呂雉は、劉邦をどう思ったのであろうか?
彼女は、この時代の女の運命というものが男の世界で決められるものである事実に、あえて逆らおうとはしなかった。
だから、父の見込んだ男である以上は、嫁ぐべきであると、受け止めた。
しかし、婦徳という世間が推奨する隠従の道に素直に心を任せるには、彼女の魂は高貴に過ぎた。
彼女は、できるならば嫁ぐ男と戦いたいと願った。
今日、呂雉が未来の夫に見せた姿は、彼女流の任侠の礼儀とも言えるものであった。
(さあ、この私を組み敷いてみなさい!)
これが、彼女が劉邦に投げ掛けた、言外の言葉であった。
(こいつを娶ると、大変だな、、、!)
一方の劉邦は、予感した。
呂雉から彼が感じたのは、一種の戦慄であった。これまで彼が会った女たちの中で、戦慄を感じさせた女はそうそういなかった。
以前彭城で見た虞美人は、そうであったかもしれない。しかし、劉邦は彼女の舞を見たときに、感嘆しながらも自分とは違う世界の女であると、あきらめた。
虞美人は、男に全てを捧げることを望む。男が己の持てるものの全てを燃やして、燃え尽きよと命じる女であった。しかし、劉邦という男の中には、燃え尽きさせる元などはなかった。女に捧げるものなど、彼にはないのである。虞美人は、彼に合う女ではない。
彼が望んでいた、女とは―
むしろ、自由に生きる自分の、心の中の重しとなるような女であった。
劉邦は、内心で縛られることを望んでいた。父親からは冷遇され、母親は早くに亡くしてしまった。郷里でも自分がどこにいればよいのか、手がかりが掴めなかった。だから、郷里を顧みなくなった。
しかし、彼は狡猾な智恵の持ち主であった。自分には、身一つで栄光をつかむような能力がないことを知っていた。彼は、人の間で生きるしか、自分を生かす道がないのである。だから、郷里を顧みることもないのに、家の周りをうろついていた。利用するためである。他郷でいろいろと関係を持ちながら、拠点はあくまでも沛であった。身近な者を支配するためである。だから郷里のことを心では愛していないのに、郷里にいるのであった。どっちつかずの心が、劉邦の中にあった。それを縛れるものなら、縛ってしまいたい。女に、縛られたい。それが、劉邦の女への望みであった。
そのためには、女は自分を許さなくてはならない。その上で、自分に屈服してもならない。自分と、飽きずに戦い続けることができる女― 目の前の呂雉という女こそが、まさしくそれであった。
「― 初めに言っておきます。私は、劉邦です。呂家の家僕などには、なりません。」
劉邦は、まず口上を切った。
「呂家の家僕になれなどと我が父が申しているのならば、見当違いでしょう。大丈夫を飼い慣らすことなど、一介の商人にどうしてできましょうか?」
呂雉は、父の目前をも顧みず、返した。
それから、今度は彼女が劉邦に突っかけた。
「父の観相術によれば、あなたの面相は龍顔と申すべきであるとか。その龍顔をもって、一帯何をなさろうとお考えなのですか?」
「― それを知っているのは、この龍顔だけです。」
劉邦は、返した。
彼は何一つ、飾ることをしなかった。今日のために最高の装飾をなして見せた呂雉は、女として勝負を仕掛けて来た。しかし、いま何一つ飾ろうとしない劉邦は、男として勝負に受けて立った。両者は、まさしく好敵手であった。
圧倒されながらこの二人を見守っていた父の呂公が、ついに声を挙げた。
「双方、見事に噛み合ったか!、、、大慶なり!大慶なり!」
そう言って、手を叩いて笑った。
事が決まった後も、呂公の妻は大いに不満であった。
妻は、夫から劉邦を長女の婿にするつもりだと聞かされたとき、激怒した。
「わけのわからない亭長では、ありませんか、、、あなたは、この娘をもっと貴い家に嫁にやりたいと言っていたではありませんか!娘が可愛そうだと、思わないのですか、、、」
確かに、これまで呂公は長女のために、妻が言ったようなことを常々話していた。しかし、この沛で劉邦を見て、彼はもはや全ての意向をかなぐり捨てていた。彼こそ、娘の相手としてふさわしいと確信していた。
だから、妻に言った。
「女の出る幕ではない。お前は、黙っておれ。」
それで、今日劉邦の前に出た妻は、極めて機嫌が悪かった。だが結局、天が引き合わせたのであろうか、呂雉と劉邦とはこうして縁を結ぶ運びとなった。しかし、妻は劉邦という男のことを、いまだに全く信用できなかった。世間の常識をわきまえた妻としては、それはおそらく正しい人物判断であった。妻にとっては残念ながら、彼女の娘の呂雉は、常識を超えた女であった。
「― 歸妹(きまい)。男女の道というものは、このようであってな。」
孔巫女は、豊の陋屋で、姜痴に語っていた。
「彖(たん)伝に曰く、
歸妹は、天地の大義なり。天地交わらざれば、万物興(おこ)らず。歸妹は、人の終始なり。説(よろこ)びもって動く、歸(とつ)ぐところのものは妹(むすめ)なり。
わかるか?」
『易経』の一節であった。姜痴は、例によって何も答えなかった。
「結局、陰陽の交わりなのじゃわい、男と女の道とは。陰である娘の方から動いても、天地は支えてくれぬ。陽は動き、陰は待つ。この世が陰陽から成り立ち、男と女に分かれている以上は、理(ことわり)と言うものだわい。ゆえに、卦に言う、
歸妹は、征(ゆ)きて凶なり。利(よ)ろしき攸(ところ)なし。
女の方から進めば、凶。結局、長い目で見れば、よいことはない。致し方のないことだわい。そうは、思わぬか?」
姜痴は、何も答えない。
孔巫女は、気にせず言葉を続けた。
「蛟龍の子も、妻を娶りよるか― まあ、家を持ったところで、あやつが変わるとは思えんがな、、、祝ってやらねば、なるまいな。」
そう言って、暗い陋屋の中で、独りひゃっひゃっと笑った。



