やがて、豊の邑では二つの婚礼が行なわれる運びとなった。
一つは、劉家と呂家との婚礼であった。劉邦がいきなり持ち出してきた結婚の話に、父の太公は何も言うことができなかった。すでに、父はこの三男に対して、何らの影響力をも失っていた。
もう一つの婚礼は、蕭家と鄒家であった。
鄒家の阿瑾は、あの後で沛から夏候嬰に連れられて、豊に戻ってきた。
今回の失踪こそは、父に徹底的に叱られた。彼女は、何も口答えをしなかった。それから、彼女は明るさがいっぺんに消えて、全く笑わないようになった。言葉も自ら話し出すことは、一切なくなった。
父は、娘を蕭家のもとに嫁がせる決意を固めていた。劉邦が候補から外れれば、もはや蕭何しか豊での相手はいない。相手側も、乗り気なのである。もはや彼は、迷うことはなかった。
父は、娘に申し渡した。
「― 蕭家の何は、申し分のない男だ。若く才長け、しかも仁義の道をわきまえている。お前は、あの人のもとに嫁ぐがよい。」
「― はい。」
阿瑾は、逆らいもせず感情も表さずに、父の申し付けに従った。
豊の邑は、にわかに慌しくなった。
前にも書いたが、中国での伝統的な婚礼は、納采に始まり親迎に終わる六礼(りくれい)に従う。その間両家の間で何度も訪問が行なわれ、贈答のやり取りが繰り返される。最後の親迎の礼は、前もって吉日を決め、当日は媒酌人以下男家の親類や友人たちが綜出で女家に嫁を迎えに行くのである。その全てにおいて、何かと用意が大変であった。
二つの婚礼の親迎が行われるべき日は、ごく近い日に決められることとなった。すなわち劉家と呂家の親迎が先に行なわれ、その数日後に蕭家が鄒家に親迎を行なう手筈とされたのである。蕭家の婿は、秋が終われば遠い郡役所に配転しなければならなかった。それで、婚礼のために郷里に戻る際に、同郷の劉家の親迎にも立ち会うことができれば、申し分ない。そう郷里の者たちが配慮して、日取りが決められたのであった。二つの婚礼の儀は、冬至を過ぎた一陽来復の頃の、とある二日の両吉日とされた。
夏候嬰や周勃が、両家の婚礼に骨折るために、しきりに豊にやってくるようになった。豊を郷里とする廬綰は、自分の家の婚礼であるかのように働いた。曹参も、時にやってきた。日頃は、豊に来ることなどない彼であった。しかし、蕭何と劉邦が結婚するともなれば、彼も骨折らずにはいられなかった。
ある日、豊の邑が騒然となった。
「湖賊だ、、、湖賊が襲ってきた!」
「湖賊?」
豊から北に泗水を遡ると、鉅野(きょや)の大きな沼沢地がある。そこは、河水(黄河)が繰り返し氾濫を続ける地域で、土地は荒廃して湖賊どもが跋扈していた。最近は秦の法から逃れた犯罪者たちが、続々と賊の仲間に参入していると聞く。その中でも今最も恐るべき男と噂されているのは、昌邑の彭越という親分であった。ちなみにこの鉅野の沼沢地は、これから千年後の宋代にも相変わらず、江湖の賊が群がり集まる土地であり続けた。その北辺にある梁山のほとりの沼沢地は、「梁山泊」と呼ばれて名を高めることとなったのである。
その湖賊が、ついにこの豊を襲撃して来たと言うのである。
「― 早く、邑の門を閉めろ!」
「女子供は、みな家に入れるんだ!」
このように、一時は集落全体が大騒ぎとなった。
だが、門に殺到した邑の男たちが見たのは、劉家への訪問者の一団であった。
先頭にいたのは、浅黒い肌をした巨漢であった。狗(いぬ)を数匹、一丈もある長い棒にくくり付けて肩に背負い込んでいた。樊噲であった。
後ろにいたのは、実は東南の郷里から来た男たちであった。沛から樊噲と共に、劉邦に会いにやって来たのであった。
目撃者は、滅多に見ない大男が先頭に立った集団がやって来たので、肝をつぶして湖賊と間違えたのであった。
劉邦が、自分の実家から起き出して、のん気な顔をして邑の門にやって来た。最近は、以前と違って豊にいることも多くなった彼であった。
「よお樊噲!それに皆の衆!、、、しかし、お前らでは、確かに湖賊に間違われるだろうな、、、!」
そう言って、哄笑した。邑の者たちは、この劉家ののらくら者が何と多彩な顔ぶれの仲間を持っているのか、今さらながらに驚いた。
蕭何は、すでに郡役所の勤務となっていた。
郡役所は、沛県の南にある相(しょう)の城市にあった。彼は秋が終わるまでに、親迎以外の礼を郷里で終わらせた。それから、この地に居を移した。郷里から遠くなったが、しかし親迎の時期には再び豊に戻る予定であった。
鄒家との婚礼は、たちまちのうちに決まった。もとより叔父上たちが、事前に色々と動いていたところであった。劉邦が呂家と結婚する意向を実家に伝えてから間もないうちに、両家は接触した。そして媒酌人が選ばれて、ついに正式な婚礼が始められた。
婚礼とは、家と家との繋がりである。蕭家の家長と鄒家の家長が合意した以上は、すでに両家の結婚は決定したことであった。蕭何は、何も言うことはなかった。劉邦の電撃的な結婚には、大いに驚かされた。そして自分もまた、結婚することが決まってしまった。同時に、自分と劉邦の人生が動いた気がした。やはり彼とは、切っても切れない何かの縁があると蕭何は思った。
しかし相手の阿瑾の内心は、まだ蕭何の知るところではなかった。彼女は、婚礼の話を全く素直に同意したと聞いた。婚礼の儀が続く最中では、婚約者どうしが非公式に接触することはどうしても憚られる。これまでも何度も両家の一族の立会いのもとで顔を合わせたが、彼女のことはよくわからなかった。彼女は何か、虚ろな気がした。
彼は、阿瑾が劉邦とどこかで接触があったことを、いとこの目撃談から知った。だが、どれだけの仲になっていたかは、もちろん知るところなどはなかった。蕭何は、これから妻となる娘のことが気がかりであったが、自分が必ず彼女を支えてあげなければならないと、思っていた。そのように決意して、婚礼の各段階の儀式は過ぎていった。その後には郡役所の配転があって、彼はあまりにも忙しかった。それで、彼女に関する全ては結婚してから後に引き受けようと思って、一時的に公務と新居への移転のために、頭の全てを使う日々となった。
親迎が近づいた日のこと、郷里の豊から蕭何のもとに、一通の木簡(もっかん)が届けられた。
阿瑾からのものであった。
この草の、名前を教えてくださいませ。
鄒瑾
蕭何は、不思議がった。昔、幼い彼女に草花の名前を教えてあげたことを繰り返しているのだろうか?
「―何だろう?」
木簡は、二枚重ねで紐でしばられていた。紐をほどくと、間から一包みの白布が出てきた。蕭何は、包みを開いた。中には、押された花が入っていた。
「、、、葛(かつ)だな。」
葛(かつ。クズ)は、秋によく見る草の花であった。赤紫色の花の色が、美しい。
だが、花を包んでいた白布に、何かが書かれていた。
蕭何は、それを取って見た。
それは、阿瑾の隠した伝言であった。木簡にそのまま書けば誰かに見られるので、彼女はこのような細工をしたのであった。そこには、こう書かれていた。
今度豊に戻られる際、新月の深更の時刻に、どうか邑の門の脇に来てください。お話ししたいことがあります。



