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十八 歸妹、征(ゆ)きて凶(3)

(カテゴリ:102伏龍の章

劉邦は、呂公の言葉に苦笑して、答えた。

「呂家を?こりゃ、大した家長どのの判断だ!」
彼は、内心で思った。
(完全に、俺を取り込もうとしている―)
呂公は、劉邦に言った。
「― 私も、もう歳だ。この先、そんなに長く生きられそうもない。」
それから、真剣な顔となった。
「先ほどのわが息子たちは、平穏な世なら生きていくこともできましょう。しかし、これからの世を独力で生きていける力は、ありません。混沌の時代を泳ぎきるのは、彼らには過ぎたることです。私は、それが心配なのです。」
老いた呂公の、悩みであった。彼は、息子たちが二流の人材であると見ていた。二流の人材は、人の上に立つことはできない。人の下に自らを置いて、持てる能力を振り絞るのが最適な生き方なのである。では、人の上に立つべき人材とは、どのようであるべきなのか?人を率いるべき、一流の人材の条件とは?
「劉先生。あなたは、混沌を泳ぐことができる人物です。私には、分かります。あなたは―」
呂公は、言った。
「自分の五体の中の声を聞いて、生を立てています。五体の中の声は、天の声です。あなたは、天の声を聞いて自らを前に進めている。しかし天の声を聞き取れない人間は、書物を読んだり経験を摘んだりして、自らの指針とせざるをえません。それが、世の多くの人間なのです。だが書物や経験では、結局混沌の世界の指針とするには足りないのです。あなたは、書物や経験からは読み取れないものが読めているのです。混沌の中を泳ぐことができるのは、そのような人物だけなのです。だから、私は先生に呂家のこれからをお預けしたいと思っているのです。」
人間の五体は、天から与えられた命(いのち)が宿る家である。
そこから発する命(めい)を聞き分けることができる者だけが、迷うことなく混沌の世界で生を全うすることができるだろう。「命」という字が「生命」と言う意味と「命令」という意味の両義を宿しているのは、故なきことではない。劉邦は、師の下に付いて学問をしたわけではない。これといった職業もなく、経験から出る智恵を自ら誇っているわけでもない。学問や経験に頼る者は、呂公が見る二流の人材であった。劉邦は、それらがないにも関わらず、これまで人を引き付けて大いに動かしている。彼の力は、学問からも経験からも出ていなかった。それが、呂公が見る一流の人材の条件なのであった。
「そこで―」
呂公は、劉邦に近寄った。
(、、、来たな!)
劉邦は、思った。
「お近づきのしるしとして、我が娘を、先生の箕帚(きそう)の妾となして、先生の存分に使っていただきたいと考えております。」
「箕帚の妾」とは、掃除をする下女という意味である。だがその真意は、当然のことながら嫁に貰って欲しい、という事に尽きる。
(受けたら、もう後戻りできないな、、、)
さすがの劉邦も、多少迷った。すでに三十数歳の彼であったが、嫁を貰うことなど、これまで考えたことすらなかった。自分が家庭を持つということに対して、実感が持てないでいた。彼は、これまでずっと遊び暮らしの日々であったからであった。
「我が長女の雉は、親のことながら他の家ではちょっといない娘です。先生ぐらいにしか、釣り合う方がおりません。劉先生!どうかなにとぞ、よしなに、、、」
長女の阿雉のことになると、呂公は日頃の老獪さが多少失われてしまった。その気のあせりが、劉邦をかえって冷静にさせた。
「― まず実家に戻って、我が父の言葉を聞かないと、、、」
本当は父親の意向などどうでもよいと思っている劉邦であったが、この場は一旦即断を避けておいた方がよいと、彼は思った。
「娘を呼び寄せましょう。おい!阿雉を、呼んで来い!」
呂公は、畳み掛けた。何としても、この劉先生を離したくなかった。
しかし、呂公は娘の器量には不安があった。
(とんと色気のない、娘だがな、、、だが、気に入ってもらわなければ、ならん。あの娘に合うのは、この男だけだ。きっと、娘の真価を見抜いてくれるさ。)
しばらくして、亭に一人の娘が近づいてきた。
娘の、姿が陽光に現れた。
呂公は、自分の娘にも関わらず、あっと声を挙げた。
現れた呂雉は、父がこれまで見慣れていたような、器量なしのどこか変わった娘ではなかった。
見事な、着こなしであった。これほどの衣装を、彼女が持っていたなどとは父は知らなかった。
眉は鮮やかに描かれ、頬の紅はしつこくもなく気品があった。艶やかな黒い髪には、落ち着いた中にも鋭さを隠すように輝く、銀の笄(こうがい)が挿されていた。
彼女特有の厳しい目つきは、化粧の配合に調和されて涼やかな美しさに変化していた。
父が、これまで娘のことを器量よしでないと思っていたのは、彼女が普段化粧や服装に全然気を使おうとしなかったからであった。世間一般の女性は、白粉を肌に巻き、紅を付けて、着飾るものだ。それは、人に本性以上のように見られたいと願う、女の本能的な習性であった。うかつにも父は、女というものが飾り立てた部分を纏って男の前に現れているということを、忘れていた。観相術に長けていた彼であったが、女についての観察眼はただの男並であった。何のことはない。彼女は、その気になって化粧をして着飾れば、決して人にも劣らぬ美しい娘だったのである。ただ、彼女は普段から飾って男に媚びを売ることが癪に障っていたので、やらなかっただけのことであった。
劉邦は、まず娘の見事な姿に驚いた。
彼の驚きは、次第に喜びに変わっていった。
「― すばらしい!」
劉邦は、ついにうなった。
「大した娘をお持ちだ!ああ、、、」
劉邦は、天を仰いだ。
(負けた、、、かもしれない?)
彼は、そのように思った。
やがて、呂雉は亭に昇り、父親の後ろに着いた。
「― 劉邦です。」
劉邦は、今は鄭重に娘に挨拶した。
「― 劉邦どの、ですね。呂雉と申します。」
呂雉は、父に紹介されるのを待たずに、劉邦に挨拶した。早くも、彼女の調子が始まっていた。父は、ただこの二人を見守っているだけであった。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章