決めようと考えています― どう、思われますか?」
劉邦は、正直に言った。
「― 無謀ですな。」
呂公は、劉邦の言葉を喜んだ。
「その通り。商売の法則は、政府が変えることなどは決してできません。ただ、成り行きにまかせることしか、できないのです。それを、秦の政府は銭の単位を統一して、黄金と交換する値を一定に決めようとしています、、、銭の単位は、この秦の半両銭。この銭の枚数と、黄金の重量との比率を公定しようと、咸陽は考えているのです― しかしこの政策は、必ず失敗します。」
彼はそう言って、きらきらと光る半両銭を、目に近づけた。
銭に開いた方寸の穴を通して、呂公のすでに老いた眼が覗いた。戦国時代を生き抜いた、老獪な目であった。
「この銭が、よい例です。法が公布されれば、間もなくこのような銭が大量に出回るようになり、黄金は消えてなくなるでしょう。咸陽はおそらく銭で税を徴収し、さらには官吏や兵に銭で俸給を支払うことまで企んで、法を公布しようとしているようだ。しかし、絶対に成り行きません。商売の法則を侮る政府には、厳しい罰が下されるのです―」
呂公は、言葉を続けた。
「劉先生があの日この銭を渡して来たとき、私には分かりました。あなたは、表の世界からは見えない力とつながっている、と。それで、私は劉先生に会いに行ったのです。」
劉邦は、この銭をくれた孔巫女の正体など、全く知らない。しかし、彼女が自分に何かを期待していることだけは、気付いていた。つまり彼女もまた、表の世界からは見えない水脈と、何らかの関わりがあった。それが、呂公の目に止まるきっかけを作ったのであった。
呂公は、今度は劉邦を見据えて、言った。
「そして、やはりあなたはただ者ではなかった。こないだの東南の郷里での話も、私は聞き及びました。やはり、あなたは龍顔の貴相にふさわしい人物でありました― 私は、この際呂家を劉先生にお預けしたいと思うのです。本日、先生をご招待したのも、それをお願いしようと思ったことなのです。」

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章